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第六話

 料理は下準備が9割、とはよく言ったものだ。

 それは山での食事となれば尚更だ。

 圭吾は今回のキャンプ飯のために、事前に完璧な献立を考え、それに合わせて食材を準備してきた。


 野菜は家でカットし、ジップロックに入れる。

 調味料は小さな容器に小分けにする。

 肉や魚介類は冷凍して保冷バッグに入れる。


 こうすることで、現地での調理時間を大幅に短縮でき、ゴミも最小限に抑えられる。

 

 この計画性と準備は、皮肉にも、彼がコンサルタントの仕事で培ってきたスキルそのものだった。


 バックパックの中から、保冷バッグに入った食材を取り出す。

 冷凍しておいたむきエビとブロッコリー。


 日中、バックパックの中で揺られている間に、ちょうどいい具合に解凍されている。


 マッシュルームはスライス済みだ。

 ニンニクも、家で薄切りにしてきたものとそのままのものを小さなタッパーに入れてある。


 小型のガスコンロに、愛用のスキレットを乗せる。

 風防を立て、ライターで火を点ける。


 ボーッという頼もしい燃焼音と共に、青い炎が立ち上がった。


 スキレットにオリーブオイルを注ぎ、ニンニクと鷹の爪を入れる。

 弱火でじっくりと加熱していくと、すぐに、あの食欲をそそる、

 たまらない香りが立ち上ってきた。


 この香りだ。


 圭吾は思わず目を細めた。


 ニンニクの香りがオイルに移り、きつね色に色づき始めたら、マッシュルームとむきエビを投入する。

 ジュワッという音と共に、白い湯気が上がる。


 そのまま焦げ付かないように時折混ぜながら、10分ほど煮込む。

 最後に、解凍したブロッコリーを加え、彩りも鮮やかになったところで、持参した小瓶入りの岩塩をパラパラと振りかけ、味を整えれば完成だ。


 もちろん、アヒージョに欠かせないフランスパンも忘れていない。

 家で一切れごとにカットし、これもジップロックに入れて持ってきている。


 コンロから熱々のスキレットを慎重に下ろし、代わりに湯沸かし用の小さなポットを火にかける。


 あっという間に湯が沸いたので、保温マグカップにティーバッグを入れ、熱湯を注ぐ。


 初夏の登山とはいえ、標高1400メートルの夕暮れは、思った以上に肌寒い。

 温かい紅茶が体に染みるだろう。


 ふと、空を見上げた。

 いつの間にか、太陽は完全に稜線の向こうに沈み、空は深い藍色に変わっていた。

 そして、その藍色のキャンバスには、まるでダイヤモンドダストを散りばめたかのように、無数の星々が瞬いていた。


 都会では決して見ることのできない、息をのむような満天の星空。

 天の川も、ぼんやりとだがその白い帯を空に架けているのが見える。


 圭吾は、スキレットの横に腰を下ろし、フォークでプリプリに火が通ったむきエビを一つ刺し、ゆっくりと口に運んだ。


 熱い!オリーブオイルの豊かな香りと、ガツンと効いたニンニクの風味、ピリッとした唐辛子の辛味、そしてエビ本来の甘みとプリっとした食感が、口の中いっぱいに広がる。

 絶妙な塩加減が、それらすべての味を引き立てている。


「……うまい」


 思わず、声が漏れた。

 それは偽りのない言葉だった。


 星空を見上げながら、一人で食べるアヒージョ。


 タワーマンションで一人、デリバリーの味気ない食事を摂るのとは全く違う。

 これは、自分の手で作り上げ、自然の中で味わう、特別なご馳走だ。


 スキレットの底に溜まった、エビとニンニク、マッシュルームの旨味が溶け出した黄金色のオリーブオイル。


 これこそがアヒージョの真髄だ。


 カットしておいたフランスパンを一切れ、フォークでオイルにたっぷりと浸す。

 オイルを吸って少し重くなったパンを、口へと放り込む。


 パンの香ばしさと、凝縮された旨味のオイルが一体となり、至福の味が口の中に広がった。


 美味い。

 本当に、美味い。




 しかし、美味いだけなのだ……

 無論、圭吾が期待していたあの時食べたアヒージョとなんら変わらない美味さだ。


 しかし、心の底にいる自分の芯、いや魂が後一つピースが足りないと訴えていた。


 圭吾は、パンとアヒージョをゆっくり交互に口に運びながら、静かに星空を眺める。


 何が足りないのだろうか。

 おそらく自分はその足りないものをここへ探しにきたはずなのだ。



 その時だった。


 リィン……リィン……


 どこからともなく、澄んだ鈴の音色が聞こえてきた。

 それは、登山者が熊除けにつける鈴の音とは異なる。


 誰がこんな山奥で鈴を鳴らす?

 この時間、この場所に、他に歩いている人がいるの 

 だろうか?


 音は、風に乗って、断続的に、しかし確実に圭吾の耳に届いていた。


 彼は食べる手を止め、音のする方向へと注意深く耳を澄ませた。


 静寂に包まれた山の夜に響く、その小さな鈴の音は、どこか神秘的で同時に少しだけ不気味な響きを帯びているようにも感じられた。

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