④過去
(さて……家に帰ろう)
直哉は短く息を吐くと、片手を軽く上げ下げして持っている重みを確認。足元を染める夕日に目が留まっていたと気づくと顔を上げてふり返り、歩きはじめる。
何しろ頭の中で記憶が散らかりっ放しで収拾がつかない。しばらくスーパーの前で佇んでいたのは間違いないだろうけど、今ひとつ直近の行動にまったく心当たりがない。
長く生きているうち、どこからともなくふいに記憶の片鱗が呼び起こされる。頻度としては多くなるいっぽう、留まる時間は短くなった気がする。まるで炭酸飲料の気泡のよう。
現在の心境としては、まだ生まれてまもない子供と3人で暮らすアパート生活が色濃く頭を埋め尽くしている。単に楽しかっただけでない、二度と経験したくないような苦しみまで含めた感情の振れ幅を、人はいい思い出として心に深く刻むのかもしれない。
散歩がてら道を先導してくれた愛犬も今はいない。不安がかなり先行するけれど、勘を頼りに歩くしかなさそうだ。
(もう少ししたら思い出せる……)
生来住み続けている地元で迷子になるわけにはいかない。全身からいい知れない恥ずかしさと不安が入り混じって押し寄せる。
幸いにも別れ際からピリッと走る腰の痛みは和らいでいた。どちらかというと、ふくらはぎに少し張りを感じる。
昨年からパート扱いとなり、勤務日数は減った。けれど夕方には極端に疲労することが多くなった。職業柄腰かけているのが大半にもかかわらず、日が暮れるころには大きなあくびが出てしまう。
直哉は鋼が入っているかのようにも思える自身の腰に手をあてがい、立ち止まる。
体力の衰えに抗おうと必死で歩き、休んでを何度かくり返してはゆっくり前方へ目を向ける。だんだんとリズムがつき、気分が軽くなるとともにいつしか見覚えのある線路沿いの路地に入っていた。
緊張が解け、気持ちが落ち着いたせいかとたんに足が軽くなる。不安がみるみる自信へと変わり、重たげだった瞼がしっかり開くように。
すると長い間奥底にしまわれていた記憶がようやく呼び起こされてはピッタリと一致。今になって寝ぼけていたような感覚から解放。
駅から近いだけで、景観など関係なく空いたスペースに狭苦しく家が建ちはじめる……点在する更地に白けた思いを抱きつつ、歩を進める。
そうして見慣れた目印にさしかかる。家から一番近い、車が1台やっと通れるほどの幅の狭い踏切。
ああ、この辺りはまだ畑が残っているなと安堵の気持ちで見渡していると、腕にかけていた袋が何かに当たり、軽い衝撃が伝わってくる。
何ごとかとぶら下げていたものを確認してみると、牛乳ではなく網に入ったサッカーボール。輪っかになった先を腕に通してぶら下げている。さらに両手はともにふさがっていて、左右とも同じ棒状のものを水平に掴んでいると気がつく。
あまりの違和感からふと足元に視線を逃がす。視界に飛び込んできたのは鮮やかな青のスニーカー。
同時に両手の感触をあらためて確かめる。掴んでいたのは自転車のハンドルだった。
(ああ、そうだった……)
直哉ははっきりと思い出した。
自分は年寄りでもなければ大人でもない、まだ6歳の子供。
幼稚園の年長になってから散々ねだっていた自転車を、誕生日プレゼントに買ってもらった。あまりのうれしさから帰ってきては毎日乗り回している。片方の補助輪はすぐに取れ、もう片方も早いところ取れるようずっと走り続けていたせいで、かなり遠くまで来てしまっていた。
今いる場所はどこなのか、長い間不安に晒され頭が真っ白。疲れもどっと出る中、自転車を押して歩いていたのだ。
住んでいる家は沿線の国道脇に建つ集合住宅。
何で持っているのかわからないサッカーボールをとりあえず自転車のカゴに入れる。すでにカゴには帽子が入っていた。メッシュ地のキャップで、前面にプリントされているのはアニメ風にデフォルメされたお気に入りのキャラクター。一番好きな色がブルーなので自転車もそれにあわせた。
直哉は帽子を被り、しっかり両手に力を込めて自転車を押す。踏切を渡り終えるとすぐに脇道へと自転車を寄せ、わずかな下り坂を活かして勢いよくまたがる。足が地面につけるようサドルは一番低くしてある。最後に片足をケンケンしながらタイミングよくペダルに足を乗せて踏み込む。
生け垣で区切られた民家が立ち並び、車幅すらない細い道があちこちに入り組んでいる。迷ってもおかしくない複雑さも、踏切を起点とした唯一のルートによりまったく問題ない。
適度に曲がりくねったカーブを慎重に、レーシングカーさながらのコーナリングを決めながらメインの一本道に入る。時折補助輪がスピードを注意するようにガラガラと音を響かせる。
家の裏手を流れる川沿いまできたとき。
先にかかる橋の真ん中に、同い年くらいの女の子がひとり立っていた。何となく見覚えがあり、直哉は記憶を探りはじめる。
目があうや、一瞬目を輝かせる。その仕草は女の子にとっても直哉を見知っているようだった。
まっすぐ通過しようと思っていたものの、直哉は橋を曲がる。探り続ける記憶の中、女の子の前で自転車を止め、声をかける。
「何してるの?」
「今日はコウヘイくんと遊ぶ約束したから、ここで待ってるの」
「ふーん、そうなんだ」
まだ名前を呼びあう仲ではないけれど、まったく顔を知らないわけでもなさそうだ。同じ幼稚園かもしれないし、もしかしたら近所の子かもしれない。直哉は頭の中の記憶の引き出しをいたるところ探し続けたものの、どうしても名前が思い出せなかった。
そしてすっかり空っぽの引き出しには、もともと多くの情報量が入るほどどもなかったと気づく。
そんな直哉の眼差しを見た女の子は、自分に向けられた心配だと思ったらしく、
「今日の朝、会ったとき、幼稚園終わったら公園で遊ぼうよっていわれたから、いいよって。でもどうしたんだろう……忘れちゃったのかな?」
最初に発した声に比べて抑揚が加わりだす。不安を取り払おうとばかり、たどたどしい中でも素直な疑問が投げかけられる。
直哉はすぐに言葉を返す。
「ずっと待ってるの?」
「うん。だって……約束したから」
最初の返事と比べ、最後のトーンはかなり重々しくなってはうつむく。
やりきれなさを表すように、下げていたバケツをフリフリさせる。入っていたプラスチックの皿やシャベルがカタカタ鳴り、前回遊んだときについただろう砂がポロポロと落ちる。
直哉はふとひらめいた。
「じゃあ、今から僕と公園で遊ぼうよ」
「えっ?」
「公園で遊ぶ約束だったなら、大丈夫だよ」
直哉は続ける。
「僕なんか、さっきママに“すぐ帰る”っていったのを忘れちゃってたんだ。自転車に乗ってるのが楽しくて、ずっとそのまま……それですごく遠くまで行っちゃってた」
口から出るまま話し続けたあげく、言葉に詰まる。女の子がいまだ不安げな顔でいるのをどうしたらよいか、一瞬ためらったものの、
「待ってても、つまらないでしょ?」
何だか胸がすっとした。
直哉の気持ちが伝染したように、女の子は目を丸くしてから遅れて笑みを浮かべる。
疑問に答えるかわりに何やら興味深げな目を傍らに向け、
「新しい自転車……私も乗ってみたいな」
「の、乗れるかな……?」
直哉は思いもしなかった発言に動揺。
自分とさほど変わらない身長にも心配だったけれど、女の子はバケツをガランと無造作に落とし、直哉の手に手を重ねてきた。
突然の感触にびっくりしつつ、
「ちょっと待って。あのさ……」
直哉は初めて触れた女の子の手のやわらかさに声を上ずらせながらも、
「家に戻って、ママに公園で遊ぶっていわないと」
重ねられた手からは確かな温度が伝わり続けている。何というべきか迷っていると、女の子はあっさり手を離す。
落とした物を拾いにゆっくりかがみ込むと「わかった」といってから、バッと顔を上げ、
「じゃあ、公園で乗ってもいい?」
「うん、いいよ」
直哉は自転車を来た方向へ向けるとペダルを逆方向へ一回転させてから片足をセット。
目の前で決められたうれしさをそのままにまたがると、
「少し待ってて。すぐに戻ってくるから」
「わかった。待ってる」
直哉はすぐに自転車を加速。スピードがつき過ぎ、寸前でブレーキしながらうまく曲がりきるとさらにいい気持ちに。
細い川沿いを道なりに進んでは少しして大きな駐車場。その横の建物の3階で母が待っているはずだ。
手前で自転車を立てかけてからダッシュで階段を昇ろう。着いたらすぐに「ただいま」
と「ごめんなさい」をいおう。
もしかしたら台所の掃除をしていてドアは開いているかもしれないし、外に出て腕組みでもして待っているかもしれない。思った以上に時間が経ってしまったから。
直哉は息を切らして自転車をこぎながら、自分の萎れた姿を頭に描く。それでも胸は高鳴るばかりでまったく収まりそうになかった。




