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第九話

 逆ギレしてフォークを突きつけてくる、自称・龍の少女。

 そんな様子の少女を前に圭吾はもはや驚きを通り越して、妙な落ち着きを取り戻していた。


 目の前で起こっていることは、明らかに常識を超えている。

 だが、なぜか受け入れてしまっていた。

 彼は深く息を吸い込み、努めて穏やかな声を作った。


「あー……まあまあ、落ち着いて。とりあえず、喉も渇いたでしょう。ほら、水だよ。飲むかい?」


 圭吾は先ほど取り出したキャップの開いたペットボトルを、差し出すというよりは、テーブルの上に置くような仕草で示した。

 あえて、手渡しなどしようなどとは思わなかった。

 先ほど起こったフォークと同様のことが起こらないか少し期待していた。


「む? 水か……そうじゃな、旨いものを食べた後にはちょうど良いやもしれぬ。飲む!」


 少女が力強く頷いた瞬間、圭吾の手元にあったペットボトルが、再び何の抵抗もなくフッと消え、次の瞬間には少女の小さな両手に収まっていた。

 もはや圭吾は驚かなかった。

 いや、驚くことに疲れたのかもしれない。


 少女は、初めて見るであろうペットボトルという容器を興味深そうにじっくりと眺め回した。

 透明な樹脂の質感、奇妙な形のキャップ、側面に貼られたラベルの文字や絵柄。

 一通り観察し終えると、中の水の香りをくんくんと嗅いだ。

 そして、ようやく納得したように、ペットボトルの口を直接自分の小さな唇につけ、こくりと一口飲んだ。


 ぴたりと、少女の動きが止まる。

 緋色の瞳がわずかに見開かれ、何かを吟味するように、しばらくの間、空を見つめていた。

 そして次の瞬間、まるで堰を切ったように、ゴクゴクゴクッ!と喉を鳴らして勢いよく水を飲み始めた。

 小さな体躯には不釣り合いなほどの速さで、500ミリリットルの水がみるみるうちに減っていく。

 そして文字通り一瞬のうちに、ペットボトルは完全に空になった。


「ぷはーっ!」


 少女は、空になったペットボトルをポイと圭吾へ投げ、満足げにふう、と小さな息をついた。

 そして改めて、圭吾の方をじっと見つめた。

 その緋色の瞳には、先ほどまでの食欲や逆ギレとは違う、純粋な驚きと探求の色が浮かんでいた。


「なんじゃ、これは……! 見たこともない奇妙な容器に入った、なんと清浄な水か! まるで、魔法で作られた泉の水にも匹敵する……いや、それ以上やもしれぬ。ほんのりと甘みを感じるのに、後味には一切の雑味がない。なんとすっきりとした味わいじゃ。山の清水を汲んで、そのままこのような器に入れたとしても、決してこの味にはなるまい。不純物がなさすぎる…」


 少女は、まるで鑑定士が宝石を吟味するかのように、水の味わいを詳細に分析し、感嘆の声を漏らした。

 そして、その視線は再び圭吾に向けられ、今度は鋭さを増した。


「それに、そのお主の身に着けている服も、奇妙な素材と作りじゃ。見たこともない道具をいくつも持っておる。そして、あの得体の知れぬ、しかし猛烈に美味な料理……アヒージョとやら。問おう、お主、一体何者だ? ただの人の子ではあるまい?」


 少女の声には、先ほどまでの子供っぽさは消え、有無を言わせぬ威厳が宿っていた。

 同時に、彼女の小さな体から、目には見えないが肌で感じられるほどの強いプレッシャーが放たれ始めた。

 空気が急に重くなり、夜の冷気が一層肌に突き刺さるように感じる。


 威圧感、と呼ぶのだろうか。


 圭吾は背筋に冷たいものが走るのを感じ、じっとりと手のひらに汗が滲み出すのを自覚した。

 目の前の少女が、急に巨大な存在になったかのような錯覚に陥る。


(これが…龍の力の一部なのか…?)


 恐怖に喉が渇く。

 だが、ここで怯んではいけない気がした。

 圭吾は声が震えないように最大限の努力を払いながら、精一杯の虚勢を張って言い返した。


「それは…こちらのセリフですよ。その質問、そっくりそのままお返しします。君こそ、本当に龍なんですか?」


 圭吾の問いかけに、少女は少し意外そうな顔をしたが、すぐに「ふむ」と顎に小さな手を当てて頷いた。


「ふむ……確かに、そうじゃな。相手に名を問う前に、まずは己が名乗るのが人の世の流儀であったか。良かろう。我が名はエンヒ。緋色の龍、エンヒと呼ぶがよい」


 エンヒはそう言うと、悪戯っぽく片目をつぶった。


「まあ、今は訳あってこんな矮小な形をしておるが……これでも一応、正真正銘の龍じゃぞ」


 エンヒがそう言った瞬間、彼女の緋色の瞳が、内側から発光するように、ゆらりと妖しく輝き始めた。

 瞳の奥で、まるで揺らめく炎のような複雑な模様が浮かび上がり、瞳孔が爬虫類を思わせる鋭い形状へと変化した。

 その瞳は、もはや人間のそれではなく、計り知れない時を生きてきた、古の存在の叡智と力を宿しているように見えた。


 その瞳に見据えられた瞬間、圭吾の体は完全に強張り、金縛りにあったかのように動けなくなった。

 心臓が早鐘のように打ち、呼吸すらままならない。


 これが蛇に睨まれた蛙の気持ちか、と場違いにも思った。

 本能的な恐怖が全身の細胞を支配していた。


「自分は吉倉圭吾と申します。ご覧の通り、ただのしがないサラリーマンです。ここには……週末を利用して、キャンプをしに来ただけです。他意は、まったくありません」


 ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど上ずっていた。

 エンヒは、強張る圭吾の様子を面白がるでもなく、ただじっと見つめながら、その瞳を元の人間らしい緋色へと戻した。


「よしくら……けいご、か。ふむ……キャンプ、とやらで、わざわざこんな人里離れた山奥で野営をするという訳か。奇特な奴じゃのう。それとも、何かやましいことがあって、人目を避けておるのか? 何かに追われておるとか……」


 じろり、とエンヒが再び鋭い視線を向ける。


「め、滅相もありません! 本当にただの趣味です! 最近、仕事ばかりで疲れてしまって…昔、学生時代によく山に登っていたのを思い出して、久しぶりにやりたくなった、ただそれだけなんです!」


 必死に弁解する圭吾の言葉に、エンヒはしばらくの間、黙って耳を傾けていたが、やがて、ふむ、と小さく頷いた。


「…まあ、嘘を言っておるようには見えぬな。そういうことにしておこう」


 その言葉と共に、圭吾を圧迫していた重苦しい威圧感が、フッと霧が晴れるように消え去った。

 空気が軽くなり、呼吸が楽になる。

 圭吾は、全身の力が抜けるのを感じ、思わずはぁ、と安堵のため息をついた。


「はぁ……よかった……。しかし、本当に君は龍なのか…信じられないな。山登りをしていた大学の先輩が、『夜道で綺麗な女の人に声をかけられたと思ったら、次の瞬間には道の真ん中で一人で立ってた。あれは狐に化かされたんだ』なんて怪談をよくしてくれたけど……まさか自分が、そんな体験をするなんて……」


 半ば独り言のように呟くと、エンヒは眉を吊り上げて不快感を露わにした。


「なっ…! 狐などという、人を化かすことしか能のない下等な妖と同類にされるのは心外じゃ! 私は、天を翔け、雲を呼び、雷を操る、誇り高き歴とした龍族じゃぞ!」


 エンヒは、椅子の上でふんす!と小さな胸を張ってみせた。

 その子供っぽい仕草に、圭吾は少しだけ緊張が解けるのを感じた。


 その時だった。


 ぐぅぅぅ~~~……。


 静かな夜のキャンプサイトに、実に間の抜けた、しかしはっきりとした音が響き渡った。

 音の発生源は、偉そうに胸を張っていたエンヒのお腹だった。


 瞬間、エンヒの陶器のように白かった顔が、耳まで真っ赤に染まっていく。

 緋色の瞳が羞恥と焦りで揺れ動き、あわあわと口を開閉させた。


「あ、う……今の音は、その…」


「はは、やっぱりお腹、空いてるんじゃないか」


 圭吾は思わず笑ってしまった。

 龍だと言っても、空腹には勝てないらしい。

 その人間(?)らしい反応に、親近感すら覚えた。


「し、仕方ないじゃろう! あんな美味いものを、ほんのこれっぽっち味見させられただけなのじゃぞ! 我慢できるわけがなかろうが!」


 エンヒは完全に開き直り、椅子の上で足をジタバタさせながら、子供のように駄々をこね始めた。

 その姿は、先ほどの威厳など微塵も感じさせない。

 圭吾は苦笑しながら、まだ半分ほど中身が残っているスキレットを指さした。


「はは、分かったよ。じゃあ、残りは全部食べていいよ。実はこれ、若い頃に食べてた時の感覚で、つい作りすぎちゃってたんだ。今の俺には、もう全部は食べきれないんだよ」


 そう言いながら、圭吾は少しだけ寂しさを感じていた。

 美味しいものを、お腹いっぱい食べられない。


 そんな些細なことから、自分が確実に歳を取り、もう若くはないのだという現実を、改めて実感してしまったからだった。


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