第二十七話
圭吾はふと気がついた。
自分の家へ他人を招いたのはいつ以来だろう。
やや緊張した面持ちで自室のドアノブに手をかけ、ゆっくりと開いた。
ローテーブルの上にはキャンプ飯の雑誌が置かれている。
キャンプ用具を物置の奥底から取り出したため、荷物が少し散らかっていた。
良くも悪くも、独身男性の生活感に満ちた部屋だった。
「さあ、どうぞ。散らかってるかもしれないけど、ゆっくりしていってくれ」
圭吾がそう言ってエンヒを招き入れると、彼女は興味津々といった様子で部屋の中を見回した。
緋色の瞳が、壁の素材から家具の形状、果ては天井の照明器具まで、あらゆるものを珍しそうに観察している。
異世界の石造りの神殿や、フィリスの倉庫とは全く異なる、現代的な内装は、彼女にとって新鮮な驚きに満ちているようだった。
「ふむ……ここがけいごの家か。壁は滑らかで、床は硬いが平らじゃ。そして、あの四角い板は何じゃ?」
エンヒは壁にかけられた大型の液晶テレビを指差した。
電源は入っていないが、黒い画面には部屋の様子がぼんやりと反射している。
「あれはテレビだよ。映像を映し出す機械だ。今は消えてるけどね」
圭吾はそう答えながら、エンヒにローテーブルのそばにあるソファーを勧めた。
エンヒは物珍しそうにソファーに置かれているクッションをぷにぷにと押し、それからおずおずと腰を下ろした。
その仕草がどこか小動物のようで、圭吾は思わず頬が緩む。
「さてと……腹も減っただろう。何か作ろうかとも思ったけど、今日はさすがに俺も疲れたし」
圭吾はキッチンの方を一瞥しため息をついた。
「こういう時は、文明の利器に頼るに限る」
呟きながら、スマホを取り出す。
「出前を頼もうと思うんだが、エンヒはそれでいいか?」
「でまえ?」
エンヒは首を傾げた。初めて聞く言葉に、彼女の好奇心が刺激されたようだ。
「ああ、電話とか、最近だとこういう機械で注文すると、配達人人が料理をここまで届けてくれるんだ。家から出なくても、温かいものが食べられる便利な仕組みだよ」
圭吾は自分のスマートフォンを取り出し、出前アプリの画面を見せた。
色とりどりの料理写真が並んでいるのを見て、エンヒは「おおっ!」と目を輝かせた。
「なんと! この輝く板から望む食事を呼び寄せられるというのか!? それはもはや魔法の域じゃな!」
「まあ、魔法みたいなものかもな」
圭吾は苦笑いしつつ、いくつかの料理ジャンルをスクロールして見せた。
寿司、ラーメン、カレーライス、そして丼物。
エンヒは画面に表示される写真の一つ一つに食い入るように見入っている。
特に、ボリュームのありそうな料理には、ことさら強い興味を示しているようだ。
「さて、何にするか。エンヒ、何か食べたいものはあるか? この世界の料理は初めてだろうから、俺がおすすめを選んでもいいが」
「うむ! 圭吾の勧めるものなら、間違いあるまい! わらわに、この世界の『美味』というものを教えてくれ!」
エンヒは期待に満ちた瞳で圭吾を見上げた。
その純粋な眼差しに、圭吾は少しプレッシャーを感じつつも、日本を代表する庶民の味の一つを思い浮かべた。
「よし、それなら…『カツ丼』っていうのはどうだ? 豚っていう家畜の肉に衣をつけて揚げたものと、少し辛みのある野菜を卵と甘辛いタレでとじて、ご飯の上に乗せた料理なんだが」
圭吾がそう言うと、スマートフォンでカツ丼の鮮明な写真を表示させた。
黄金色のカツ、とろりとした半熟の卵、甘辛そうな出汁の色合い。
それは見ているだけで食欲をそそる、完璧なビジュアルだった。
「『かつどん』……なんとも力強い響きの名じゃな! それにしてもこのすまほとやらに映る料理はどれもこれも魅力的じゃな!かつどん!それで頼む!」
エンヒは写真から目を離さず、ごくりと喉を鳴らした。
どうやらカツ丼は、彼女の琴線に強く触れたらしい。
圭吾は満足そうに頷き、早速アプリで近所の評判の良い店からカツ丼を二人前注文した。
配達予定時刻は約三十分後と表示された。
「さて、料理が届くまで少し待つんだ。その間、何か飲むか?」
圭吾が冷蔵庫から麦茶を取り出す。
ガラス製のコップに注がれた琥珀色の液体をエンヒは興味津々に覗きこむ。
「麦茶っていう飲み物だよ。まあ苦手な人はほとんどいない飲み物さ」
絹のように滑らかな翡翠色の髪が、白い頬にかかる。
グラスを手に取り、彼女がこくりと喉を鳴らすと、緋色の瞳が満足そうに細められた。
「ぷはーっ。……むぎちゃ、とは面白いものだな。香ばしくて、どこか懐かしい味がする」
エンヒは、その小さな唇でそう呟いた。
コップをローテーブルに置き、エンヒはふと壁にかけられた大きな黒い板に目を向けた。
「けいご、あのてれびとやらは動くのか?」
エンヒは警戒するように、こめかみをピクリと動かす。
圭吾はリモコンを手に取り、こともなげに壁掛けの大型テレビの電源を入れた。
瞬間、漆黒だった板がまばゆい光を放ち、突如として色鮮やかな風景と、その中で動く人間たちの姿を映し出した。軽快な音楽が部屋に響き渡る。
「ぬわぁっ! な、なんだこれはっ!? 板が…板が光って人が! 人が中にいるだと!?」
エンヒは思わず数歩後ずさり、ソファーの上でひっくり返りそうになる。
その目は大きく見開かれ、信じられないものを見たかのように画面に釘付けになった。
画面の中では、きらびやかな衣装を纏った人間たちが、理解不能な動きで歌い踊っている。それはエンヒの知るどんな舞とも、儀式とも異なっていた。
「な、何かの妖術か!? それとも幻術か!? けいご、これは一体どういうカラクリなのだ! 」
エンヒは最初、それが何かの呪いや邪悪な儀式ではないかと本気で疑い、顔を青ざめさせた。
圭吾が慌てて説明しても、すぐには理解できない。
どうやら「あいどる」と呼ばれる存在が歌い踊っているらしいが、エンヒにとってはその概念自体が理解の範疇を超えていた。
「あいどる? それは神か? それとも精霊の類か? あのような姿で……あのような歌を……」
エンヒは混乱しきった表情で、めまぐるしく変わる画面と圭吾の顔を交互に見つめた。
圭吾の住む世界は、彼女にとってあまりにも不可解なもので満ちている。
彼女はゴクリと唾を飲み込み、ただただ呆然と光の箱を見つめるしかなかった。




