イケボ声優音無孝也
「男だっていい! 年上でもいい! 俺は、あんたじゃなきゃ駄目なんだ……!」
「でも、でも俺は……」
「否定なんて聞きたくない。だから……その口、塞いでやるよ」
甘い声が耳にとろりと忍び込む。
くちゅり、と濡れた音に周囲が思わず息を詰めると。
「はい、いただきましたー!」
女性音響監督の明るい声が、録音ブースに響き渡った。
ここは都内の録音スタジオ。今行われているのは、『年下の俺様にわからせっくすされた冴えないおじさんの俺』というBL小説を原作としたドラマCDの収録だった。
主役を務めるのは、今をときめくイケボ声優音無孝也。アイドル顔負けのルックスに男らしくも甘い声で、デビュー直後から圧倒的な女性支持を得ている二十歳の新人声優である。今回の作品では『攻め』である彰人を担当した。
相手役は笹沼庄司。芸歴十年以上のベテラン声優で、三十二歳。柔らかな声が特徴的で、聴いているだけで癒されるとこちらも女性人気が高い。確かな演技力にも定評があり、アニメだけでなく外画の吹き替えや番組ナレーションなども多数担当している。今回の作品では『受け』である政義を担当した。
「お疲れさまでしたー」
「ありがとうございます」
スタッフと挨拶を交わしながら、キャストがブースの外へと出て行く。
音無も流れに乗って待合室へ出て行くと、待ち構えていた音響監督、相田がはしゃいだ様子で近寄った。
「いやーもう、ばっちりです! さすが音無さん! 先生も大満足です!」
先生、と呼ばれた女性は相田の横で縮こまっていたが、話を振られてぺこりと頭を下げた。
「ああああの、私の作品がこんな素敵な音声になるなんて、思ってもみませんでした。音無さんに引き受けていただけて、本当に嬉しいです。噂に違わぬイケボでした! あ、ありがとうございましたっ!」
真っ赤な顔で嚙みながら挨拶をした原作者に、音無はにこりと微笑んだ。
「俺の方こそ、素敵な作品に関われて嬉しいです。ありがとうございます」
その笑顔に、原作者と相田は、ぽーっとした顔で見惚れた。
手を振って背中を向けた音無は表情を消して、気づかれぬ程度に小さく鼻を鳴らした。
地下のスタジオから階段を上がって地上に出る。眩しいほどの太陽が照りつけて、目を眇めた。夏が近い。僅かに汗ばむほどの気温が、更に音無を不快な気分にさせた。
「――イケボってなんだよ」
「荒れてるね、若人」
舌打ちと共に吐き出した言葉にまさかの返答があって、音無は肩を跳ね上げた。
ばっと声の方を見ると、そこには今日の相手役を演じた笹沼が立っていた。
「さ、さ、笹沼さん」
「駄目だよ、スタジオの近くで気を抜いちゃ。関係者ばっかりなんだから」
先輩に注意をされて、音無は直角に頭を下げた。
「すんませんっした!」
「僕に謝ることないけどね」
苦笑した笹沼は、穏やかな表情をしていた。怒っている様子は全くないが、愚痴を聞かれたのは痛い。この業界では、ちょっとした迂闊な発言が、悪意をもって広げられることも珍しくない。
演じることを生業としている者など、つまり嘘を吐くことを仕事にしているのだ。人畜無害に見えても、それが真実とは限らない。
焦燥を感じる音無とは逆に、笹沼はおっとりとした様子で時計を見た。
「ね、音無くん。このあと時間ある?」
「は? え、えと……次の収録あるんで、一時間くらいなら」
「うん、じゃぁちょっと付き合ってもらえるかな」
業界の大先輩からの誘いを断れる新人などいない。
音無は戸惑いながらも頷いた。
♪♪♪
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
公園のベンチに座っていた音無は、近くのコーヒーショップで購入したアイスコーヒーを、笹沼から受け取った。
笹沼は自分の分を手に持ったまま、音無の隣に腰掛けた。
「すみません、奢ってもらっちゃって」
「いいのいいの、このくらい。先輩面させてよ」
朗らかに笑う笹沼は、生クリームが乗ったごてごての飲み物を持っていた。それをちらりと見て、甘党なんだろうか、とぼんやり考える。
「ごめんね、外で。まさか平日のこの時間に、カラオケがいっぱいだとは」
「ああいえ、こちらこそ、気をつかわせてすみません」
笹沼だけならそれほど注目されないだろうが、音無はビジュアル売りしていることもあって、顔が知られている。そうでなくとも、仕事の話は人目につくところではしない。個室のある店に入ることが多い。軽く話すだけなのでちゃんとした店に入るのも憚られ、手軽なカラオケに寄ったのだが生憎満室だった。雑談程度ならカフェに入っても問題はないのだが、音無が話しやすいようにと思ったのだろう、無人の公園を見つけた笹沼がそこを提案した。
平日の昼間の公園だというのに、子どもは誰もいなかった。小さな公園だからだろうか。気兼ねせずに話せることは、音無にはありがたかった。
「音無くんとは何度か仕事してるけど、BLCDで絡むのは初めてだったよね。お疲れさま。こんなおじさん相手で、大変だったでしょ」
「や、それは別に。むしろ笹沼さんとがっつり芝居できたのは、勉強になって嬉しかったです。でも……」
「でも?」
「……BLCDなんかじゃなくて、もっとちゃんとしたやつで相手役やりたかったです」
ぐっと拳を握りしめた音無に、笹沼は軽く息を吐いた。
「ちゃんとしたやつ、ね」
「あっいや、馬鹿にしたわけじゃなくて」
「音無くんは、仕事に優劣つけるタイプ?」
責められた気がして、ぐっと言葉に詰まった。
けれどこの人に嘘を言っても仕方ない。後々どうなるかわからない、簡単に弱音など吐くものではないが、大先輩に相談を聞いてもらえる機会が貴重なのも確かだ。そしてこの笹沼という人物は、面倒見が良いと評判なのである。
だったらいっそ、と音無は言葉を吐き出す。
「だって皆、つけてるでしょ。テレビより映画が上、アニメより外画が上、映像より舞台が上。ゲームやドラマCDは下の方。当日までろくに原稿読んでこない人だっているじゃないですか」
最初の頃は、どんな仕事だって嬉しかった。たった一言を何度だって練習した。だけど忙しくなれば、どうしたって優劣はつく。ろくな準備などせずともこなせてしまう先輩を見て、そういうものだと思い知る。
「特にBLCDなんて、良い声で男同士が絡んでれば、それでOK出ちゃうでしょ。どうせイケボとか、萌えるとか浅い感想しか出てこないし。だったらそこにどれだけ労力を注いだって、意味なんかないんじゃないかって」
手に力がこもって、アイスコーヒーのカップがめこりとへこんだ。
それを笹沼は黙って見ている。
「笹沼さんは、そんな風には思わないんでしょうね。どんな仕事にも真摯で、全力で向き合って」
「んー……全力、ではないかな」
「え?」
「僕だって、優先順位はつけるよ。仕事ってそうでしょ。全部に全力じゃ潰れるよ」
冗談めかして笑った笹沼に、音無はぽかんと口を開けた。
まさかこの人がそんなことを言うとは。
「だって中身も準備することも違うしね。後ろの仕事によっては喉潰すわけにはいかなかったりとか、色々兼ね合いもあるし。かける熱量には、どうしたって差が出る。だけど」
すっと笹沼の表情が引き締まった。
「優劣は、つけない」
先ほどまで穏やかに喋っていた人物と同じ顔とは思えなくて、思わず音無は息を呑んだ。
「僕らの仕事は、誰かに選んでもらわないとできない仕事だ。誰かが望んでくれて、やっと仕事になる。要らないと言われた瞬間、価値が無くなる。怖いことだよ。だから、僕を選んでくれた人に、選んで良かったと思ってほしい。届いた人に、僕で良かったと思ってほしい。そのための力は尽くすよ。どんな内容でも、上や下ということはない。それを望んでくれた人が必ずいるから」
笹沼の言葉に、音無は俯いた。
そうだ。自分もずっと、そう思っていた。だけど。
「なら……望まれた役割をこなすことに、徹すればいいんですかね。俺の価値って、顔と、声だけでしょ」
アイドルのようにもてはやされて、イケボだのなんだのと言われて。いつのまにか、ルックスや声だけが自分の価値のようになってしまった。
音無は芝居がしたかった。ビジュアル売りは事務所の方針だ。けれどアイドルのように売り出したことで、イベントを見据えたアニメや、シチュエーションCDなどの仕事ばかりが舞い込んだ。BLCDもそう。
人気を得るためには必要な過程だと言われた。女性ファンがつかなければ、先がないからと。それでも自分なりに、ドラマとして解釈した。しかし結果として出てくる感想は、やはり芝居に対するものではなくて、声がいいとかそんなものだった。必死に芝居を組み立てたところで、そんなものは、望まれていないのではないか。
「今日の収録でさ、二人がすれ違ったシーンあったじゃない?」
「へ?」
急に話題が変わったことに、音無は間抜けな声を上げた。
その疑問に答えることなく、笹沼は言葉を続けた。
「『ならもういい、勝手に拗ねてろおっさんが!』って台詞。あの時、音無くん背中を向けたよね。どうして? 台本には書いてなかったよね」
「え……ああ、そこは。彰人だったら、背を向けると思って。きっと、政義と向き合ってられないだろうから」
台本上には、キャラクターの動きもト書きで書かれる。けれど、逐一書かれているとは限らない。そのキャラクターが今どの位置にいるか、どう動いたか。書かれていなければ、それは役者が作り出す。
原作に全く同じシーンがあればそのようにするが、笹沼が指摘したシーンはCD用に構成し直した部分で、原作から読み取ることはできなかった。だから音無は、自分の中の彰人のキャラクターが取るであろう行動を想像した。
何故そんなことを聞いてきたのか。というか。
「あの、背中向けたって……わかったんですか」
「そりゃわかったよ。後ろに声をかけたでしょ。だから僕も、彰人の背中に声をかけたんだよ」
そうだ。あの時、笹沼は確かに背中から声をかけてきた。
それは音無の背を向けた芝居がわかっていなければ返せない。
あまりにも自然だったら、引っかかることなく受け入れていた。
「どちらが正解ということはないけれど。あのシーンで、向かい合ったまま話すのか、背を向けて話すのかでは、受ける印象が違うからね。僕は音無くんの組み立てたプランが良いと思ったから乗ったんだよ」
音無は高揚した。実力派で知られる先輩が、自分の芝居に乗ってくれた。
そして同時に、笹沼の力量に改めて感服した。笹沼と掛け合いをしていて、一度も違和感を覚えなかった。引っかかりがない、違和感がないということは、つまり笹沼は音無の提示した芝居のプランを全て正しく受け取って返してくれたということだ。
これだからベテランと組むのは楽しい。舞台と違って、その場限りの収録では、逐一このシーンではどう思ったか、どんな体勢だったか、など話し合う時間がない。特にドラマCDでは映像がない。画面から受け取れない以上、役者の発した言葉で距離感から測っていくことになる。重要なシーンは打ち合わせることもあるが、ほとんどはテストで出した芝居を擦り合わせて本番に臨む。
そのテストでお前のプランはおかしいと向こうのプランをぶつけられることもあるし、相手の芝居に乗れるように誘導してくれることもある。
今回の笹沼の場合は、上手く嚙み合うように音無を受け入れて調整してくれていた。音無が自由にできるように。それは音無を信頼してのことでもある。まさかBLCDでそんな体験ができるとは。
「BLって、よく少女漫画って言われるんだよね。僕それ、結構わかるなと思って。受け役が多いせいもあるかな」
「少女漫画……」
「関係性と心情に重きが置かれるからね。だからやっぱり……ドラマなんだよ。女性向けに好まれる喋り方とか、テクニックとかはあるけどさ。ドラマがなければ、人の心は動かないから。そしてドラマにできるかどうかは、僕らにかかってるんだと思うよ」
そう言って微笑んだ笹沼に、音無はぎゅっと胸を掴まれた気分だった。
笹沼はわかっているのだ。音無が何がしたいのか。何を不安に思って、何を求めているのか。それは或いは笹沼も通ってきた道なのかもしれない。
「……少女漫画には、濡れ場ないですけどね」
「あはは! それは確かにそう!」
「なんでBLって濡れ場必須なんですかね」
「うーん? 男の喘ぎ声聞けるコンテンツってそうないからじゃない? ないやつもあるにはあるけど、圧倒的に濡れ場有りの方が需要高いしね」
結局イケボが口説いて、イケボが喘いでいるのが一番重要なのか、と音無が眉を顰めた。
その内心を読んだかのように、笹沼は続けた。
「イケボって、そう悪い評価じゃないと思うなぁ」
「……悪いと思ってるわけじゃ」
「声だけって言われてる気分になるんでしょ?」
図星をつかれて黙る。その様子に、笹沼は笑った。
「気持ちはわかるよ。僕も声で得してるって言われたこと、何度もあるしね」
「笹沼さんでもですか」
「あるよー。嫌味で言ってるやつは聞き流したけど」
やはりそうできるだけのメンタルを鍛えなくてはいけないのか、と思う音無だったが。
「お客さんが言うイケボは、声だけとは限らないからね」
「え……」
「お客さんはね、僕らと違って言葉のプロじゃないんだよ。批評家でもない。ほら、若い子がよく『ヤバい』とか『エグい』とか多用するじゃない? あれは感じたことを言葉に落とし込めるだけの語彙がないんだ。でも感じてないわけじゃない。本当はもっとたくさんのことを受け取っている。芝居に込められた想いが届いて、心に迫るものがあって、だけど沸き上がった感情につける名前がないから『エモい』になる。耳に馴染む喋りをして、そこに乗せられた感情が心地良くて、ずっと聴いていたいほど好ましいから『イケボ』って言ったりする。出てきた言葉が好意なら、素直に受け取るべきだよ。自分が望むだけの言葉が出てこないことを不満に思うなら、それは傲慢だ」
音無は恥ずかしさから顔が熱くなった。そんな当たり前のことが、どうして頭から抜けていたのか。
望んだ反応が返ってこないことに、どこか落胆していた。どれだけ表現しても、どうせ受け取れないだろうと。
何故そんな風に思ったのか。仕事を始めたばかりの頃は、たった一言「好き」だと言われたことを、何度も何度も思い返しては嬉しく思っていたのに。
いつの間にこんな、驕ってしまっていたのか。
「大丈夫。音無くんが伝えたいことは、ちゃんとお客さんにも届いてるよ。無駄なんかじゃない」
「……っす」
「それでも受け取ってもらえないと思うことがあったら、その時は僕が受け取るから」
「笹沼さんが?」
「僕結構音無くんの作品チェックしてるからね。どこをどう思ったか、音無くんが満足するまでいくらでも喋ってあげる」
「いや、忙しい笹沼さんにそんなことさせられないですよ!」
というか先輩からそこまで細かく意見されたら、それはそれでメンタルがやられそうだ。
ぶんぶんと手を振る音無に、笹沼は楽しげに笑った。
「音無くんほどじゃないよ。売れっ子だもんね」
「いや、俺なんてまだまだで」
「そういえば時間大丈夫? そろそろじゃない?」
「え? うわ、ほんとだ」
時計を見ると、そろそろ次のスタジオに移動しなければならない頃だった。
急いでアイスコーヒーを飲み干して、ゴミ箱へと空のカップを放る。
「笹沼さん、ありがとうございました。話聞いてもらえて、すっきりしました」
「こちらこそ。おじさんの説教に付き合わせちゃったみたいで、悪かったね」
「とんでもないです。また共演できるの、楽しみにしてます」
「うん、僕も。楽しみにしてる」
手を振る笹沼に頭を下げて、音無は駅の方へと駆けて行った。
笹沼はベンチに座ったまま、その姿が見えなくなるまで、目を細めて眺めていた。