5月31日 エルネスト家3
「あっという間って、どういう意味だい?」
さっきの話を聞くかぎり、アレシアに一目惚れをしたわけではなさそうだ。
リュシエンヌがいるのだから、そんなことは当たり前のはずなのに……そうではないのか?
目の前のリュシエンヌは、質問を無視するかのようにグラスに入った水を一口だけ飲んだ。
深いため息を吐き、俺の瞳をじっと見つめる。
「じゃあ、そのことを一気に話すわ。でも、わからないことも多いから」
「大丈夫だよ」
ルドウィクが答えると、リュシエンヌは頷いて大きく息を吸った。
「彼女……アレシアが来て二日後からかな、ちいさな事件が続けて起きるの。楽譜が噴水に落ちる、彼女のドレスがインクで汚れる。お茶会に彼女だけ招待されない。彼女の大切な扇子……これは月末に行われたパーティで持ってたものなんだけど、その扇子が壊された状態で見つかる。これ、全部私のせいだって!」
「え? そんなことリュシがするわけないだろ」
「もちろんよ、私は何も知らない。でも、その事件の時に同じ場所にいたのは確かよ。それに扇子の件は証言者がいたらしいわ……。あとは、私に嘘をつかれたーとか、無視されたーとか、たくさんあるの」
「誰がそんなことを」
「だからわかんないの。だって、身に覚えがないんだもの。でも、これは全部あなたに言われたことだから!」
「俺が……」
「ええ、あなたよ」
少し早口になっていたリュシエンヌの声が、急に大きくなった。
手に力が入ったのか、テーブルの上のナイフがカチャリと小さな音を立てる。
「あっごめんなさい。思い出したらつい……」
リュシエンヌの頬が高揚している。
自分が大声を出したことに驚いたのか、ぎゅっと眉をしかめている。
こんなにも感情的な彼女の姿を見るのは、ルドウィクにとって初めてだった。
テーブルの上で固く握られたリュシエンヌの手に、ルドウィクはゆっくりと手を伸ばした。
「リュシ……」
「ごめんなさい。そういうことで、これを」
リュシエンヌは伸ばされた手をさっとかわすと、代わりにテーブルの上に置かれていた天鵞絨の箱をルドウィクの手の上に乗せた。
「え?」
「開けてくださいな」
「ああ……わかった」
なぜだろう、鳩尾の辺りが嫌な気分だ。
良くない物が入っている予感がしている。
ルドウィクは目の前に箱を置き、蓋に手をかけたまま躊躇っていた。
すると、リュシエンヌが林檎のパイを食べ始めた。
余程美味しいのか、目を見開いたかと思うとギュっと閉じ、うんうんと頷いている。
ああなんて可愛いんだ。
よし、開けよう……きっと大丈夫だ。
ルドウィクが箱の蓋を持ち上げると、少しの抵抗とともに静かに開いた。
中には一枚の紙。
何か書いてある。
「婚約……破棄、証明書だって!?」
「うン」
パイを頬張っているリュシエンヌが、力の抜けるような返事をした。
パーヴァリ家の家紋の透かしが入った用紙には『私、リュシエンヌ・パーヴァリはルドウィク・エルネストに対し、以下の通り婚約の解消を通知いたします』と書かれており、今日の日付とサインが続いていた。
「婚約破棄はしないって言ったじゃないか!」
「それはルドが言ってるだけでしょ、私はしたいの」
「どうして?」
「どうしてって? さっき話したとおりよ。あなたは彼女を好きになる。それなら先に婚約破棄をしておけば、お互いに嫌な思いをしなくて済むじゃない」
「絶対に好きに何てならない!」
「それは今日だから言えるの、彼女を見たら気が変わるわ」
「変わらないっ!」
思わず語気が強くなり、ルドウィクは席を立ってしまった。
リュシエンヌは目をまん丸に見開くと、小さく頷き、おもむろに立ち上がった。
「ルド、理不尽なことを言ってるのはわかってるの。でも、これから起こってしまうことは避けられない。だから……」
感情的な俺とは対照的なリュシエンヌの穏やかな声。
彼女は俺にひどい仕打ちを受け、つらく悲しい思いをしながら死んでしまったと話してくれた。
現在、また同じ人生を繰り返していると知り、きっと俺が同じ過ちを犯すと思っているのだろう。
でも、ここにいる俺が好きなのは、リュシエンヌだけだ。
アレシアという女がどれほど美しいとしても、この気持ちは絶対に変わらない。
それに、楽譜や扇子の紛失といった小さな事件が、全てリュシエンヌのせいとはどういうことだ?
俺が言っているというのも、あまりにも不自然じゃないか……。
「嫌だ」
「ルド……」
「嫌だ! 納得がいかない!」
抑えようとしたつもりが、つい声が大きくなってしまう。
婚約破棄証明書を破りそうになるのをギリギリで堪え、ルドウィクは天鵞絨の箱の蓋を閉めた。
箱の上に置いた両手が、小刻みに震えている。
そんなルドウィクの様子を見ながら、リュシエンヌは目を伏せて頷いた。
考えるような表情で、天鵞絨の箱を黙って見つめている。
二人の間に沈黙が続いた。
「そっか、そうよね『納得がいかない』よね……ごめんなさい」
リュシエンヌはそう言うと、突然頭を下げた。
「リュシ、頭なんて下げないでくれ」
「ううん、私が一人で急ぎすぎたの。気持ちが先走っちゃって……」
顏をあげたリュシエンヌは、美しい灰青色の瞳をゆっくりと瞬いた。
淡く澄んだ瞳に見つめられ、ルドウィクは心臓をぎゅっと掴まれたような気分になる。
「ちゃんと説明するわね……」
リュシエンヌは眉を下げ、姿勢を正しながら席に着いた。
続けてルドウィクも椅子に座る。
そのとき彼女は唇を一瞬尖らせ、わずかに不満そうな表情を抑えて話し始めた。
「この前から私、とても失礼なことをしてるのはわかってた。でも焦ってしまって……反省してるわ」
「大丈夫だよ、怒ってるわけじゃない」
「……ごめんなさい……でも、どうしても……」
「どうしても?」
「ええ、どうしても、腹が立って仕方なくて!」
「!?」
腹が立って仕方ない?
突然発せられた言葉に、思わずリュシエンヌの顔を見つめた。
しかし、口をぎゅっと結び、今度は全く視線を合わせようとしない。
「私、自分が人生をやり直してると気付いた時は、とにかく不安で仕方なかった。あなたに婚約破棄を言われたことや、今までに見たことがないような冷たい表情を思い出して、毎日悲しくてたまらなかったの……」
「うん……」
俺は一体どんな顔で、言葉で、彼女を責めんだろう。
人前で声を荒げて貶めるなんて、最低なことだ。
「でもね、ずっと泣いていて気づいたの。よく考えたら、私達は子供の頃からの幼馴染で婚約者よ。どうして少しも私の話を聞かないのって? ルドは言いたいことだけ言って、一か月前に会ったばかりの彼女の肩を抱いたりしてたわ! しかも大勢の前で、ばっかみたいな大声で『婚約破棄だ!』とか言っちゃってるの。あれ? なんだこいつって思い始めて……」
「ん……?」
「だって、私から話を聞きたいならば、当事者だけで集まって話し合いすればいいじゃない? どうして皆の前でやる必要あるの? これって、最初から聞く気なんてないってことだよね? なんだこいつ、ムカつくなーって」
彼女の口から『なんだこいつ』なんて初めて聞いた、しかも二回目だ……。
こいつって俺のことだよな……。
リュシエンヌは横目でルドウィクを見ると、飲みかけだったグラスの水を一気に飲み干した。
顔全体がピンク色に染まっている。
「失礼。それでね、そのこと考え始めたら腹が立って仕方なくて、どうしても納得がいかない、ルドの顔を見るのもつらーい! ってなってきちゃったの。で、彼女が来る前に、婚約破棄をしてもらえばいいんだ! って思いついたのよ」
「そうなんだ……」
「うん。でも、今ルドに『納得がいかない』って言われて気づいたの。よく考えたらルドはまだ何もしてないんだもんね、納得いかないよねって。だから一応謝らなきゃなって……ごめんなさい」
リュシエンヌがまた頭を下げた。薄い栗色の髪が肩からさらりと落ちる。
確かに俺は何もやっていない、彼女は未来の話をしているのだから。
でも、ここまでの気持ちにさせたのは俺だ。
――俺じゃないけど、俺のせい。
そんな矛盾に、ルドウィクの頭は混乱していた。
「あ、いや謝らないで……」
「うん」
軽い返事をしたリュシエンヌは、目の前のボンボンを口に放り込んだ。
件のアレシアは、明日からこの国にやってくる。
父に頼まれてしまった手前、全く接触しないというわけにはいかないだろう。
もちろん俺は絶対に好きにならない、どんな美人でも大丈夫だ。
でも、リュシエンヌからの信用はないし、どう見ても怒りが収まっていない。
全てが、俺じゃない俺のせい……。
一体どうすれば彼女の不安を払拭できるんだ?
少しの沈黙が続き、リュシエンヌが大きく息を吐いた。
眉根を寄せたまま、テーブルの上を見つめている。
「リュ……」
「いま説明したので理解してくれたと思うんだけど……」
「ああ、なんとなく」
「よかった! じゃあこれにサインをお願い」
眉間をゆるめ、ボンボンをもう一つ頬張ると、リュシエンヌは天鵞絨の箱を笑顔で指さした。
「え? 嫌だよ」
「んもーわかってない!」
彼女はまた、唇を少しだけ尖らせた。
その顔もまた可愛いと思ってしまったが、今はそんなことを考えている場合ではない。
リュシエンヌは、今日絶対に婚約破棄をすると考えて来たのだろう。
十日前にくれた――これから起こる出来事を書き記したメモの日から、ずっとだ。
彼女は自分が死んでしまったこと、なぜかまた同じ人生をやり直していることに気づき、どうしようもできないと感じていた。
全く同じ日々をなぞるような生活……そして、その後にやってくる俺との最悪な結末。
彼女は絶対に未来を変えられないと思っているようだが、そんなの俺の気持ち次第なのでは……って、その俺が信用できないのか、あーもう……。
――あれ? いや、待てよ。
未来は変えられる!
ああ、大丈夫だ!
「リュシ!!」
「どうしたの大声出して。びっくりするじゃない」
ぼんやりと箱を見つめていたリュシエンヌが、慌てたように顔をあげた。
「君は、未来を変えられないと思ってる?」
「ええ。だって証明したでしょ」
「いや違うよ。未来は変えられるし、もう変わってる」
「どういうこと?」
長い睫毛をバサバサっと瞬かせ、リュシエンヌは少し首をかしげた。
「わかっているだけでも既に二回変わっているよ。しかも、君主導でだ」
「え……?」
リュシエンヌは、困惑した表情で首を傾げる。
どうやらまだピンと来ていないらしい。
不安が大きすぎて、うっかり見落としている――未来が簡単に変えられることを。
「まず一度目。君は俺に雷雨の予言をしただろ?」
「ええ」
「あの日、本当は違う場所でデートをしていて雨に降られたんじゃかなった?」
「あ……」
彼女の瞳が、大きく見開かれた。
「あともう一つ。君が僕に、これから起こる出来事のメモをくれただろ? あの中に『チョコレート専門店へ向かうセレーネと私に声を掛けないで』というのがあったのを覚えてるかい?」
「あっ!」
リュシエンヌの瞳が更に大きく開かれ、今にもこぼれ落ちそうになっている。
「あの日、君の後ろ姿を馬車から見ながら、泣く泣く家に戻ったよ。せっかくのお茶の機会と美味しいチョコレートが食べられなかった」
冗談めかして言うルドウィクの言葉を聞きながら、リュシエンヌは両手で口を覆った。
「本当だわ、全然気づいてなかった。そっか、変えられる……でも……」
少しだけ緊張が解けたように見えた彼女の顔が、またどんどん曇っていく。
やはり、リュシエンヌが一番気にかかっているのは……アレシアのことだ。
ルドウィクは、テーブルの上で異様な存在感を放っている天鵞絨の箱に手を伸ばし、蓋を開けた。
「ま、俺もさっき気付いたんだけどね。それで……っと」
箱の中から証明書を手に取り、もう一度内容を確認した後、くるりと向きを変えてリュシエンヌの前に置きなおした。
「リュシ、俺はこの証明書にサインするよ」




