第二話
タクシーで乗り付けたオフィスビルは、都心の一等地に聳え立つガラスと鋼鉄の巨塔だった。
セキュリティゲートを抜け、専用エレベーターで自分の執務フロアへと上がる。
フロアに足を踏入れた瞬間、独特の緊張感と、空調の効いた無機質な空気が圭吾を包み込んだ。
彼を待ち受けているのは、今日もまた、終わりの見えない会議、処理しても処理しても際限なく増え続けるメールの洪水、そして深夜まで続くであろう膨大なタスクの山だ。
圭吾のデスクは、フロアの一角にあるガラス張りの会議室のすぐ隣に位置している。
その会議室の中では、すでに朝一番のミーティングが始まっていた。
彼のチームの部下たちが、一様に緊張した面持ちで手元の資料を神経質にめくり、上司である圭吾の言葉ではなく、さらにその上の役員の顔色を窺いながら、こわばった笑顔で頷いている。
誰もが自分の評価と保身に必死で、そこには協力や信頼といったポジティブな感情の入り込む余地はない。
笑顔は常にビジネスライクで、その裏には計算と警戒心が透けて見える。
心を許し、本音で語り合えるような相手など、この巨大な組織の中には一人もいない。
少なくとも、圭吾はそう感じていた。
自席に着くと、すぐに内線が鳴った。
「吉倉さん、おはようございます。例のM&Aの件ですが、先方から追加の質問リストが来ておりまして……」
休む間もなく、仕事の要求が押し寄せる。
PCを起動すると、メールソフトの受信トレイには、すでに20件を超える未読メッセージが溜まっていた。
そのほとんどの件名に、「至急」「最重要」「本日中」といった、彼の神経を逆撫でするような枕詞が付けられている。
午前中の会議を終え、昼食はデスクでサンドイッチを数口齧っただけで済ませた。
午後は、クライアントとのオンラインミーティングが立て続けに入っている。
画面越しに、完璧な理論武装と自信に満ちた態度を演じ続けなければならない。
内心の疲労や疑念を微塵も悟られてはならない。
それがプロフェッショナルとしての彼の役割であり、高額な報酬を得る対価だった。
時計の針が17時を指す頃、窓の外はうっすらとした夕日に照らされ、ビルの影が長く伸びていた。
オフィス街のビル群の窓には無数の光が灯っている。
オフィスの蛍光灯だけが、昼間と変わらず白々とした光を放ち続け、窓ガラスには疲れ切った自分の姿がまるで幽霊のようにぼんやりと映り込んでいた。
その姿は、彼自身が見ても痛々しいほどだった。
フロアにはまだ多くの社員が残り、キーボードを叩く乾いたタイピング音と、時折交わされる低い声だけが響いている。
それが、この会社の日常だった。
圭吾は、ふと、衝動的に立ち上がり、ハンガーにかけてあったコートを手に取った。
いつもなら、ここからさらに数時間、あるいは終電間際までデスクに向かうのが常だった。
「あれ……吉倉さん、もうお帰りですか?」
背後から、部下の声がした。
まだ20代後半の彼女は、いつもどこか自信なさげで、上司である圭吾に対して怯えたような目をしている。
彼女の声には、純粋な驚きと、わずかな戸惑いの響きが含まれていた。
圭吾が定時で帰ることなど、ほとんど前例がないからだろう。
「ああ、うん。今日はちょっと、野暮用があってね……」
圭吾は、曖昧に言葉を濁しながら、彼女の方を振り向かずにオフィスを後にした。
エレベーターに乗り込み、ドアが閉まる瞬間、フロアに残る部下たちの視線が背中に突き刺さるような気がした。
定時で帰る。
それは、彼が毎朝、自分に言い聞かせていたことのはずだ。
それなのに、その決断を実行に移した今、心が軽くなるどころか、なぜか言いようのない罪悪感と、胸の奥底に重い鉛のようなものがずっしりと沈殿していくような、奇妙な感覚に襲われていた。
それはまるで、自分がいるべき場所から逃げ出した敗残者のような……。
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タクシーで自宅マンションに戻り、重い足取りで部屋に入った。
リビングの照明をつける気力もなく、薄暗がりの中、一直線にバスルームへ向かう。
熱いシャワーを浴びながら、一日の汚れと共に、心の澱も洗い流そうと試みた。
しかし、湯が肌を伝う感覚は心地よいはずなのに、心は少しも軽くならなかった。
バスローブを羽織り、リビングに戻ると、そのまま吸い込まれるように、深く大きなソファに身を沈めた。
水滴がまだ乾ききらない髪から滴り落ち、頬を伝っていく。
ふと、サイドテーブルに置かれた鏡が目に入った。
そこに映っていたのは、この世の終わりのような、疲れ果てて生気を失った自分の顔だった。
濡れた頬を伝う水滴が、まるで止めどなく流れる涙のように見えて、圭吾は自嘲的な笑みを浮かべた。
リビングは、高級な家具や調度品で満たされているにも関わらず、がらんとして冷ややかに感じられた。
テレビをつける気も、スマートフォンを手に取る気も起きない。
ただ、耳鳴りのような静寂の中で、自分の心がキリキリと音を立てて擦り減っていく感覚だけが、妙にリアルに感じられた。
まるで、ヤスリで少しずつ削られているような、鈍い痛み。
「一体……何のために、こんなに働いているんだろう……」
その言葉は、意図せず、ほとんど囁きのように口から漏れ出た。
自分でもその言葉を発したことに驚いた。
ずっと心の奥底、分厚い壁の向こうに閉じ込めていたはずの根源的な疑問が、ついに堰を切ったように言葉として形を成してしまったのだ。
それは、まるで長い間保たれていたダムが決壊する瞬間のように、彼の脆くなった精神を一気に押し潰した。
抑え込んでいた感情、見て見ぬふりをしてきた虚無感が、濁流となって心を覆い尽くす。
ソファに深く沈み込み、圭吾は両手で顔を覆い、ただ固く目を閉じた。
深い闇の中で、もがくような息苦しさを感じた。
そんな時、ふと、何の脈絡もなく、遠い過去の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
それは、埃をかぶったアルバムを偶然開いたかのように、唐突に彼の意識の中に現れた。
学生時代の記憶だった。
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大学時代、圭吾は登山部に所属していた。
経済学部での勉強はそこそこに、週末になると、重いザックを背負い、仲間たちと共に様々な山へと向かった。
急な登りに息を切らし、汗を流しながら、ただひたすらに頂を目指す。
疲労困憊の末にたどり着いた山頂で飲む、魔法瓶の熱いコーヒーの格別な味。
吹き抜ける風が運んでくる、湿った土と木々の生命力に満ちた匂い。
そして、何よりも代えがたい、苦楽を共にした仲間たちの屈託のない笑い声。
あの頃の自分は、今のような息詰まるような虚無感とは全く無縁の世界に生きていた。
そこには、明確な目標と、達成感と、仲間との強い絆があった。
特に鮮明に思い出されるのは、大学3年生の秋、紅葉が見頃を迎えた奥多摩の山に登った日のことだ。
空は抜けるように青く澄み渡り、山全体が燃えるような赤や黄色に染め上げられていた。
太陽の光が、色づいた葉の隙間からキラキラと木漏れ日となって降り注ぎ、まるで自然が作り出した万華鏡の中にいるようだった。
息を呑むほどの絶景を前に、仲間の一人が「うわぁ……こんな景色、一生覚えてたいな」と、感嘆の声を漏らした。
その言葉にそこにいた誰もが、心からの笑顔で頷き合った。
圭吾もまた、その瞬間、胸が熱くなるような感動を覚え、この美しい瞬間が永遠に続けばいいと、本気でそう思った。
あの頃、自分の未来には無限に可能性が広がっていて、どんな道を選んでも輝かしいものになると信じて疑わなかった。
だが、いつからだろうか。
あの、かけがえのない時間を共有したはずの登山部の仲間たちとも、次第に連絡を取らなくなってしまったのは。
卒業後、圭吾は誰もが羨む大手コンサルティングファームに就職し、文字通り、寝る間も惜しんでがむしゃらに働いた。
仕事で成果を出すことが唯一の価値だと信じ、同期入社のライバルたちを蹴落とし、猛烈なスピードで昇進を重ねた。
給料は面白いように増え、ステータスシンボルとされる都心のタワーマンションにも手が届いた。
誰もが認める「成功」を手に入れた。
しかし、その成功への階段を駆け上がる過程で、彼はあまりにも多くのものを失っていったことに、今更ながら気づかされた。
仲間たちと過ごす時間、腹の底から笑うこと、山歩きで感じた自由な空気。
そして何よりも、自分自身の中にあったはずの、情熱や純粋さ、生きる喜びといった、最も大切にすべき何かを、どこかに置き忘れてきてしまったのではないか。
気がつけば、圭吾の人生は、仕事という名の巨大な歯車に組み込まれ、それ以外のすべてが色褪せてしまっていた。
友人と呼べる人間はほとんどおらず、恋人もいない。
家族との関係も希薄だ。
ソファの上で、彼は深いため息を、まるで魂の一部を吐き出すかのように、長く、重くついた。
胸の奥深くで、錆びついた何かが軋むような、鈍い音が聞こえる気がした。
もう何年も、山になど登っていない。
最後に山に登ったのはいつだったか、思い出そうとしても、記憶は霞がかかったように曖昧だった。
土の匂いも、風の音も、木々のざわめきも、すべて朧げな記憶だ。
仲間たちの顔や声も、遠い記憶の彼方に霞んでいく。
今の自分は、あの頃の自分とは全く違う、空っぽの人間になってしまったのではないか。
その時、ふと、リビングのローテーブルの上に無造作に置かれた卓上カレンダーが、彼の視界の端に映った。
週末の欄には、何の予定も書き込まれていない。
いつもなら、週末も返上して、溜まった仕事を片付けるためにオフィスへ向かうか、自宅でPCに向かっているはずだった。
しかし、今日の、この虚無感に打ちのめされた夜は、何かが違っていた。
心の奥底、消えかかっていたはずの場所に、ほんの小さな、だが確かな火が灯ったような感覚があった。
それは、忘れかけていた情熱の残り火のような、微かな温かさだった。
「山に……行ってみようか……」
自分でも驚くほど、その声には力がこもっていた。
それは、いつものような形式的な呪文ではなく、心の底からの衝動に基づいた言葉だった。
まるで、長い間眠っていた何かが、ようやく目を覚ましたかのように。
圭吾は、弾かれたようにソファから身を起こすと、テーブルの上のスマートフォンを手に取った。
画面を操作し、天気予報のアプリを開く。
週末の天気予報を検索すると、画面には二日間連続で、鮮やかな太陽のマークが表示されていた。
―――晴れ。
衝動的に、窓辺に歩み寄った。
カーテンを勢いよく開けると、夜景が目に飛び込んできた。
先ほどまで重く垂れ込めていた灰色の雲は、いつの間にか少しずつ流れ去り、その隙間から、欠けた月が静かに地上を見下ろしていた。
月明かりが、闇に沈む街並みに、銀色の輪郭を与えている。
そして遠くに山の輪郭が見えた。
山へ行こう。
その決意は、今の圭吾にとって、暗闇の中で見つけた唯一の道しるべのように感じられた。
まだ何も解決したわけではない。
明日になれば、また同じ日常が待っているだろう。
それでも、何かが変わるかもしれない。
そんな、か細いけれど確かな希望が、彼の胸に芽生え始めていた。
圭吾は、しばらくの間、月明かりに照らされた夜景をただじっと見つめていた。