①現在
地元の駅前通りは、陽の傾きをいち早く気づいた人たちによって少しずつ空気を変えはじめていた。
澤井直哉は休日の半分を惰眠。午後になっても1歳半の息子と部屋でゴロゴロ。たまりかねたように妻から買いものに行こうといわれるや、さっそく玄関に立てかけられたベビーカーを準備。
直哉にとっては“妻と買いものに行く”ではなく“妻が買いものをする間、子供を見ている”だ。
結婚するにあたり漠然と覚悟はしていたものの、まるで次元を超えた子供中心の生活。
すべては愛する家族のため、お金と時間が費やされることで行動に制限ができるように。先月の運転免許更新の際、できあがった写真に思わず「老けたな」と口走っていた。
産まれて数カ月、夜中に交代で起きていたのはほとんど覚えていない。安眠できるようになってはいつしか首がすわり、ハイハイを経てつかまり立ち。最近ようやくひとりで歩けるように。今からすればあっという間のできごと。
以前は妻と2人、行きたいところがあればその日のうちにでも出かけていた。けれど子供が加わるや、急な予定はいっさい立てられなくなった。
遠出するとき、目的地よりも先にベビールームの確認。オムツと着替えが2着ずつ、お菓子や玩具をパンパンに詰めた大きなリュックを携行。どんなに万全でも当日の朝、子供が平熱より高いとわかったとたん中止。
出会ったころのように、気ままに出かけたい……両親に子供を預けて羽根を伸ばしたこともある。ただ妻は常に子供のことを気にかけた。腹を痛めて産んでいない性か、我が子に嫉妬じみた感情すら抱いてしまう。
今や恒例となった、出入り口が見通せる建物脇のスペースに直哉は陣取る。
先客は簡素な紐で括りつけられたゴールデンレトリバー。美しい毛並みを誇らしげに長い舌を出し、愛嬌をふりまいている。犬の背後からウインドー沿いにショッピングカートが何列も並び、脇は買い物客が行き交う通路。対岸には駐輪場が広がっている。
カラフルな自転車で乗りつけた小学生くらいの女の子が、ちょうど空いていた場所を見つけてさっそく停める。得意げな顔で待っていると、幼い弟を乗せて後から続いた母親にもうひとつ空いている場所を探すよう怒られる。
しばらく前に重そうな買いもの袋を引きずるように持って横切った老婦人は、近所の知りあいに呼び止められ、ずっと世間話を続けている。
(あとどれくらい待つだろう……)
かれこれ20分は過ぎた。
今日はもう少し時間がかかりそうな気がする。予想はかなり正確。
1回だけ「本命の商品が売り切れていた」と、ものの数分で出てきたことがあった。けれど、思わぬセール品に悩んでいたと1時間以上待たされたときを含めてほぼ想定内。
直哉はベビーカーを前後に揺らす手を止め、空を見上げる。
周りでくり広げられる光景に対する余計な思いを断ち切ろうとばかり、深い回想に浸りはじめた。
妻の里香とは、直哉が初めて就職した通販メーカーの営業先で出会った。
初めて見た瞬間からどことなく親近感を抱いた。肩にかかるくらいの長すぎない髪型、肌の白さが印象的だった。
最初に訪れたとき、広いエントランスに右往左往。警備員に不審がられては別の受付による事務的対応だったのもあり、里香との会話は心底安心できた。一律で着こなす制服姿ではわからない、相手の気持ちを汲もうとする天性のやさしさに魅了された。
以後かなりの割合で里香が応対。直哉もエリア担当としてポジションを得ると、外回りのルートにきっちり組み込んだ。
アポイント前の待ち時間に何げない雑談。ふとこぼす笑顔をもっと見たくなり、あえて早く訪れては意味なく笑わせるときもあった。
商談を早く切り上げられたある日、勢いで食事に誘ってみた。
最初は体よくかわされるも、懲りずに誘い続けては首を縦にふってもらい、半年ほど経過したころには2人きりで出かけられるまでに。
数年かけてだんだんと打ち解けてゆくうち、里香は事務に回ることが増え、直哉も部署が編成されてエリア異動。連絡しないかぎり会えなくなったことでいっそう親密さが増し、やがて真剣な交際に発展。
専門学校卒業後、しばらくフリーター生活を送っていた直哉と、大学卒業してすぐに就職していた里香とは同い年。引っ越しが多かったという里香の幼少期の家と、直哉の実家が近かったのも関係を深める一因に。
そして何度も下見を重ねた上で、駅からほど近いアパートに2人で住みはじめた。
さらに数年を経て、互いの家に挨拶を終えると里香が先立って退社。両親の顔あわせもすませ、順調に結婚へ向けて動いていた最中に突然直哉は都合退職通告。30歳のときだった。
退職金がわりの長い失業手当。貯金を切り崩し、何とか家賃は滞納せず支払った。
ハローワーク通いを半年あまり。ようやく再就職を果たした1年後に入籍、挙式。ただし新婚旅行はお金がなく、そうこうするうち気づけば長男誕生。
直哉は先月36歳になった。
同棲から数えると結婚まで6年。直哉にとっては待ちに待って、待ちくたびれてであり、うれしさより安堵の気持ちが強かった。
突然降りかかった災難はどうしようもない。とはいえ子供のころから夢に描いていた姿とはだいぶかけ離れてしまった。
思えばアルバイトを含め、これまでの仕事はすべて消去法のようなものだった。やりたいことを仕事としてできる人間がほんのひと握りだというのは、教えられる前に理解。
勉強から解放されたいと働きはじめたときが、夢をあきらめた瞬間だったのだろう。いつまでも親に甘えてはいられない。さすがにひとり立ちする姿を見せ、安心させなければいけないという気持ちも強かった。
そもそも未来に大げさな桃源郷を抱いていたのだ。新たな門出、結婚すれば何もかもうまくゆくと。
これまでで一番幸せを実感した夢のようなひとときは忘れられない。周りからの多大な祝福。そして子供が無事に生まれたときのいい知れない感動。
これからはもっともっと楽しいことで満ち溢れているに違いない。
けれどごくふつうに生活を送っていても、どこからともなく災いが降りかかり、心を揺さぶられては疲弊。待ち受けていたのはもちろんいいことばかりではなく、苦難は随所に立ちはだかった。
どん底から空を見上げるような感覚で思ったことがある。
結局、一生における喜びはほんの数えるだけ。残りはすべて怒りや悲しみ、虚しさではないのか。
ポジティブに半々だとしても、歳を重ねるごとに苦の割合が増してくるようでしかたない。特に最近は喜びに長くは浸れず、時間の流れじたいにゆとりがなくなってきてしまっている。
たいていのことに感情が予想を下回り、起伏の波が徐々にフラットぎみに沈んでゆく錯覚に囚われる。
単なる加齢現象か。
以前と確実に変わったのは、最悪の事態に備えて布石を置くようになったこと。
たった今、ふと湧き上がった言葉がまさにそうだ。
(何もいわずに待つのが人の常……)
直哉はベビーカーに乗せていた手を前後に動かしながら、盛大にため息を吐く。そして無意識に皮肉な笑みがこぼれる。
待つことが好きな者などいるわけはない。しかたなく待つ選択を取る。
たとえばコンビニで、ちょっとした一品を手にレジへ向かうと数人の列。先頭では何やら問答。客も客だし、店員も要領を得ない返事。他の店員はというと、ここぞとばかり品出しに精を出す。空いているレジにお決まりの不毛なデジャブ、腹立たしさを越えた諦めの感情で満たされる。
聞こえてくる話し声は、決してわざとやっているわけではないとわかる。ただどちらも譲らず主張ばかりしあっているとどうしたって焦れてしまう。
誰にでも等しく与えられたはずの自由な時間が、ひとり無意味の烙印を押された決定的瞬間。日ごろの行いに対する報いなのかと疑ってしまう。
それでも声を荒げるでもなく、すました表情でいるのが直哉の培った大人の顔。心の中の下卑た思惑を決して悟られないよう外へ目を向ける。するとさも有意義に人生を謳歌しているといわんばかりの人たちが溢れ返っている。
楽しそうに手をつなぐカップル。身ぶり手ぶりで談笑するグループ。
長くてもほんの数分にすぎない些細なこと。けれどひと度そんな気分に陥っては列を外れ、手にしたものを棚に戻して店を出る。
くだらない感情で心を汚さないようにする処世術は、妻との買いものにもいえた。
スーパーの店内で絶えずくっついて子供を乗せたショッピングカートを押し、注意のアンテナを張る緊張。
ネガティブな空気を察するや悠長に商品を眺められなくなり、監視カメラとなった視線を絶えず動かし続ける。飛び出た段ボールの角や、付近で滞留する客のやたらブラブラさせる買い物カゴに怯える徒労。
あげくほとんど同じにしか見えない肉のパック詰めを、突然どちらがいいかと選ばされたり「そういえば、牛乳ってまだ残ってたっけ?」などと、ないに等しい記憶を必死に絞り出すくらいなら、そもそも店に入らないほうがいい。
直哉はひととおり付近を見渡してから、ベビーカーをそっと覗き込む。赤ん坊が本気でぐずりだしてしまってはそれこそお手上げ。
(ぐっすり寝てるな。よし……)
どちら似かはまだはっきりしないけれど、確実に自分の血が半分入った我が子。出てきたあくびとともに、両腕を思いっきり上に伸ばして爪先立ち。
全体に血流を行き渡らせるような痺れる感覚の後、顔を水平に戻す。遠くに広がる景色を目で追いながら、続く言葉を待機。
建物を際立たせるアウトラインは地平線に向かって深いオレンジ色に染まっている。踏切ではちょうど赤ランプの点滅にあわせてリズムよく音を刻み、遮断機が下りはじめたところ。
黄色と黒の縞々のバーに1台の車が停車、後続がくっついてゆく。遮断機に磁力でもあるように人がポツポツ増殖。
ゆるやかな風が時折軽く頰を撫でる。
(……気分転換に、周辺を歩いてみよう)
両腕を腰に当てて反らせた瞬間、ピリッと痛みが走る。
そんなとき、どこからともなく直哉を呼ぶ声が聞こえてきた。




