化け物と
「ついにこの日が来てしまったか……」
スタジオを目の前に、音無はごくりと息を呑んだ。
今日は音無初の受け役となる『生意気な年下ヤンキーをヤクザの親玉が調教します』の収録日。
攻め役は業界の大先輩。BLCDとはいえ、みっともない芝居をするわけにはいかない。
――いざ。
気合を入れて、音無はスタジオに乗り込んだ。
「おはようございます!」
「おはようございまーす」
音無の挨拶に、スタッフが口々に挨拶を返す。
調整室に顔を出せば、馴染みとなりつつある音響監督の相田が立ち上がった。
「音無さん、おはようございます! 今日はよろしくお願いします!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「比角さんまだなので、先ブースで待っててください」
「はい」
録音ブースに入り、真ん中より少し手前あたりの椅子に座る。メインの役では中央のマイクに入りやすい位置に座るものだが、奥は上座になるので先輩の席だ。今日の相手は大御所だけに、席一つでも気をつかう。
台本を準備して、軽く目を通す。今日の音無の役はヤンキーの玲二。多少ガラの悪さを意識した格好をしてきている。しかし大先輩相手になめた態度を取るわけにはいかない。切り替えを慎重にしなくては。
比角龍介、四十五歳。良く響く低音ボイスが特徴的で、人気の海外俳優の吹き替えを何人も担当している大御所である。何故この仕事を受けたのかわからない。よほど原作者が強く希望したのか、それとも相田か。昔はよく出ていたようだが、近年はこういった作品にはあまり出ていない。珍しさもあり、きっとこの作品は売れるだろう。良い物にしなくては、と音無の手に力が入った。
暫くそうして、ちらりと時計を見る。収録開始五分前を切った。遅れているのだろうか、と思っていると。
「やー、ごめんごめん! 遅くなった!」
軽い声に瞬時に立ち上がる。
スタッフが開いた重い防音扉を潜ってきたのは、黒のジャケットに身を包んだ比角だった。
椅子に荷物を置いた比角に、音無は頭を下げた。
「虹海プロダクションの音無孝也です。今日はよろしくお願いします」
「あーうん、よろしくよろしく」
おざなりに返事をしながら、比角は荷物を漁った。ちらりと見えた中身には、台本が何冊も入っていた。
「えーと……タイトルなんだっけか……」
その台詞に、音無はざわりと胸に靄がかかるのを感じた。
「あ、あったあった」
取り出された台本は綺麗だった。鞄の中に雑多に詰め込まれていたので多少端がよれてはいたものの、きちんと揃えて留められた状態のままだった。ドラマCDの台本は映像のように製本されておらず、ペラ紙のままであることが多い。最近ではデータで受け渡しタブレットで見る者も増えたが、まだまだ紙を好む声優も多い。
「武蔵……ヤクザ……三十八……あ、見た目あれか」
ブース内に置かれていた原作漫画の表紙をちらりと見て、比角は自分の担当キャラクターのビジュアルを把握したようだった。
つまり比角は、事前に原作漫画を読んでいない。
ざらりと、胸をやすりで撫でられたかのような不快感が襲った。
「ご準備よろしいでしょうかー?」
「はーい、いつでも大丈夫です」
調整室から飛んできた相田の声に、いつの間にかマイクの前にスタンバイしていた比角が軽い調子で答えた。それにはっとして、音無もマイク前にスタンバイする。
「俺も大丈夫です」
「ではテストから行きますねー」
キューランプが光って、録音が開始される。集中しなければ、と音無が呼吸を整えると。
「こんなところにきったねぇ犬っコロが転がってるなぁ。連れ帰ってやろうか?」
ぞくりと、全身が震えた。体中に響く重たい声。
一声で、全てをさらっていく。
「い……いらねーよ。なんだよオッサン。ほっとけよ」
「っははぁ! 威勢のいいガキだな。くそ生意気な目をしてやがる」
にたりと、武蔵が微笑む。
「調教しがいがありそうだ」
ぎりりと、音無は内心で歯噛みした。
その間にも収録は進んでいく。
音無の感じている悔しさは、そのまま玲二の感じる悔しさとなって、皮肉にも芝居にマッチした。
「――はい! ありがとうございます、テストばっちりです!」
――化け物め!
嬉しそうな相田の声に反して、音無は舌打ちしかねない勢いで足元を睨んだ。
目の前で見ていればわかる、比角はほとんど初見だ。
だというのに、正確に役どころを掴んでいる。目で少し先を追うだけで、シーンを理解できている。芝居が組み立てられる。ほんの僅かズレた箇所があっても、本番では完璧に修正してくるだろう。
経験値もあるだろうが、とにかくセンスがいいのだ。こういう化け物が業界にはごろごろいる。
どれだけ情熱を注いだかなんて関係ない。原作を擦り切れるほど読み込んで、台本が破けるほど練習して、それでも収録で緊張して噛んだ瞬間に役立たずの烙印を押される。
台本なんか全然読んでこなくても、作品のことを何もわかっていなくても、収録で監督が納得する芝居が出せれば優秀な職人として次回以降も重宝される。
マイクの前で出したものが全て。結果のみで判断される。そういう仕事だ。比角は完璧に仕事をこなしている。
わかっているのに、過程にも誠実さを求めてしまうのは、音無の勝手だ。だから絶対に表に出すわけにはいかない。
「では本番いきまーす」
「よろしくお願いします」
「……お願いします」
集中しなくては。これは仕事。しかも貴重な大御所との共演。得られるものは多い。
自分にそう言い聞かせる。
いや、言い聞かせなどしなくとも。
「俺の言うことだけ聞けよ――玲二」
比角の声が耳に入った瞬間に、全て引っ張られる。強制的に集中するしかなくなる。
これじゃおんぶにだっこだ、と思うのに、音無はずっと比角に呑まれっぱなしだった。それは音無が受けであることとは無関係だ。受けらしい芝居など考える余裕もなかった。比角に合わせると、必然的に玲二になる。戸惑う暇もない。
不本意にも、初めての受け役での収録は、非常にスムーズに終わった。
「お疲れさまでしたー」
「比角さん!」
次があるのだろう、さっさと帰ろうとする比角に、音無は慌てて声をかけた。
振り返った比角に、音無はなるべく時間を取らせぬよう、手短に挨拶を述べた。
「今日は引っ張ってもらっちゃってすみません。すごく勉強になりました、ありがとうございました」
「ああ、いーのいーの。そういう役だったしね」
へらりと笑った比角は、本当に全然気にしていない素振りだった。
「音無くんは、あれだね。イケボだね」
どくりと、心臓が嫌な音を立てた。
「女の子から人気あるでしょ。こういう仕事多いの?」
「あ……まぁ、それなりに」
「そっかそっか。ま、頑張ってね」
「ありがとう、ございます。またご一緒することがあれば、よろしくお願いします」
ひらひらと手を振って、比角はスタジオを出て行った。
音無は、まだ音を立てる心臓を掴んだ。
――あれは、嫌味だ。
♪♪♪
「笹沼ーぁ」
「比角さん」
外画の現場にて。シリーズもので出演者も顔なじみが多く、笹沼と比角も定期的に顔を合わせている。
待合室のソファに座っていた笹沼の隣に、どかりと比角が腰掛けた。
「俺これの前、BLの現場だったんだけどさぁ」
「え、珍しいですね。比角さんがBLやるの」
「お前が最近ご執心の音無くんが出るって言うから、気になっちゃって。受けてみた」
笹沼が目を丸くした。それを比角が楽しげに見つめる。
「演ってみたけど、大したことねぇじゃん。今時の声だけ声優。お前が推すほどかぁ?」
「……音無くんは上手いですよ。センスもあるし、真面目で真摯だ。これからもっと伸びる」
「声優にとって、真面目って別に長所じゃねぇんだよなぁ」
「不真面目よりはよっぽどいいでしょう」
「それって俺のこと?」
皮肉げに笑って、比角が至近距離で笹沼を見つめる。
それに笹沼は表情を崩さず、目を合わせた。
「外でこの距離はどうかと思いますよ」
「なんだよ、つれねぇな。元彼に向かって」
「元、でしょう。変な噂が立つから離れてください」
「ちぇ、すっかり可愛げがなくなって」
「誰のせいでしょうね」
にまにまと笑う比角に、心底どうでも良さそうに笹沼が溜息を吐いた。
どうでもいい。終わったことだ。
「お待たせしました、お二人お願いします!」
「はーい」
「はい」
スタッフの声でブースへと移動する。
マイクの前に私情は持ち込まない。二人の表情は、先ほどまでの会話を全く感じさせない、プロの表情だった。
「よろしくお願いします」