5月31日 エルネスト家2
◆ 2
バターと林檎の甘い香りの中、二人の間に沈黙が広がった。
「今日はその話を詳しく聞きたいと思っていた。そして、婚約破棄は絶対にしない」
リュシエンヌは視線を横に逸らし、サイドテーブルに置かれていた深緑色の天鵞絨の箱を手に取った。
見た目とは違い、とても軽そうに見える。
「あまり話すことはないの、だってあなたがあの彼女を……好きになっただけなんだもの。そして私のことを憎んでたわ」
天鵞絨の箱をテーブルの上に置きながら、リュシエンヌの声は小さくなった。
「憎むだなんて! 信じられない」
「私だって信じられなかった」
ふっくらとした桜色の頬が、みるみる血の気を失っていく。
気持ちを落ち着かせるためか、リュシエンヌは紅茶のカップを手に取った。
「リュシ、君のそんな悲しい顔を見たくないよ。でも、そんな表情をさせたのが俺なんだろ? 俺が君に何をしたか話してくれないか……」
「……」
「俺は君が生まれ変わったことを信じてる。だからこそ聞きたいんだ、俺がどんなことを君にしたのか」
「話したら、涙が出る……」
リュシエンヌは小さな唇をきゅっと真一文字に結んだ。
「そんなの俺が拭うし、嫌じゃなければ抱きしめる! あ、あとこの林檎のパイを好きなだけ食べていい! 本当は俺が独り占めしたいくらい美味しいんだ」
「もう、ルドったら」
リュシエンヌは目を細め、少しだけ眉を下げた。いつもの表情だ。
そのまま、ガラスの器に盛られた金平糖をつまむと、一粒口に運んだ。
彼女の頬が動くと同時に、カリッと小さな音が聞こえる。
「そうね、ごめんなさいルド。確かに何も話さないのはおかしいわ。でも、分からないことのほうが多いの、それでも構わない?」
わからないこと? なんだか怖くなってきた……俺何したんだろう……。
だが、そんな心配より、話が聞けるほうが大事だ。
「全然かまわない! 話してくれ」
リュシエンヌは俺の目を見てしっかりと頷くと、天鵞絨の箱の上に両手を乗せて話し始めた。
「明日6月1日、彼女が王立図書館を訪れるの。大騒ぎになるわ」
「どうして?」
「それは彼女……アレシアがとても綺麗だからよ……私も初めて見た時驚いたもの。こんな美しい人がいるのかって」
ごくり……喉が鳴ってしまった。リュシエンヌがそれに気づいて目を見開く。
違う、そういうんじゃない! まさか容姿の話とは思わなくて驚いただけだ。ここで言い訳すると余計にあやしいから言わないでおこう……。
「……好みというのは人それぞれだからわからないな、でも、そんなことで騒ぎになるのか……」
「ええ、そうね……まあいいわ。それで、図書館に来た彼女の案内をするようにと館長のグレイスさんがセレーネに頼むんだけど……」
「セレーネは司書の勉強もしているから、おかしな話ではないな」
「うん。でもルドが手をあげたの『俺が案内するよ』って」
「俺が?」
「そうよ」
小さく溜息をつきながら、リュシエンヌは金平糖をまた一つ口に入れた。
自分から手をあげたのか、なんだか気まずい……。
「でも、この時は特におかしいと思わなかった。だってエルネスト家は王立図書館の管理を任されてるしね」
「ああ……うん」
「それに、夕方私の屋敷に寄ってくれたの。実は彼女はある国の王女で、父に彼女の手助けを頼まれたんだーって」
「俺、すぐ話しちゃってんだな……」
「ええ、すっごく驚いたわ」
俺も今、自分のおしゃべりに驚いたとこだ。でもそれだけリュシエンヌのことを信用しているし、誤解もされたくなかったんだろう。
確かにこの状況なら俺も同じ行動をとる……って俺か、あー混乱する。
「でもこの日が最後かな……ルドが優しかったのは」
「え!?」
「ここから婚約破棄まで、あっという間なの!」
少しだけ語気を強めたリュシエンヌは、変な声を出してしまった俺にそう言い放つと、天鵞絨の箱を指先でタンっと叩いた。