第四話
脳裏に、鮮やかな光景がフラッシュバックする。
大学3年生の秋、奥多摩の山深い場所。
何時間もかけて登り詰めた尾根の上から、眼下に広がる燃えるような紅葉の絶景を見下ろしながら、仲間たちと囲んだ昼食の風景。
メンバーの一人が持ってきた小さなガスコンロとスキレットで作った、あのアヒージョ。
市販のニンニクチューブではなく、生のニンニクをこれでもかと大量に投入し、オリーブオイルでじっくりと煮込んだ、シンプルだが強烈な一品。
熱々のオイルを硬いフランスパンに浸して、ハフハフ言いながら食べた。
ニンニクの強烈な香りと旨味、ピリッとした唐辛子の辛味、プリプリのエビの食感。
そして何より、澄み切った山の空気と、目の前に広がる絶景という最高のスパイスが、その味を忘れられないものにしていた。
あの頃の自分は、こんな得体の知れない虚無感や、終わりの見えない疲労感とは、まったく無縁だった。
ただひたすらに、仲間と共に山を歩き、自然の中で飯を食うことに、純粋な喜びを感じていた。
圭吾は、しばらくの間、アヒージョの写真から目を離すことができなかった。
それは単なる料理の写真ではなく、彼が失ってしまった輝かしい過去への入り口のように思えた。
彼は、その雑誌を強く握りしめると、他の商品には目もくれず、レジへと向かった。
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いつものようにエレベーターで38階まで上がり、静まり返った自室へと戻る。
重い防音ドアが閉まると、外界の喧騒は完全に遮断され、支配的な静寂が訪れる。
圭吾は、買ってきた雑誌をリビングのローテーブルの上に無造作に置くと、吸い込まれるようにバスルームへ向かった。
熱いシャワーを浴び、一日の汗と埃を洗い流す。
昨日までと同じルーティン。
そして、昨日までと同じように、バスローブ姿のまま、リビングの巨大なソファにどさりと身を沈めた。
相変わらず、テレビのリモコンにも、スマートフォンの画面にも、手を伸ばす気にはなれなかった。
だが、今日は一つだけ、昨日までとは違うものがあった。
ローテーブルの上には、先ほどコンビニで買ってきたアウトドア雑誌が、開かれたまま放置されている。
彼の視線は、自然とそちらへ引き寄せられた。
アヒージョのページ、ステーキのページ、焚き火のページ…。
彼は、まるで何かに取り憑かれたように、何度も何度も同じページを飽きることなく見返していた。
目を閉じれば、ニンニクとオリーブオイルの香ばしい匂いや、焚き火のパチパチと爆ぜる音、仲間たちの笑い声が、幻のように蘇ってくる。
それは、今の彼の灰色の日々とはあまりにも対照的な、鮮やかな色彩と生命力に満ちた世界だった。
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翌朝。
けたたましい電子音が鳴り響く前に、圭吾は自然と目を開けた。
いつものように、窓の外はまだ夜明け前の薄明かりに包まれ、カーテンの隙間から覗く空は、希望のない鉛色をしていた。
普段ならば、ここから重い体を無理やり起こすまでの間、無気力に天井を見つめ続けるだけの、苦痛な時間が始まるはずだった。
だが、今日の彼の胸の内には、昨日までとは明らかに違う、微かだが確かな熱が宿っていた。
「山できれいな景色で……美味い飯が、食べたい……」
その思いは、昨夜コンビニで雑誌を見てからずっと、彼の心の片隅でくすぶり続けていた。
単なる空腹感からくる食欲ではない。
もっと根源的で、切実な、彼の魂そのものが発している渇望のようなものだった。
あのニンニクの効いた熱々のアヒージョを、澄んだ空気の中で、絶景を眺めながら、もう一度味わいたい。
あの味を、あの自由な時間を、失われた自分自身の一部を、どうしても取り戻したかった。
「食べたい。」
そう呟くと、不思議と力が湧いてくるのを感じた。
圭吾は、勢いよくベッドから起き上がった。
冷たいフローリングの感触も、今日はそれほど不快には感じられない。
彼は迷うことなく、ウォークインクローゼットのさらに奥、普段は開けることのない収納スペースへと向かった。
そこには、彼が社会人になってからは一度も使われることなく、埃をかぶったまま眠っていた、学生時代のアウトドア用品一式が仕舞われている。
大きなバックパック、使い込まれた登山靴、寝袋、テント、そして、あの思い出のアヒージョを作るために必要不可欠な、小型のガスバーナーとスキレットのセット。
彼はそれらを一つ一つ、まるで宝物を掘り出すかのように丁寧に引っ張り出し、広々としたリビングの床の上へと並べていった。
鈍い金属の光沢、ナイロンの生地の感触、微かに残る土の匂いが、彼の五感を刺激し、忘れかけていた感覚を呼び覚ます。
カレンダーを確認する。
あと1日。
今日の仕事を乗り切れば、待ちに待った週末がやってくる。
圭吾は、いつものようにクローゼットから寸分の狂いもなくプレスされたスーツを取り出し、袖を通した。
ネクタイを選び、鏡の前で手際よくノットを作る。
しかし、鏡に映る自分の顔は、昨日までとはどこか違って見えた。
目の下のクマや額の皺は相変わらずだが、その表情には、諦観ではなく、微かな決意のようなものが滲んでいるように感じられた。
彼は、自分でも気づかないうちに、静かに、ほんの少しだけ口角を上げて微笑んでいた。
今日もこれから、あの息の詰まるようなオフィスの喧騒の中へ戻らなければならない。
終わりのないタスクと、人間関係の軋轢が待ち受けているだろう。
しかし、今の彼の胸の奥には、昨夜灯ったばかりの、キャンプ飯への想いという名の小さな、だが確かな「火」が燃えている。
それだけで、不思議と足取りは昨日よりも軽く感じられた。