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第三話

 夜の帳が完全に降りた渋谷の街を、吉倉圭吾はまるで意思のない漂流物のように、絶え間なく押し寄せる人波に流されていた。


 時刻は20時をとうに過ぎている。

 昨日、定時で帰宅した分、残業をするしか無かった。


 蛍光灯の下で過ごした長い一日の残滓が、スーツの襟元をじっとりと湿らせる汗となって現れていた。

 ネクタイはすでに結び目を緩め、シャツの第一ボタンも外しているが、息苦しさは少しも和らがない。


 オフィスという名の戦場からようやく解放されたのは、つい先ほどのことだ。


 今日もまた、終わりの見えない会議の連続、返信しても返信しても減らないメールの洪水、神経を逆撫でする部下の緊張した視線、そして責任の所在を曖昧にしたまま丸投げされる上司の指示に、心身ともにすり減らされた一日だった。


 渋谷駅のハチ公口からスクランブル交差点へと向かう人の流れは、まるで巨大な生き物の脈動のように、絶えずうねり続けている。


 色とりどりのネオンサインが明滅し、大型ビジョンからは耳障りな広告映像と音楽が垂れ流される。


 クラクション、話し声、外国語、笑い声、足音――あらゆる音が渾然一体となり、飽和した音響となって圭吾の鼓膜を叩く。


 この都心の雑踏は、彼の内面で渦巻く焦燥感や疲労感を打ち消してくれるどころか、むしろ増幅させ、共鳴しているかのように感じられた。


 誰も彼もが、それぞれの目的を持って忙しなく行き交う中で、圭吾だけがどこへ向かうべきかを見失った迷子のようだった。


 ようやく改札を抜け、地下鉄への乗り換え通路へと向かう途中、煌々と明るいコンビニエンスストアの白い光が視界の端に入った。


 普段ならば、高級マンションのコンシェルジュに頼めば何でも手に入る生活をしている彼が、雑多なコンビニに立ち寄ることなど滅多にない。


 だが、その夜は違った。

 何かに引き寄せられるように、彼の足は自然とそちらへ向かい、自動ドアの前で止まった。


 ガラス越しに見える雑誌コーナー。

 様々なジャンルの表紙が並ぶ中で、ひときわ鮮やかな色彩を放つ一冊が、圭吾の疲れた視線を強く捉えたのだ。


 それは、登山やキャンプを特集するアウトドア雑誌だった。

 表紙には、息を呑むような美しい湖畔の風景が広がっている。


 夕暮れ時だろうか、オレンジ色に染まる空の下、テントが張られ、その前で揺らめく焚き火を、数人の男女が笑顔で囲んでいる。


 そして、その中央には、大きな鉄製のスキレット鍋に盛られた、見るからに美味そうな料理の写真が大きく掲載されていた。

 湯気が立ち上り、食欲をそそる焼き色が付けられている。


 力強いゴシック体の見出しには、こう躍っていた。


「この景色が最高のスパイス!絶景で食べる、極上キャンプ飯!」


 なぜだろうか。

 そのよく見る光景、ありふれたキャッチコピーに、圭吾の胸は不意にざわついた。


 それは、懐かしさとも、憧れともつかない、複雑な感情の波紋だった。


 まるで磁石に引き寄せられる鉄のように、彼は無意識のうちに店内へ足を踏み入れ、一直線に雑誌コーナーへと向かい、そのアウトドア雑誌を手に取った。

 ずっしりとした紙の重みが、妙にリアルに感じられた。


 レジから少し離れた場所で、彼はパラパラと、やや乱暴にページをめくり始めた。


 目に飛び込んでくるのは、自然の中で楽しむ食事の数々。


 串に刺したマシュマロを焚き火で炙り、表面がとろりと溶けて焦げ目がついた瞬間の、あの甘く香ばしい香りが漂ってきそうな写真。


 分厚いステーキを炭火で豪快に焼き上げ、ナイフを入れると肉汁が溢れ出す、そのジューシーな断面を捉えたクローズアップ。


 ダッチオーブンで作る丸鶏のロースト、飯盒で炊いたばかりの湯気が立つ白いご飯、スキレットで作る焼きカレー…。


 どの料理も、決して洗練されているとは言えない。


 むしろ、どこか素朴で、手間を惜しまない手作り感が溢れている。


 彼が仕事柄、毎晩のように高級料亭や星付きレストランでの接待や会食で口にしてきた、計算され尽くしたフレンチのフルコースや、芸術的なまでに美しい江戸前寿司とは、まさに好対照の世界だった。


 そこには、見栄や体裁といったものは一切なく、ただ純粋に「食べる」という行為の喜びと、仲間と共有する時間の温かさが凝縮されているように見えた。


 無骨で、飾り気がなく、しかし、だからこそ強く心を惹きつける何かがあった。


 圭吾の指が、あるページの上でぴたりと止まった。


 それは、小さな鉄鍋スキレットを使ったアヒージョの特集ページだった。

 たっぷりのオリーブオイルの中で、剥き身のエビと、スライスされたニンニク、鷹の爪が、まさに今、グツグツと音を立てて煮えているかのような、臨場感あふれる写真。

 オイルは黄金色に輝き、ニンニクはきつね色に色づき始めている。

 添えられたバゲットには、香ばしい焼き色がついていた。

 写真の横には、こんな威勢のいい見出しが添えられていた。


「疲れた体にガツンと効く!ニンニクマシマシでパンチを効かせろ!」


 その瞬間、圭吾の胸の奥深くで、何かがプチリと弾けるような感覚があった。


 まるで、長い間固く閉ざされていた記憶の扉が、突然こじ開けられたかのように。


「……あの味だ」


 声にならない声が、喉の奥で微かに震えた。

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