第二十一話
三人は、倉庫の中央にある大きな木のテーブルを囲むようにして腰を下ろした。
目の前には、湯気を立てる熱々のカレーリゾット。
手には、魔法で作られた鉄製のスプーン。
不思議なことがあり過ぎるが食欲をそそる香りの前では、些細なことだった。
「さあ、冷めないうちに、いただきましょうか」
フィリスが優雅に言う。
「うむ! 食うぞ!」
エンヒは、圭吾の「熱いから気をつけて」という言葉などまるで耳に入っていないかのように、大きなスプーンでリゾットをたっぷりとすくい上げ、勢いよく口へと運んだ。
「はふっ、はふっ……うおぉぉぉぉっ!!!」
次の瞬間、エンヒは目をカッと見開き、叫んだ。
「こ、これはっ! 鼻腔を突き抜ける鮮烈な香辛料の刺激! それを包み込む、チーズの濃厚でまろやかな味わい! そして、とろりとした卵が全体を優しくまとめ上げ! なんという……なんという多重的な美味さじゃ! けいご、最高じゃーっ!!」
エンヒは、頬をリスのようにぷっくりと膨らませながら、夢中でリゾットを頬張っている。
その瞳は、感動で星のようにキラキラと輝いていた。
一方、フィリスは、エンヒとは対照的に、実に優雅な所作でスプーンを口に運んだ。
そして、一口味わうと、ぴたり、と動きを止め、わずかに目を見開いた。
「……これは……!」
フィリスは小さく呟くと、目を閉じ、その味をじっくりと吟味するように、ゆっくりと咀嚼を始めた。
長い黒髪が、彼女の白い首筋にかかる。
倉庫の隙間から差し込む陽光が、彼女の横顔を神秘的に照らし出していた。
「……なるほど、『かれー』とやらの、幾重にも重なった奥深い辛さと香り、焼かれた肉の香ばしい旨味、それを引き立てる、チーズの塩気と豊かなコク。そして、半熟の卵が全てを繋ぎ、とろけるような食感を生み出している……完璧な調和ね……」
フィリスは、うっとりとした表情で呟いた。
その反応は、エンヒのような激しいものではないが、深い感動が伝わってくる。
「ええ、本当に、素晴らしいわ。まさか、貴方の世界では、これほどの料理が食べられているなんて……」
フィリスの感動がピークに達した、まさにその瞬間だった。
ぷるんっ
フィリスの身体が、まるでゼリーか何かのように、奇妙な弾力をもって揺れた。
そして、次の瞬間、彼女の美しい人間の姿が、まるで蜃気楼のように崩れ始めたのだ。
「あっ!」
フィリスが、しまった、というような短い声を上げた。
流れるようなローブがはらりと滑り落ち、中から現れたのは……人間ではない、何か。
紫がかった半透明の、不定形なスライムのような物体だった。
それはテーブルの上にどろり、と広がり、ゼリーのような質感の表面には、彼女の瞳の色と同じ、深い紫色の光が星のように明滅している。
圭吾は、目の前で起こったあまりの出来事に、完全に思考が停止した。
「え……えええええっ!?」
スライムは、数秒で再びフィリスという人間の形を取り戻した。
しかし、慌てて戻ったせいか、先ほどまで身に纏っていた深紫色のローブは肩からずり落ち、滑らかな肩と、豊かな胸元が大胆に露わになっていた。
白い肌が、倉庫の薄明かりの中で艶めかしく輝いている。
その姿は、先ほどまでの神秘的な賢者というよりは、むしろ非常にセクシーで、圭吾は思わずゴクリと喉を鳴らした。
「フィリスさん!?」
圭吾が目を丸くして、その露わになった姿をガン見していると、隣からエンヒの叫び声と共に、両手でバシッと圭吾の目を覆われた。
「こらー! 見るな、助平!」
「フィリス! はしたないぞ! ちゃんと服を着ろ!」
エンヒは、圭吾の目を覆いながら、フィリスに向かって叫んでいる。
だが、その声はどこか上ずっており、彼女自身も顔を真っ赤にしているのが、圭吾には覆われた手の隙間から見えた。
一方のフィリスは、悪びれる様子もなく、くすくすと楽しそうに笑いながら、ずり落ちたローブをゆっくりと肩にかけ直した。
「あらあら、ごめんなさいね。ふふ、失礼したわ。あまりにもこのリゾットが美味しすぎて、感動のあまり、つい人化の魔法が解けてしまったみたい」
彼女は、悪戯っぽく舌をぺろりと出した。
圭吾は、エンヒの手をなんとか外し、まだ信じられないといった表情でフィリスを見つめた。
「す、ス、スライム…だったんですか!? 」
フィリスは、圭吾の驚愕ぶりに、さらに楽しそうに微笑んだ。
「ええ、そうよ。驚いたの? スライムだからって、別に驚くことなんてないでしょう? 長く生きてるとね、肉体の形なんて、大して重要じゃなくなるものよ」
彼女は軽く肩をすくめると、何事もなかったかのように、再びスプーンを手に取り、カレーリゾットを食べ始めた。
その優雅な食べ方は、先ほどのスライム形態への変身という衝撃的なハプニングの後でも、全く変わらない。
その飄々とした態度に、圭吾は彼女の計り知れない器の大きさを感じた。
「うん……何度食べても、これは実に美味ね」
フィリスは満足げに頷いた。
「龍の魂を絆すだけのことはあるわ。ええ、このような料理なら、エンヒの契約の対価として、十分にふさわしい。私が保証するわ」
「だから言ったじゃろ! けいごの飯は特別なんじゃ!」
フィリスの太鼓判に、エンヒはまるで美味しいのは自分の功績のように胸を張って得意げな表情を見せた。
彼女はすでに自分の紙皿を綺麗に空にしており、名残惜しそうにスプーンを舐めている。
「のう、けいご! もう一皿! もう一皿だけ食わせろ!」
「はは、ごめんごめん。もうレトルトカレーもご飯も使い切っちゃったから、材料がもうないんだよ」
圭吾は笑いながら答えた。
倉庫の窓から差し込む異世界の陽光が、三人の食卓を温かく照らしている。
契約の紋、異世界、龍、そしてスライムの賢者。
あまりにも現実離れした状況の中で、カレーリゾットは、確かな温もりと満足感を圭吾達にもたらしてくれていた。




