第十二話
アヒージョのブルスケッタの余韻に浸り、満たされた心でエンヒを眺めていた圭吾は、ふと、あることを思い出した。
そうだ、念のためにと、バックパックの奥に辛口の白ワインの小瓶を一本、忍ばせてきたのだった。
アヒージョには、やはりキリッとした白ワインがよく合う。
「ちょっと待ってて」
圭吾はエンヒに一声かけると、テントの中へ入り、少しごそごそと荷物を探った。
あった。
目的の小瓶は、衣類の間に挟むようにして入れてあった。
取り出したのは、360mlほどの小さなボトル。
ラベルには、素朴な字体で「池田町 町民用白ワイン」と書かれている。
北海道の池田町にある、十勝ワインで有名なワイナリーが、地元向けに限定販売しているものらしい。
決して高価なワインではない。
むしろ、都内の専門店でも買える安価なテーブルワインの部類に入るだろう。
しかし、圭吾はこのワインをことのほか気に入っていた。
数年前に北海道出張の際に偶然見つけて飲んで以来、その飾らない美味しさの虜になり、時々取り寄せては、自宅でささやかな楽しみにしていたのだ。
圭吾はテントから出て、予備としてリュックにぶら下げている登山用の軽量樹脂製コップに、淡い黄金色の液体をトクトクと注いだ。
そして、まず自分が一口、ゆっくりと味わう。
ん……美味い。
軽やかで、ぶどうそのものの様な華やかな香りが、まず鼻腔をくすぐる。
口に含むと、まるで質の良い葡萄ジュースのような、フレッシュで豊かなぶどう本来の風味が口の中に広がる。
だが、そのフルーティーな第一印象とは裏腹に、後味はすっきりとドライで、想像するよりもずっと辛口に近いキレがある。
ロゼワインのような甘やかさも微かに感じるが、決して甘ったるくはなく、非常にバランスが取れていて飲みやすい。
そして何より、このワインはアヒージョとの相性が抜群なのだ。
口の中に残っていたニンニクの香ばしさと、オリーブオイルのまろやかなコクが、この白ワインの持つ爽やかな酸味によって、すっきりと洗い流されていく。
味覚が見事にリセットされ、また次の一口が欲しくなる。
油と香辛料が織りなす濃厚な余韻に、ワインの涼やかな風が吹き込むことで、口の中に全く新しい、心地よい調和が生まれるのだ。
これぞ、料理とワインの理想的な対話の一つと言えるだろう。
圭吾が、白ワインがもたらした爽快な余韻に静かに浸っていると、隣に座るエンヒが、その様子をじっと見つめていることに気づいた。
緋色の瞳が、圭吾の持つコップとその中身に注がれている。
「……圭吾、それはなんじゃ? 水とは違う、良い香りがするぞ」
目ざとい、というか鼻が利く。
圭吾は少し意地悪く笑ってみせた。
「これは白ワインだよ。ぶどうから作るお酒だ。まあ、君にはまだ早いかな。もうちょっと君が大人なら、一緒に飲めたんだけどな」
その言葉に、エンヒはむっとした表情になり、椅子の上でぷいとそっぽを向いた。
「なっ…! 無礼なことを言うでない! 私は見た目こそこうじゃが、お主などより遥かに長く生きておる! れっきとした大人じゃ! それも飲ませるのじゃ!」
「へえ、ワインは飲んだことあるのかい? 本当に?」
圭吾がからかうように言うと、エンヒは勢いよくこちらを振り返り、胸を張った。
「勿論あるに決まっておるじゃろう! ワインくらい! ……それより、こちらにまで、ほのかに甘くて爽やかな、ぶどうの良い香りが漂ってくるではないか! 気になって仕方ないのじゃ! 早く! 早くそれをよこせ!」
どうやら、ワイン自体は飲んだことがある様だ。
それがぶどうジュースでなければ良いが。
しかし、エンヒがその香りに強く惹かれているのは間違いない。
エンヒは、飲めるから一口くれ、と必死に言い張っている。
圭吾は少し考えた。
目の前の存在は、見た目こそ少女だが、自らを「龍」だと名乗った。
ならば、人間社会の「未成年」などという法的な括りで判断するのは意味がないだろう。
いや、むしろ、龍に対してそのような扱いをすること自体が、失礼にあたるのかもしれない。
それに何より…自分の好きなこのワインを、この不思議な少女の姿をした龍が飲んだ時、一体どんなリアクションを見せてくれるのか。
アヒージョの時のような、詳細で情熱的なレビューが聞けるのだろうか。
その好奇心が、圭吾の背中を押した。
「分かったよ。じゃあ、少しだけだぞ」
圭吾は再びテントに戻り、コップをもう一つ取り出すと、そこに白ワインを少量、注いだ。
そして、エンヒへと差し出す。
「ほら」
エンヒは、ぱあっと顔を輝かせ、にんまりと満足げな笑顔でコップを受け取った。
その笑顔は、威厳など欠片もなく、純粋に嬉しそうな子供のようだった。
まず、エンヒはワイングラスでも何でもない、ただの樹脂製のコップに鼻を近づけ、目を閉じて深く香りを吸い込んだ。
ワイングラスでなくとも、このワインからは、まるで収穫したばかりのマスカットのような、瑞々しくフルーティーな香りが豊かに立ち上ってくる。
エンヒの表情が、うっとりと蕩けていくのが分かった。
十分に香りを楽しんだ後、エンヒは意を決したように、小さな唇でコップの縁に触れ、こくり、と一口、ワインを口に含んだ。
そして、アヒージョの時と同じように、しばし目を閉じて、その味を舌の上で転がすようにして吟味している。
やがて、ゆっくりと目を開けたエンヒは、感嘆のため息と共に、またもや詳細なレビューを始めた。
「ふむ……なるほど。これはまだ熟成という点では若いワインじゃな。じゃが、なんと芳醇で華やかな果実味か! そして、この鼻腔をくすぐる、まるで花のようなぶどうの香り! 今まで、これほどまでに果実そのものを感じさせる酒を飲んだことはない……」
エンヒは再びコップを傾け、もう一口、今度は少し多めにワインを味わった。
「一口飲むごとに、この爽やかな香りが口中から鼻へと立ち昇ってくる…まるで、たった今、枝から摘み取ったばかりの瑞々しいぶどうを、そのまま丸かじりしておるかのようじゃ。じゃが……驚くべきことに、味わいそのものは決して甘すぎず、むしろ心地よい酸味と共に、後味はしっかりと辛口に仕上がっておる。飲みごたえも良い。この豊かな果実味と、すっきりとした辛口を両立させるなど……このような酒、そう易々と作れるものではないはずじゃが……」
エンヒの的確すぎるコメントに、圭吾は感心しながら頷いた。
「ああ、よく分かるね。このワイン、確かドイツやハンガリー……外国でワイン作りを学んだ人が、その土地の気候に合わせて色々と研究して、ようやく作り上げたワインらしいよ。だから、日本のワインだけど、どこかヨーロッパのワインのような雰囲気も持ってるんだ」
「ほう……わざわざ別の国へ渡り、研究を重ねてか。うむむ、なるほどのう」
エンヒは深く頷き、再びワインを一口、大切そうに味わった。
「それにしても……このような美味なる料理と、これほどに素晴らしい酒が存在する世界があったとは……なんと……なんと夢のような! なぜ私は今まで、あの古びた祠の奥に行かなかったのじゃろうか……! 外の世界には、これほどの喜びがあったというのに! ああ、後悔しかないのじゃ……!」
エンヒは、心からの後悔と感動を込めて天を仰いだ。
その姿は、少し滑稽でもあり、同時に愛おしくも感じられた。
こうして、星が降るような夜空の下、一人と一龍は、ランタンのささやかな灯りのもと、アヒージョの残りと、白ワインを少しずつ楽しみながら、他愛のない会話を続けた。
エンヒが語る、圭吾には想像もつかないような、異世界の絶景の話。
圭吾が語る、エンヒにとっては未知の世界である、現代の人間社会の日常。
話題は尽きることなく、夜は静かに、そして温かく更けていく。
圭吾の心を満たしていたのは、ワインの酔いだけではなく、この予期せぬ出会いがもたらした、幸福感だった。




