永久、二
卯の刻、矢合わせがされた。
鬨の声で、朝は明ける。
いまだ東方にて、まどろみの内にいる日輪は、馬のいななきを耳にし、武者たちが太刀を交わし合う有り様を見る。
一ノ谷。摂津の国と播磨の国との境にある狭い谷間。南には海原が広がり、北には崖が高くそびえる。馬や人が往来するには困難で、攻め落とすには難航な砦。
ここに、平家は陣を構えていた。
頼朝が挙兵し、義仲が都へ攻め入るに及んで、平家一門は都を去った。絶大な権力を誇った平清盛は、すでにこの世の人ではなく、幼少の安徳帝を奉じ、去り際、都の外れにあった六波羅の屋敷に火をかけた。その後、義仲は東国の手勢に討ち取られたが、平家一門と源氏を棟梁と仰ぐ東国の武士団との戦いが、終わったわけではない。
海原には、数千とも数えられる艘が浮かんでいる。陸地では、源氏方と平家方の武士たちが互いに名乗り、打って出ては退き、退いてはまた打って出る。
勝敗は容易に決まりそうにはなかった。
「戦っていやる」
夜叉は冷たく言う。
傍らにいる義平はいったん立ち止まり、激しく物音がする山林の向こうへ目をやった。そこで合戦が始まっている。普段であれば、近くの農民たちが使っている鄙びた通り道に、二人の他には誰もいない。
叫び、怒号、悲鳴が飛び交い、鼓舞する大声があがる。
義平はしばし動かなかった。武者たちの奮い立つ気迫が、とめどなく心に流れてくる。坂東の地で暮らした日々が、呼び覚まされる。
ふいに身体をひらりと返し、林の中へ足を踏み入れる。重なり合って伸びている枝を腕で避け、雑草を踏みつけて、斜面を下る。
古い大木の影から現れ出た義平は、目の前で数頭の馬が駆けてゆくのを見る。馬に乗る武士は、白旗を掲げているので源氏方だ。赤旗を掲げる馬上へ、勇ましく斬り込んでいく。少し離れて、赤旗の若い武者が、白旗の武士たちへ雄々しく名乗りをあげた。それに応えた者同士たちが、太刀を抜いてぶつかる。
義平は腰にある太刀の柄を、強く握りしめた。揺れる赤旗と白旗は、あの日の戦いに立ち返らせる。時を戻せば、間違いなく己もそこにいて、共に戦っていた。都の待賢門で平家の嫡子重盛と争った。長井の斎藤別当実盛に熊谷次郎直実ら、己に従った坂東の十六騎はみな力強く果敢であった。
瞼の裏に焼きつく情景と、目の前の合戦が重なる。
だが、義平は一笑した。結弦が鳴り、矢が飛び、己に放たれた矢を太刀で打ち払ったのは、二十年も昔の話。己がここにいるのは、月夜霊を捜してのこと。
――詮無きことだ。
懐かしむ気持ちを捨て去るように、背を向けた。
ちょうど、近くを一人の武士が通りかかる。偶然に義平を目にすると、皺だらけの面に、はっきりとした愕きを露わにした。
「どうなされました、父上」
傍らに馬を並べた若者は、父のおかしな様子に声をかける。
「早う、参られませんと。せっかく陣営を抜け出し、夜を待ちましたのに」
「……馬鹿な」
熊谷次郎直実は、息子の言葉も耳に入っていないようだった。