表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サラリーマン、龍と異世界メシ充してます ~食いしん坊な龍と行く、最強スローライフ~   作者: オテテヤワラカカニ(旧KEINO)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/36

第三十一話

 佐藤は、圭吾の穏やかながらも真剣な眼差しに促されるように、一度深く息を吸い込んだ。

 そして堰を切ったようにぽつりぽつりと、その細い肩に重くのしかかっている案件について語り始めた。


 その声には、連日の残業とプレッシャーによる疲労の色が隠しきれず、普段は溌剌としている彼女の面影は薄い。


「実は……今、私がメインで担当させて頂いている案件が一つありまして……奥多摩での、新しい大きな農業プロジェクトの企画なんです。まだ仮の名前なんですが、『奥多摩アグリ・コンソーシアム統合プロジェクト』という、ちょっと大げさな名前がついておりまして……」


 自嘲気味にそう言って、佐藤さんは力なく微笑んだ。

 圭吾の目には、その笑顔がひどく痛々しく映った。


 彼女は手元に山積みになった資料の中から、一枚の企画概要書を抜き取り、圭吾の前にそっと差し出した。

 その紙の端は、何度もめくられたせいか少しヨレている。


「こちらが、その概要です。……課長もご存知かもしれませんが、奥多摩地域は今、人が減って高齢化も進んでいて、特に農業は後継者不足が本当に深刻なんです。使われなくなった畑も年々増えていて……」


 佐藤さんの声のトーンが一段下がる。

 資料に目を落とす圭吾の脳裏には、先日訪れた山へ続く道沿いのどこか寂しげな山村の風景が浮かんだ。

 手入れの行き届いていない畑や、空き家と思しき家屋が点在していたことを思い出す。


「ただ、一方でですね」


 佐藤さんは少し顔を上げ、言葉を継いだ。


「都心から近いという良さを活かした農業や、自然を楽しみたい都会の人たち向けの観光体験への期待もすごく高まっているんです。実際に、週末にはたくさんの観光客が訪れて、地元の新鮮な野菜は人気があります」


 その言葉には、わずかながらプロジェクトへの希望が感じられた。


「そういった背景の中で、地元でも特にしっかりしていて信頼もある五つの農家さんが、力を合わせることになったんです」


「昔ながらのキノコ農家さん、新しい技術で果物を作る農園さん、伝統的な方法で蜂蜜を作る養蜂家さん、こだわりの牛を育てる畜産農家さん、そして収穫体験が人気の観光農園さん……」


「それぞれ個性も強みも違うんですが、このままではいけないという気持ちは同じで、行政や地元の銀行も応援してくれて、地域全体を元気にするための大きなプロジェクトが動き出したんです」


 そこまで一気に説明すると、佐藤さんはふう、と細く長い息を吐いた。

 そして、圭吾の目をじっと見つめ、この案件の最も難しい部分に触れた。


「それで……弊社が、この大きなプロジェクトを最初からお手伝いする、とても名誉な機会を頂いたのですが……一番の問題は、体制なんです」


 佐藤は大きくため息をついた。


「具体的には、どなたか……どなたかお一人に、奥多摩に最低でも三年間住み込んでいただいて、プロジェクト全体をゼロから引っ張り、成功に導く役割を担っていただく必要があるんです。でも、その肝心な人が、全く見つからなくて……。計画そのものが、止まりかけている状態でして……」


 佐藤さんの声は、最後にはかき消え入りそうに小さくなった。

 彼女の視線は再び手元の資料に落ち、その指先が不安げに企画書の角を弄んでいる。


 圭吾は、彼女が提示した資料に静かに目を通しながら、その言葉の裏にある絶望的な状況を正確に理解しようと努めた。


 資料には、彼女が「ミッション」と呼ぶ、たくさんの難しい仕事が、まるで挑戦状のように箇条書きでびっしりと記されていた。


 圭吾の真剣な、それでいてどこか余裕すら感じられる佇まいに、佐藤は無意識のうちに何かを感じ取ったのかもしれない。


 あるいは、誰かにこの苦しい胸の内を打ち明けることで、少しだけ気持ちが楽になったのか。


 彼女は、堰を切ったように、そのミッションの具体的な内容と、それに伴う途方もない困難さについて語り始めた。


「まず、最初の大きな壁が、この五つの農家さんをどうやって『一つのチームにするか』です。皆さん、経営状態も持っているものも働く人もバラバラで……。単純に一つにすればいいという話ではないんです。どういう形にするのが一番良くて、税金や法律の面でも問題がなく、将来も発展できるか、本当に何もないところから考えないといけません。もちろん、新しいチームの顔となる名前やイメージをどう作るかという、とても繊細な問題も出てきます」


 佐藤さんの額には、うっすらと汗が滲んでいる。

 彼女はゴクリと唾を飲み込み、さらに声を低くして続けた。


「そして、これが一番難しくて、時間がかかると思うんですが……『地元の人たちとの話し合い』です。先ほども言いましたが、農家の方々は皆さん、長年、自分のやり方でこの奥多摩で農業を続けて、地域を支えてきたという強い誇りをお持ちです」


「中には、親子三代にわたって看板を守ってきた方もいらっしゃいます。そういう方々の中には、一つになることに、まだ抵抗感や不安を感じている方も少なくないと聞いています。表向きは協力的でも、心の底では……」


「それぞれの事情や守りたいもの、将来への心配。それを一つ一つ丁寧に聞き出して、時間をかけて信頼関係を作り、全員が心から納得して同じ方向を向けるようにするのは……正直、想像もできないほどの根気と、人と人との繋がりを築く力がいると思います」


 彼女の声には、その困難さを誰よりも理解しているが故の、深い絶望感が漂っていた。

 圭吾は、黙って頷きながら、その言葉に耳を傾ける。


 ユグドラシルの実の恩恵か、彼の頭脳は佐藤が語る複雑な状況を瞬時に整理し、それぞれの課題に対する潜在的なリスクと、それを乗り越えるためのアプローチを冷静に分析し始めていた。


「それに、ようやくチームの形が見えてきても、それで終わりではありません。次に待っているのは、『新しいチームでの仕事のやり方を作り直す』という、これまた大きな仕事です。ただ五つの農園を一つにして規模を大きくしました、では全く意味がありません」


「それぞれの得意なことをどう活かして、もっと良い結果を生み出していくか。例えば、最近よく聞く、農作物を加工して売ったり、観光と結びつけたりすることをどこまでやるか……。採れたもので何か新しい商品を作るのはもちろんですが、それだけでなく、敷地内にレストランを作るのか、泊まれる施設まで考えるのか」


「それによって必要なお金も、人も、知識も全く変わってきます。作ったものをどう運ぶか、新しいブランドをどう広めるか、インターネットと実際のお店をどう組み合わせるか……。夢を語るのは簡単ですが、それをちゃんとした、続けられるビジネスの形にして、実現できる計画にするのは、簡単なことではありません」


 佐藤は、まるで自分に言い聞かせるように、次々と課題を並べ立てる。

 その目には、不安と焦りの色が濃く浮かんでいた。


「それから、これは奥多摩だけの話ではありませんが、『後を継ぐ人や新しい働き手を見つける』ことも、このプロジェクトがうまくいくかどうかを左右するとても大切なことです」


「どんなに立派な計画を立てても、それを実行する『人』がいなければ意味がありませんから。特に若い世代の後継者不足は本当に深刻でして……。都会から若い人に来てもらうには、お給料や待遇だけでなく、彼らが奥多摩で働くことに夢ややりがいを感じられるような、魅力的な働き方や学びの機会を用意する必要があります」


「最近では海外からのお客さんも増えていますから、外国語ができるスタッフを育てたり、採用したりすることも、今から真剣に考えていかなくてはなりません。でも、そもそも、こんな山奥の、しかも農業という決して楽ではない仕事に、果たして若い人たちが魅力を感じてくれるのか……」


 彼女のため息が、静かなオフィスに重く響いた。


「そして最後に、これは私たちが得意なはずなのですが……『大都市・東京との繋がりを強くする』ことです。ふるさと納税の返礼品としてもっと魅力的になるように工夫したり、都心の高級百貨店や有名レストランに新しい販路を開拓したり。インターネットを使ったオンライン販売を強化するための、効果的なウェブサイト作りや宣伝方法を考えて実行する……。やるべきことは、本当に、本当に山積みなんです」


 とうとう、佐藤の声は途切れ途切れになり、その大きな瞳からは、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。

 彼女は両手で顔を覆い、か細い声で絞り出すように言った。


「……というわけでして、吉倉課長。誰か……誰か、このとてつもなく難しい問題の数々に、立ち向かっていけるだけの、豊富な経験と、優れた交渉力、そして何よりも、奥多摩という土地に三年間、本気で取り組む覚悟のある人が必要なんです。でも……そんなスーパーマンみたいな人、うちの会社に、本当にいるんでしょうか……。私には、もう、どうしたらいいのか……」


 オフィスに、佐藤さんのすすり泣く声だけが、痛々しく響き渡った。

 彼女の絶望感は、聞いている圭吾にも痛いほど伝わってきた。

 通常の状況であれば、圭吾自身も「それは確かに無理難題だ。気の毒に」と同情しつつも、自分には関わりのないこととして片付けてしまっただろう。


 しかし、今の圭吾は違った。

 佐藤さんの悲痛な説明を聞きながら、彼の頭脳は、まるで高性能なスーパーコンピュータのように、驚異的なスピードで情報を処理し、分析し、そして再構築を始めていた。

 彼女が一つ一つ並べ立てる困難なミッションの数々が、不思議なことに、圭吾にとっては「到底解決不可能な巨大な壁」ではなく、「一つ一つ解き明かしていくべき、知的好奇心を刺激する魅力的なパズル」のように感じられたのだ。


 それぞれの課題に対して、具体的な解決策の糸口や、斬新なアプローチのアイデアが、まるで打ち出の小槌のように、次から次へと、それも複数同時に湧き上がってくる。


 これは間違いなく、あのユグドラシルの実がもたらした、常識を超えた恩恵だ。


 単に頭が冴えるというレベルではない。


 物事の本質を見抜く洞察力、複雑に絡み合った事象を整理する分析力、そして既成概念にとらわれない創造的な発想力までもが、飛躍的に高まっているのを感じた。


 そして、「奥多摩」という地名もまた、圭吾の心に特別な響きをもたらしていた。


 先日、エンヒという異世界の龍の少女と出会い、フィリスという賢者スライムの住まう倉庫を訪れた、あの神社のあったキャンプ場も、確か奥多摩の近くだったはずだ。


 あの場所で感じた、都会の喧騒とは無縁の、澄み切った空気。

 豊かで力強い自然の息吹。


 あの場所で味わった、日常からの解放感や、未知の世界への抑えきれないときめきが、無意識のうちに、この奥多摩のプロジェクトへの興味とシンパシーを後押ししているのかもしれない。


 何よりも、今の圭吾にとって、あまりにもあっけなく、そして簡単に片付いてしまう現在のルーティン化されたデスクワークは、正直なところ、物足りなさを感じ始めていたのも事実だった。


 この研ぎ澄まされた思考力と、内から止めどなく湧き出てくるエネルギーを、もっと大きな何か、もっと困難で、もっとやりがいのある何かにぶつけてみたい。


 燻っていたそんな欲求が、佐藤さんの話を聞いているうちに、明確な形を取り始めていた。


 この「奥多摩アグリ・コンソーシアム統合プロジェクト」は、まさにその格好の舞台に思えたのだ。


 困難であればあるほど、燃える。

 今の自分なら、きっと楽しめる。


「これなら、今の自分ならできる。いや、もしかしたら、今の自分にしかできないかもしれない」


 そんな、傲慢とも取れるかもしれないが、しかし揺るぎない確信に近い強い思いが、圭吾の胸を内側から熱く焦がしていく。


 そして驚くべきことに、プロジェクトの条件である「三年間現地に常駐」という言葉も、今の彼にとっては重荷どころか、むしろ魅力的な響きを伴って聞こえていた。


 単調な日常からの刺激的な変化。

 何よりあの異世界への門の近くに暮らせる。


 佐藤さんが顔を覆い、オフィスに重苦しい沈黙が支配した、まさにその時だった。


「佐藤さん」


 圭吾は、先ほどよりも一層落ち着いた、それでいて聞く者の心を捉えるような、不思議な力強さを秘めた声で切り出した。


 佐藤さんがゆっくりと顔を上げる。涙で濡れたその大きな瞳には、わずかな期待の色と、しかしそれ以上に深い諦めの色が混じり合っていた。

 圭吾は、その潤んだ瞳をまっすぐに見つめ返し、そして、きっぱりとした口調で、はっきりと告げた。


「その奥多摩の件だけど」


 一瞬の間。

 周囲の喧騒が嘘のように遠のき、オフィスには緊張感が走った。


「俺がやろう。その奥多摩のまとめ役、俺にやらせてくれないか」


 その言葉は、まるで静かな湖面に投じられた一石のように、オフィス全体に小さな、しかし確かな波紋を広げた。


 佐藤さんは、信じられないというように目を瞬かせ、次の瞬間には大きく見開き、あんぐりと口を開けたまま完全に言葉を失っている。


 その顔には、驚愕、困惑、そしてほんのわずかな、信じられないような希望の光が複雑に交錯していた。


 偶然、圭吾たちの会話の成り行きを固唾を飲んで見守っていた、周囲の数人の同僚たちも、今聞いた言葉が信じられないといった表情で、一斉にこちらを振り返り、動きを止めている。


 普段の、どちらかと言えば事なかれ主義で、面倒事を避けて通る吉倉圭吾を知る者ほど、今の提案はあり得ない、まさに青天の霹靂としか言いようのないものに聞こえただろう。


 圭吾は、そんな周囲の驚きの視線を意に介すこともなく、続けた。

 その声には、確固たる自信と、これから始まるであろう困難な道のりに対する、静かな武者震いのような興奮が感じられた。


「このプロジェクトをやらせてほしい。それに、何だか無性に面白そうじゃないか、奥多摩での新しい挑戦は」


 その表情には、一点の曇りもなく、まるで遠くの目標をしっかりと見据えているかのような、力強い光が宿っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ