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第七話

 夜の闇が山々を深く包み込み、星々が空の頂で輝く。

 その龍はいつものように、風の流れに乗って山の空を気ままに駆けていた。

 眼下には、水墨画のような濃淡で広がる峰々。

 耳には、夜の静寂を破るフクロウの呼び交わす声と、木々の葉が囁き合う音だけが届く。


 この自由、この静寂こそが、龍の世界。

 人たちの騒がしい町とは違う、本来の場所。


 ふと、鼻腔をくすぐる微かな匂いに気づいた。

 それは、今までこの山で嗅いだことのない種類の香りだった。

 熱した油の匂い、焦げたような香ばしさ、そして、何か…そう、心の奥底から食欲を掻き立てる濃厚な旨味の気配。


 風向きが変わるたびに、その香りは強くなったり弱くなったりしながら、龍の好奇心を刺激した。


(なんだ? この匂いは…?)


 普段、この山で漂うのは、湿った土の匂い、木々の香り、あるいは雨の気配の香りくらいのものだ。

 獣たちの匂いはもっと生々しく、花の香りは季節が限られる。


 しかし、今夜のこの香りは、明らかに「作られた」ものの匂いだった。


 しかも、それは抗いがたいほどに、心の奥深くに眠る原始的な食欲を揺り動かす、危険なほど魅力的な香りだった。


 龍は風を読み、匂いの源を探るように空を旋回した。

 香りは、どうやら山の中腹、古くから「立ち入ってはならぬ」と仲間たちの間で言い伝えられてきた、あの小さな祠のある辺りから漂ってくるようだった。


 苔むした岩に囲まれ、鬱蒼とした木々に隠された、忘れられたような場所。


 そこは、山の古い精霊たちが眠るとも、あるいは異界への入り口があるとも言われ、龍たちのような存在でさえ、むやみに近づくことを戒められていた。


(まさか、あの祠の奥から…?)


 仲間たちの警告が頭をよぎる。

 禁忌を破ることへの怖れ。


 だが、鼻腔を執拗に刺激し続ける、強烈なまでに食欲をそそる香りは、そんな理性をいとも簡単に麻痺させていく。


 今まで感じたことのない渇望が、腹の底から湧き上がってくる。


(少しだけ…匂いの正体を確かめるだけだ…)


 自分に言い聞かせ、龍は音もなく高度を下げ、祠のある場所へと向かった。


 古木の根が絡みつくように建つ小さな祠は、月明かりの下で一層神秘的な影を落としていた。


 周囲には、しんとした静寂が支配している…いや、静寂の中に、あの抗いがたい香りが満ちている。


 祠の入り口は朽ちかけた木の扉があるだけで、鍵などはかかっていない。


 龍はためらいながらも、そっとその扉に手をかけた。

 ギィ、と乾いた音を立てて扉が開く。


 中はひんやりと暗く、仄かに埃と苔の匂いがした。


 だが、それらを圧倒するように、あの美味そうな香りが奥から強く漂ってくる。


 祠の奥、祭壇のようなものの後ろに、隠し扉のようなものがあることに気づいた。


 注意深くそれを開けてみると、驚いたことに、そこには外へと続く、緩やかな下り坂の小道が伸びていたのだ。


 そして、香りは間違いなく、その道の先からやってくる。


 まるで、龍を誘い込んでいるかのように。

 龍は息をひそめ、小道へと足を踏み入れた。




 道はすぐに終わり、小さな開けた場所に出た。


 そこには、淡い光を放つ奇妙な布製の小屋があり、その前で、一人の人間が小さな炎を前にして、何やら一心不乱に調理をしているのが見えた。


 鉄の器からは、白い湯気と共に、あの強烈な香りが立ち上っている。


(人間…? こんな夜更けに、こんな場所で…?)


 驚きと共に、警戒心が湧き上がる。


 龍たちは、人間とはできるだけ関わらないようにしている。

 彼らは私たちを恐れ、時には傷つけようとするからだ。


 特に、龍の姿を見てしまえば、大抵の人間は恐怖で竦み上がり、二度と山には近づかなくなるだろう。


 それはそれで静かで良いのだが、無用な騒ぎは起こしたくない。


 だが、あの香りの正体を知りたいという好奇心と食欲は、もはや抑えきれなかった。


 人間が食べているものが、あれほどまでに魅力的な香りを放つとは。


(仕方ない…)


 私は、そっと茂みの影に身を隠し、意識を集中させた。

 体を取り巻く空気が揺らぎ、輪郭が曖昧になる。

 それは一瞬のことだった。


 次に目を開けた時、龍は、よく人里に紛れる時に使っている、人間の子供…それも、警戒心を抱かせにくい、小さな「少女」の姿になっていた。


 背丈は低くなり、視線も変わる。

 風を切って空を駆ける力は失われたが、代わりに、無垢でか弱い存在を装うことができる。


 少女の腰についている小さな古い鈴が、リィン、と微かな音を立てる。


 この鈴は、少女の存在を知らせるためのものであり、同時に、悪意あるものから身を守るための古いお守りでもあった。


 少女の姿になった龍は、茂みからそっと姿を現した。

 そして、できるだけ音を立てないように、小さな歩幅で、しかし確実に、あの香りを放つ人間の男へと近づいていった。


 彼の背中は、星空の下で食事に没頭しており、まだこちらには気づいていないようだった。


 少女の姿の龍が一歩踏み出すたびに、腰の鈴が静かな夜に、澄んだ音色を響かせた。


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