第十五話
アヒージョ、白ワイン、そしてチョコレート。
未知の味との出会いは、彼女の世界観を大きく揺さぶっているようだった。
圭吾への信頼感も、この美味しい発見と共に、少しずつ増しているように見えた。
だが、エンヒはすぐにハッと我に返り、口元についたチョコレートを慌てて指で拭った。
「い、いかんいかん! こんな美味いものに現を抜かしておる場合ではなかった! 急ぐぞ! 契約の解除が最優先じゃ!」
エンヒに強く促され、圭吾は重いリュックを背負い直し、キャンプ地を後にした。
目指すは、昨夜エンヒが通り抜けたという、山の祠だ。
エンヒは、まるで自分の庭のように慣れた様子で、草木をかき分けながら先導していく。
「本当に大丈夫なのか? そんなに急がなくても、何だか体調も少し良くなってきた気がするんだけど……」
圭吾は呟きながら、エンヒの後を追った。
実際、先ほどエンヒが驚いたように、身体の重さは朝起きた時よりも少しマシになっている気がする。
手の甲の紋様の疼きも、今はそれほど気にならない。
もしかしたら、エンヒが心配するほど、深刻な状況ではないのかもしれない。そんな楽観的な考えが頭をよぎる。
だが、エンヒは振り返り、真剣な表情で言った。
「油断するな、けいご。それは、お主がこの山の清浄な気に当てられ、一時的に回復しておるだけやもしれぬ。龍の契約を甘く見てはならぬ。早く長老に会わねば、本当に手遅れになるぞ」
その言葉には有無を言わせぬ響きがあり、圭吾は黙って頷くしかなかった。
やがて、木々の間に、苔むした石造りの小さな祠が見えてきた。
昨夜、エンヒはこの場所を通ってきたのだという。
祠の周りは、ひときわ空気が澄んでいるように感じられる。
エンヒは躊躇なく祠の中へと入っていく。
圭吾も後に続いた。内部はひんやりと薄暗く、湿った土と古い木の匂いが漂っていた。
壁一面に、まるで血管のように、巨大な古木の根が複雑に絡み合っている。
その根の隙間から、外の朝日が幾筋もの光の帯となって差し込み、埃をキラキラと照らし出していた。
それは、まるで自然が作り出したステンドグラスのようで、神聖さすら感じさせる光景だった。
祠の内部は、緩やかな上りの小道になっており、その突き当たりには、予想外に小さな、古びた木製の扉があった。
「ここじゃ」
エンヒがそう言って扉を開けると、そこは祠の祭壇のような場所の裏側に出ていた。
その祭壇は巨大な木の根によって形作られていた。
根の表面はビロードのような苔に覆われ、所々に可憐な白い花が咲いている。
根の隙間からは、やはり外光が差し込み、祭壇全体を神秘的な光で包み込んでいた。
「うわ……すごいな。まるで映画のセットみたいだ……」
圭吾は思わず感嘆の声を漏らした。
エンヒは、そんな圭吾の反応に少し得意げな表情を浮かべ、ふふん、と胸を張った。
「まあな。ここはちょこっとだけ神聖な場所じゃからな。たまに、気の良い精霊なんかも遊びに来ることがあるぞ」
精霊、という言葉に、圭吾は改めて自分が非日常の世界に足を踏み入れつつあることを実感した。
エンヒは、祭壇の根の一部、他よりもわずかに色が違う部分にそっと手を触れた。
すると、何の音もなく、根が蠢くように動き、人が一人通れるくらいの隙間が現れた。
光がその奥から溢れ出している。
「さあ、行くぞ、けいご。ここが『門』じゃ」
エンヒに促され、圭吾は息を呑み、その光の中へと足を踏み入れた。
瞬間、視界が一気に開けた。
目の前に広がっていたのは、息を呑むほどの絶景だった。
まるで、極彩色の絵巻物を広げたかのような、雄大な大地。
緑豊かな森、黄金色に輝く草原、赤茶けた岩山が、巨大なパッチワークのようにどこまでも続いている。
大地を縫うように、幾筋もの川が銀色の糸のように蛇行し、陽光を反射してキラキラと輝いていた。
空には、白い雲が浮かび、その巨大な影が、眼下の広大な大地の上をゆっくりと移動していく。
まるで、大地そのものが呼吸をしているかのようだ。
時間という概念すら、ここでは意味をなさないのではないか。
そんな気にさせられる、圧倒的な美しさと静寂が支配する世界だった。
圭吾は、自分が小高い山の頂上付近に立っていることに気づいた。
そして、その場所は、信じられないほど巨大な一本の古木の、太い根元にあたる部分だった。
見上げると、古木の幹は、彼が住むタワーマンションなど比較にならないほどの高さで天に向かって伸びており、その頂上は遥か上空の雲の中に隠れて見えない。
幹はびっしりと苔に覆われ、太い藤の蔓が龍のように絡みついている。
足元の根は、大地を掴む巨大な爪のように、四方八方へと力強く張り出していた。
「すげえ……なんだこれ……こんな木、見たことないぞ……」
圭吾は唖然として、ただ立ち尽くすしかなかった。
異世界。
その言葉が、ようやく現実味を帯びて迫ってくる。
「何を惚けておるか、けいご! 感動するのは後じゃ! 行くぞ!」
エンヒは、圭吾の感動などお構いなしに、さっさと古木の根元から続く坂道をズンズンと下り始めた。
「お、おい! 待てって! こんな凄い景色、もうちょっとじっくり見たいだろ!」
圭吾は慌ててリュックの紐を締め直し、エンヒの後を追いかけた。
バックパックの重さが、急に現実のものとして肩に食い込む。
だが、目の前に広がる未知の世界への興奮が、身体の疲れを忘れさせていた。
エンヒは、坂の途中で一度だけ足を止め、呆れたように、しかしどこか楽しそうに振り返った。
「まったく、人の子はこれだから困る。こんな景色は、私の世界ではそう珍しくもない、ありふれたものじゃぞ。それよりも、長老の居場所まで急がねばならぬのじゃ」
そう言いながらも、圭吾の子供のようにはしゃぐ反応を見て、エンヒの口元には、小さな、本当に小さな笑みが浮かんでいた。
契約の紋が刻まれた手。
龍を名乗る不思議な少女。
そして、目の前に広がる、想像を絶する異世界。
吉倉圭吾の、人生を賭けた奇妙な出来事は、今まさに、この巨大な古木の根元から始まろうとしていた。




