九
「撤退開始!」竹良の声が、太鼓の音とともに響く。
撤退は計画された手順で実行された。まず弓兵が後退を始める。彼らは三列に分かれ、一列が射撃を続ける間に他の二列が移動する。これを交代で繰り返し、徐々に後退していく。この戦術は近江軍で確立された新しいものだ。
投石機は既に第二防衛線に移設されていた。設計時から移動を考慮されており、主要部分は四つのブロックに分解できる。各部品には組立位置を示す墨書きが施してあり、迅速な再構築が可能となっている。
「第二線、準備は?」
「整っております。」馬子田が答える。「堀の水位も確保できました。」
第二防衛線の堀は、幅三間、深さ二丈。底には尖った杭が打ち込まれている。水は山からの流れを堰で制御して供給される。水量が多すぎると杭が見えなくなるため、絶妙な調整が必要だった。
その時、予期された爆発が起きた。
轟音とともに、木柵の一部が崩壊する。破壊工作部隊が仕掛けた火薬の威力は、予想を上回るものだった。木柵を支える柱が根元から折れ、周囲の構造も連鎖的に崩れていく。
しかし、それは関守兵にとって想定内の展開でもあった。
第二防衛線の特徴は、その構造にある。土塁の高さは一丈二尺。表面は粘土で固められ、雨による崩壊を防いでいる。上部には木柵ではなく、石を積み上げた胸壁が設けられている。これは火災に対する耐性を高めるための工夫だ。
「配置について!」
関守兵たちが、それぞれの持ち場に着く。彼らの装備も、第二防衛線用に調整されている。より重装備の挂甲に着替え、接近戦に備える。盾は木製の大型のものを使用。火矢の危険が減る代わりに、接近戦での防御力が重視されるためだ。
「敵の動きは?」
「先行部隊が突破口に集結中。」櫓からの報告が入る。「しかし...」
「しかし?」
「彼らの装備が...変わっています。」
竹良は目を凝らした。確かに、突破口に集まる兵士たちの装備は、先ほどまでとは異なっている。短甲の上から、藤製の補強具を着けている。これは...
「はしごを!」馬子田が叫ぶ。
大海人皇子軍の兵士たちが、竹で組まれた軽量のはしごを担ぎ出した。長さは三間ほど。二人で持ち運べる軽さに作られている。これは明らかに、第二防衛線を越えるための準備だ。