5月31日 エルネスト家4
「えっルド? どうして……」
突然の承諾に余程驚いたのか、リュシエンヌは言葉が続かない。
あんなにサインをしてほしいと言っていたのに、まるで青天の霹靂とでも言わんばかりの表情だ。
「俺がいま、未来は変えられるという話をしたのに、君の表情は全然明るくならない。まだ不安でたまらないって顔してる」
「それは……」
「リュシの一番の不安は、明日この国に来るアレシア、そして俺の気持ちの変化……だろ?」
「…… 」
「アレシアに会ってしまったら、俺の気持ちが変わる……リュシはずっとそう思ってるよね」
一瞬、リュシエンヌは何かを言いかけたが、きゅっと唇を結んで小さく頷いた。
さっきより肩に力が入り、頬が緊張しているのがわかる。
彼女の表情に、ルドウィクは胸が潰れるような苦しさを覚えた。
「じゃあリュシ、一つ質問に答えてほしいんだ」
「……質問?」
リュシエンヌは緊張した表情のまま、ルドウィクの真意を探るように、少しだけ顎を引いて彼を見つめた。
「うん。君の答えがどんなものでも、この証明書にサインすることには変わらないよ。だから、気にせずに本当の気持ちを聞かせてほしい」
格好つけて言ってみたが、ルドウィクの顔は不安で強張っていた。
彼女から発せられるかもしれない最悪の言葉を考えるだけで、喉が張り付くように乾いてくる。
そんなルドウィクを見つめていたリュシエンヌは、ひとつ瞬きをして、こくりと頷いた。
「さっきリュシは、俺に腹が立つと言ってたよね」
「それは……」
「リュシは俺のこと……もう嫌いになった?」
「え?」
「俺のこと嫌い?」
二度目の問いかけが終わると同時に、リュシエンヌは素早く顔を伏せた。
とうとう聞いてしまった……。
ずっと気になっていたのは、彼女が前回の出来事を反芻しているうちに、俺に対して腹が立ってきたと言ったことだ。
お互い嫌な思いをしないために! なんて言ってたけど、実はもう俺のことを嫌いになっているのでは? ふと、そう考えてしまった。
俺とリュシエンヌが出会ったのは、7歳から始めたダンスのレッスンだった。
貴族の子供達のほとんどは、王宮で長年勤めていたバイレ先生の教室へ、マナーとダンスを習いに行くことになっている。
そこは、社交界デビュー前に、友人や知人を作る場所にもなっていた。
今では親友になったクリストフやリカルド、それにセレーネとも、その教室で仲良くなった。
レッスンが進むうちに、一年早くレッスンを受けていたリュシエンヌがパートナーとして紹介された。
彼女を知れば知るほど惹かれていき、7歳になったばかりの俺は、あっという間に恋に落ちていた。
12歳を過ぎ、社交界デビュー以降も交流は続いた。
年を追うごとに聡明で美しくなる彼女に、自分も相応しい男になれるよう頑張り続けた。
そうだ、初恋からずっと、俺はリュシエンヌが好きだ。
その気持ちは今も、何一つ変わらない。
婚約してからも、顔を合わせるたびに気持ちを伝えていたが、それに対してリュシエンヌはふふふと笑うだけで、今まで一度も「好き」と言われたことがなかった。
ルドウィクは喉が渇きすぎて、唾を飲み込むことさえできなかった。
目の前のリュシエンヌは、問いかけに答えることなくうつむいたままだ。
これは最悪を考えなければいけないのか……。
ルドウィクがそう思った時、リュシエンヌの耳が真っ赤になっていることに気づいた。
「リュシ?」
「……」
肩が少し揺れたように見えたが、返事はない。
ルドウィクは席を立ち、テーブルを回り込んで彼女の横に跪いた。
「リュシ? 返事を聞かせてくれないか?」
「嫌い……わけ……ないじゃな……」
「ごめん、聞こえない。何?」
俯いている顔を覗き込もうとした瞬間、栗色の髪がふわっと揺れ、チョコレートの甘い香りがした。
「もうっ‼ 嫌いなわけないじゃない!」
リュシエンヌは勢いよく顏をあげた。
頬を膨らませ、顔全体がピンク色に染まっている。
続けて、二回目の「もう!」を言ったあと、口が少しだけへの字に曲がった。
膝の上で固く握られている手に、ルドウィクはそっと手を重ねた。
その細い指は、驚くほど冷たくなっている。
「嫌いじゃないってことは、俺のこと……好き?」
「何よ、突然……」
「だって俺はリュシが大好きなんだ、いつも言ってるだろ? 婚約破棄の証明書にサインをする前に、君の本当の気持ちを聞かせてほしい」
リュシエンヌの指にぐっと力が入る。
「リュシ、頷いてくれるだけでもいい……」
ルドウィクが言葉を続けようとした瞬間、リュシエンヌは大きく頷き、すうっと息を吸った。
「ルドウィク……ずっと、あなたのことが……大好きよ」
「本当!」
重ねていた手から、リュシエンヌの手がふわりと離れた。
彼女はそのまま自分の顔を両手で覆い、何度も頷いている。
その仕草があまりにも愛しく、そして、初めて聞くリュシエンヌからの言葉に、ルドウィクは心の底から安堵した。
良かった、嫌われたわけではなかったんだ。
これで間違いなく、次に進める。
「ありがとうリュシ。もう何の迷いもなく、この証明書にサインができる」
「でも……ルド、どうして」
「君を安心させたいからだよ」
「安心?」
リュシエンヌは、顏を覆った指の隙間からルドウィクを見た。
ルドウィクは立ち上がり、テーブルの上の二つのグラスへ水を注ぐ。
一つはリュシエンヌの前に、もう一つは自分で一気に飲み干した。
「君は今、俺のことが信用できない。でも、俺は絶対に君を裏切らないという自信がある。リュシ以外を好きになるなんてありえないと思っている」
「信用できないわけじゃ……ただ……」
「うん、わかってる。君が一度経験した未来の俺は、別人のように酷い男だったようだ。少し話を聞いただけで、俺も腹が立つ! 相手は自分なのに」
リュシエンヌは少しだけ頷くと、グラスに手を伸ばした。
「だからこの証明書にサインをする。そのうえで、俺にチャンスをくれないか?」
「どういうこと?」
「実は、リュシに『嫌い』と言われたら、明日にでも婚約破棄の提出をしてもいいと思っていたんだ。だって、一番大好きな人を苦しめるのが自分だなんて……考えただけでも悲しいからね。でも、俺のことを『好き』と言ってくれた、よね?」
「……うん」
小さな声でリュシエンヌは答え、持っていたグラスに少しだけ口を付けてテーブルの上に置いた。
ルドウィクはその手をもう一度掴み、あらためて彼女の前に跪く。
「だから、チャンスが欲しいんだ。俺はサインをする。ただし、この証明書は今は提出しない。その代わり、もし俺がアレシアに惹かれていると君が感じたら……そのときは迷わず提出してくれていい。俺はずっと君を愛してる。それを信じてほしい」
言い終えると同時にルドウィクは、リュシエンヌの手の甲に誓いのキスをした。
彼女は声にならない声を上げ、恥ずかしそうに微笑んだ。
「うんわかった……私の話を信じてくれてありがとうルド」
「どういたしまして。じゃあ、早速サインをするよ」
ルドウィクは急いで立ち上がり、引き出しから羽根ペンと黒いインクを取り出した。
自分から書くと言ったものの、『婚約破棄』と書かれている用紙にサインをするのは、とても勇気がいる。
手が汗ばむのがわかる。
いや、こんなのは時間をかけても仕方ない!
ルドウィクは気持ちを奮い立たせ、一気に名前を書き上げた。
「はい、書き終わったよ。これは持って帰っていいけど……あ、でも、すぐ侯爵に渡すのは駄目だからね! 俺、本気で泣くから」
「ふふっ大丈夫よ、今は信じてるわ」
「『今は』って……」
「やだ、ごめんなさい」
リュシエンヌが、肩をあげていつもの笑顔を見せた。
その顔を見た途端、ルドウィクの緊張が一気にほどけていくのがわかった。
きっと大丈夫だ、いつもどおりの二人に戻れる。
ただもうひとつだけ、ルドウィクには気になっていることがあった。
今日の投稿はここまでです。
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