十六夜月
ふと、少年は目を覚ました。
寝入ってから、どれだけ時が経ったのだろう。淡い夢も見ないうちに起きてしまった。
再び少年は目をつぶる。だが、いったん目覚めてしまった意識は、なかなか眠りに落ちてはくれない。
仕方なく、寝床から体を起こした。
少年は少々当惑していた。寝つきの良さは、母からも乳母からも褒められていた。なのに、今宵はどうもおかしい。
その時、御簾からこぼれる光に気づいた。
少年はいとけない顔立ちに少しばかりの思慮を浮かべると、静かに寝床を立った。近くで眠る乳母や父の家来たちに気取られないように、御簾のすき間から外を覗いた。
光は、月明かりだった。
天上に浮かぶのは、十六夜の月。昏い昏い夜空で、金色に輝いている。
少年は息を呑んだ。
目の前は広大な中庭で、池が広がり、橋で繋がった小さな島がところどころ浮いている。ここで酒宴を催す父の姿を何度か目にしたが、その池のそばで、一つの影を見つけた。
それは、男だった。
夜であるにもかかわらず、少年の目には、はっきりと映った。
貴族たちが平服としている直衣の袍を身にまとい、たおやかな白い髪が背中をゆるやかに覆っている。どういうわけか袖を持ち上げて、指先を月へと差し伸べていた。まるで、月が受けとめてくれるかのように。
またそれに応じるかのように、一条の月明が周辺の闇から長身の男だけを浮き立たせている。
少年には不思議だった。ここで何をしているのだろうと。それ以前に、この屋敷へどのようにして忍んだのであろう。六波羅殿と呼称される父の許しを請わなければ、何人であろうとも、おいそれとは立ち入ることの許されない場所であるのに。
もっとよく見ようと、少年は御簾の間を駆け抜け、簀子へ出た。
なまぬるい風が吹いていた。白い寝間着姿の少年は、別段温かいとも感じなかったが、風の微妙な流れの変化に気づいたのか、月を浴びていた男がゆっくりと振り返った。
男は、少年を見た。
少年は、男を見つめた。
ああ、と小さな唇が呻いた。月が照らしだしたのは、たぐいまれなき美丈夫であった。
少年は身動きもしないで、瞼に男を捉えつづける。夜もずいぶんと更けた頃合いに、独りで外の闇と戯れているなど、およそ真面ではない。だが少年は、化生の匂いにも恐れはしなかった。ただ素朴に、男の美しさに見惚れた。
男もまた、目を逸らしはしなかった。底冷えするような両眼を、あどけない姿へ返す。
時が、どれほど刻んだかは知らない。
ふいに、男は歩を進めた。
その流れるような足並みが向かうのは、簀子に立ち尽くしたままの小さき影。
わずかな足音もたてずに傍寄ると、男は少年を少しだけ見上げた。
少年は、うっとりとしたため息を吐いた。
男の首筋にその息は触れたが、男は眉一つ動かさなかった。だが、まるで魂を奪われたかのように一途に己だけを魅入る眼に、赤い唇がうっすらと笑った。
「我が名は月夜霊。其方の名は、幼子よ」
音を奏でるような低い声が洩れた。
少年は思いもかけないことに面食らい――しかし、やわらいだ顔容ではにかむように笑むと、己の名をそっと囁いた。
二人の邂逅を、この夜に現れた月だけが静かに見つめていた。