第二十八話
そんなこんなで時間を潰していると玄関のインターホンが軽快なチャイムを鳴らした。
「むっ!?」
エンヒは音に驚き、素早く立ち上がって身構えた。
その目は警戒の色を浮かべ、まるで侵入者を迎え撃つかのようにインターホンの方を睨んでいる。
「だ、大丈夫だ、エンヒ。あれは料理を届けに来てくれた人がついたって音だよ」
圭吾は慌ててエンヒをなだめ、インターホンの画面を確認する。
そこにはヘルメットを被り、ロゴが入ったジャンパーを着た配達員の姿があった。
「はーい、今開けます」
圭吾がドアを開けると、湯気の立つ温かそうな容器が入ったビニール袋を提げた配達員がにこやかに立っていた。
「ご注文のカツ丼二つです。ありがとうございましたー」
商品を受け取る。
エンヒはその間、リビングの入口からこっそりと、しかし興味津々な様子で一部始終を観察していた。
彼女にとって、この「でまえ」という文化そのものが、一つの冒険なのだろう。
圭吾がローテーブルの上にカツ丼の容器を置くと、エンヒはまるで宝箱でも見るかのような目でそれを凝視した。
ふわりと漂ってくる甘辛い出汁と揚げ物の香ばしい匂いが、二人の空腹感を一層刺激する。
「さあ、温かいうちに食べよう」
圭吾が言うと、エンヒは待ちきれないといった様子で頷いた。
容器の蓋を開けると、立ち昇る湯気と共に、カツ丼の全貌が現れる。
艶やかな卵が肉厚なカツを包み込み、その下には出汁を吸ったご飯が顔を覗かせている。
三つ葉の緑が彩りを添え、まさに食欲をそそる芸術品だ。
「おお……おおおっ! これが『かつどん』! なんという、なんという芳醇な香りじゃ! そしてこの、黄金と純白の織りなす色彩の調和!」
エンヒは感嘆の声を上げ、瞳をキラキラと輝かせている。
圭吾はそんな彼女に割り箸を手渡した。
「えーと、箸は使えるか? 使えなければフォークもあるけど」
「はし……? こうか?」
エンヒは割り箸を手に取り、見よう見まねで使おうとするが、なかなか上手く掴めない。
指先がぎこちなく動き、カツを挟もうとしては滑り落としてしまう。
その様子が微笑ましく、圭吾は丁寧に持ち方と使い方を教えた。
魔法を操る指先も、割り箸の扱いには苦戦するらしい。
何度か練習するうちに、エンヒは不格好ながらもなんとかカツの一切れを挟み上げることに成功した。
そして、いよいよその一口目を口に運ぶ。
サクッ……。
エンヒの口から、小気味よい衣の音が響いた。
次の瞬間、彼女の目が驚きに見開かれる。
そして、ゆっくりと咀嚼し、味わう。
その表情は真剣そのものだ。
カツの衣の香ばしさとサクサクとした食感。
続いて、厚切り豚肉のジューシーな旨味と柔らかな歯ごたえ。
それらを優しく包み込む、出汁の風味豊かなとろりとした卵。
甘く煮込まれた玉ねぎの食感も良いアクセントになっている。
そして、それら全ての旨味を吸い込んだ、ふっくらとしたご飯。
「む……むむむっ!」
エンヒは言葉を発することなく、ただひたすらにカツ丼を頬張り続けた。
口の周りにご飯粒をつけながら、夢中で箸を動かす姿は、神々しい龍の少女の威厳はどこへやら、ただの腹ペコの少女といった風情だ。
異世界の料理との比較などする余裕もないのか、ただ目の前のカツ丼という未知の美味に没頭している。
圭吾はそんなエンヒの様子を微笑ましく眺めながら、自身もカツ丼を味わった。
いつもの馴染みの味だが、こうして誰かと一緒に、しかもこれほどまでに感動して食べてくれる相手がいると、格別に美味しく感じられるから不思議だ。
やがて、エンヒの丼から最後の一粒のご飯が消えた。
彼女は割り箸を置き、ふぅーっと満足げな溜め息をついた。
その顔は達成感と幸福感に満ち溢れている。
「どうだった? エンヒ。初めてのカツ丼は」
圭吾が尋ねると、エンヒはしばし陶然とした表情で宙を見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
それは、彼女ならではの、壮大かつ情熱的な食レポの始まりだった。
「圭吾よ……これは……これは、なんという魔の料理なのじゃ!」
エンヒは感動を抑えきれないといった様子で、身を乗り出した。
「まず、この黄金色の揚げ物! サクリと揚げられている部分と卵がかかりしっとりとした部分が共存しハーモニーを生み出しておる。噛み砕けば、カリリ、ジュワリと小気味よい音が魂に響き渡り、その奥からは、肉汁と掛けられたタレがじゅわりと溢れ出す! 」
「この豚なる獣の肉は、かくも優しく、そして力強い味わいを持つものなのか! 私の故郷の森で狩る猪や鹿とも違う、凝縮された旨みを感じるぞ!」
彼女は言葉を切り、恍惚とした表情で続ける。
「そして、この肉塊を覆う、ふわふわとろりとした黄色い衣! これは、コカトリスのいや、ワイバーンの卵にも匹敵する美味さじゃ! 口に含めば、甘く、そしてどこか懐かしい優しい味わいが舌の上でとろけ、先ほどの力強い肉の風味を、母なる大地の慈愛のように包み込むのじゃ! この甘さは、森で採れる蜜とはまた異なる、もっと深く、複雑な甘露じゃな!」
エンヒはさらに熱っぽく語る。
「それだけではないぞ! この黄色い衣の下には、透明な宝石のような野菜が隠れておった! 最初は目立たぬ存在かと思いきや、これがまた絶妙な歯ごたえと、煮込まれることで引き出されたであろう自然な甘みで、全体の調和を一段と高めておる! シャクリとした食感と、とろりとした卵の対比も見事じゃ!」
彼女は丼を愛おしそうに見つめながら、クライマックスへと向かう。
「極めつけは、これら全ての素材を一つにまとめ上げ、その旨味を余すところなく吸い込んだ、この輝く穀物たち! これらに染み渡る、甘辛い『たれ』なる液体! これはもはや、ただの調味料ではない! このたれが、穀物の一粒一粒に命を吹き込み、口の中で肉と卵と野菜が手を取り合い、至福の舞を踊り始めるのじゃ! ああ、この一体感! それぞれが個性を主張しながらも、見事に調和しておる! まるで、熟練の楽団が奏でる壮大な交響曲のようじゃ!」
エンヒは感極まったように両手を広げ、高らかに宣言した。
「むぅぅううう! この『かつどん』なる料理、わらわがこれまでに人の世で食したどんなご馳走よりも……食べた者の心に、生きる喜びと活力を与える、まさに『力の料理』と言えようぞ!」
熱弁を振るい終えたエンヒは、はぁ、はぁ、と軽く息を切らしている。
圭吾は、そのあまりにも情熱的で独特な食レポに、ただただ圧倒されていた。
「はは……そこまで気に入ってくれると、勧めた甲斐があったよ」
圭吾がようやく言葉を返すと、エンヒは満足そうににっこりと笑った。
「うむ! 感謝するぞ、けいご! このような素晴らしい食文化を持つ世界に案内してくれたこと、そして、この絶品なる『かつどん』を教えてくれたこと、重ねて礼を申す!」
そして、真剣な眼差しで圭吾を見つめ、少し遠慮がちに尋ねた。
「して、けいごよ。この『かつどん』は……その……また食べられるものなのじゃろうか……?」
その瞳には、隠しきれない期待が宿っている。
圭吾は思わず笑みをこぼし、力強く頷いた。
「もちろんさ。カツ丼は日本のどこでも食べられる人気メニューだし、俺が作ることだってできるよ」
「なんと! 圭吾がこれを!? それはますます楽しみじゃ!」
エンヒは子供のようにはしゃぎ、その場で小さく飛び跳ねた。
食後の満足感と、新たな美味への期待感。
部屋の中は、カツ丼の残り香と、二人の穏やかで満ち足りた空気で満たされていた。




