6月28日 カトラン子爵邸 裏庭2
「リュシ! ルル! 二人ともどうしてここへ?」
外灯に照らされた薄暗い小道に、二人が立っていた。
リュシエンヌは、無表情ではあるが冷静に見えた。瞳に街灯の影が揺れている。
ルルは、この状況に困惑を隠しきれていない。
アレシアに気づいたリュシエンヌは、軽く会釈をして口を開いた。
「だってルド、ホールでレスター夫人に話しかけてたでしょ? そうしたら、急に中庭に駆けていくんだもの。慌ててルルと一緒に、中庭が見えるテラスまで出たの」
「うん、そうだよお」
ルルが相槌を打つ。
「そうしたら少しして、アレシアさんまで違う場所から中庭に出ていくのが見えて……その、ルドの後を追っているように見えたの。だから、気づいたら私も後を追いかけて……」
「わたしは、ルドウィクがリュシエンヌから離れないでって言うから、一緒についてきちゃったのお……」
俺の顔を見てはいるが、ルルの視線がそわそわしているのがわかる。
リュシエンヌの行動にも驚いただろうが、まさかここに三人いるなんて思ってもいなかったはずだ。
「ありがとうルル、すまない」
「ううん……」
ルルはなにかを言いかけ、そのまま口ごもってしまった。
視線はアレシア、セレーネ、リュシエンヌを順番に回り、最後にまた俺と目が合う。
「ルル、大丈夫かい?」
「ううん……あっ! そうだわ、わたしったらあ!」
少し芝居がかった調子で声を張ったルルが、何度も目くばせをしながら目の前までやってきた。
「わたし、やっぱりカールが気になってきちゃったあ。リュシエンヌは、ルドウィクがいるからもう大丈夫よねえ?」
ルルの目力が凄い。
この場の妙な空気を察して、ここから去ろうとしているようだ。
自分と一緒にこの会場に来たセレーネは、なぜか俯いたままで声をかけてこない。
しかも、今日のパーティの主役であるアレシアがいる。
この状況はどう考えても不自然で、いたたまれないのだろう。
「ああ、大丈夫だ。本当にありがとうルル」
「ううん、全然平気よお。では皆さま、失礼いたしますわねえ」
「ルル、ありがとう!」
声をかけるリュシエンヌに笑顔で頷き、全員に向かって丁寧に一礼したルルは、あっという間に中庭へと戻っていった。
ルルの後ろ姿を見送った後、場の空気が一気に重くなる。
困惑の表情でセレーネを見つめるリュシエンヌ。
状況が良くないことは、一目で理解しているはずだ。
前回の人生で、自分の身に起こった最悪な出来事。
現在の新しい人生にも起こる、不可解な事件。
そして、よりによって目の前には親友がいる……。
まさかセレーネが関係しているのではと、不安に思っているはずだ。
残念だが、間違いなくそうなんだ……
しかも、これから更に嫌な話を聞かなくてはいけない。
「セレーネ。さっきの話の続きを聞きたい」
「……ハァ」
溜息をつきながら、重い足取りで倉庫から出てきたセレーネは、煩わしそうな態度を隠さない。
そんな彼女を見て、アレシアは心配そうな表情をしていた。
「ねえセレーネ。わたくしルドウィクさんにあなたのことを……」
「なんなのもう! みんなしてうるさいっ……」
一瞬、セレーネ以外の三人が息を呑んだ。
そんな周りの状況など気にも留めず、セレーネは語気を荒げる。
「ルドウィクも! アレシアも! 私が嘘をついてるって思ってるんでしょ? 私は嘘なんかついてないわ! だって、全部リュシが悪いんじゃないっ!」
「えっ? 私?」
突然のことに、リュシエンヌの全身に力が入る。
思わず肩を引き寄せると、セレーネは睨みつけるように顎を引いた。
「……もうっ、なんなのよ」
「ねえセレーネ? 私何かした?」
「『何かした?』 じゃないわよ……私からルドウィクを取ったじゃない!」
セレーネは、今にも泣きだしそうな掠れた声で叫んだ。
リュシエンヌは、信じられないというような表情で振り返り、俺を見上げる。
キングサリの甘い香りが、風に乗ってここまで微かに香ってきた。
正面にいるアレシアまでが、俺を不審な目で見ている。
「いやいやいや、待ってくれ」
当たり前だが、本当に何も心当たりはない。セレーネとは小さい頃からの幼馴染、ただそれだけだ。
二人だけで会うなんてことも一度もない。いったい何の話なのか全く見当がつかない。
リュシエンヌは俺を見つめ、セレーネはリュシエンヌを睨みつけている。
「リュシが婚約する半年くらい前、私に婚約の話が上がったの。父は『昔から交流があるエルンスト家はどうだ』って。親同士の関係も良好、仕事でもつながりがある、良い話じゃないかってね」
初耳だった。そんな話は一度も聞いたことがない。
リュシエンヌは真剣な表情でセレーネの言葉に耳を傾けている。
「それが何か月たっても、全然話が進まない。たまにルドウィクと会ってもそんな素振りもなくて、母から父に聞いてもらおうかと思ってた頃、リュシに大事な話があるってお家に呼ばれたの」
リュシエンヌは、何かを思い出したように唇をきゅっと結んだ。
「覚えてるでしょ? あれは、そろそろキツネ狩りが始まろうという季節。まだ雪は降ってなかったけどとても寒い日だったわ」
「ええ……」
「パーヴァリ家に行くと、使用人たちがなんだか浮足立っていて、楽しそうな雰囲気だった。だからきっとリュシの話は良いことなんだって思ったの」
「……」
「部屋に通されたら、見たことがない可愛いお菓子やお花がたくさん。まるでパーティみたいに飾り付けがされていて、とても華やかで素敵だったわ……」
その時のことを思い出しているのか、セレーネは目を細め、口の端を少しだけあげて微笑んだ。
「わたしもう我慢できなくって、部屋に入った瞬間に『どうしたの早く聞かせて!』って、お願いしちゃったのよね」
「ええ、そうだったわ」
リュシエンヌが呟くと、セレーネはふっと鼻で笑った。
「そこで聞かされたのよね、あなたが婚約したってこと」
まるで責めるような口調のセレーネに、隣で聞いていたアレシアは眉をひそめた。
リュシエンヌとセレーネ。二人は小さい頃からの親友だ、それなのに……。
セレーネは続ける。
「私は耳を疑ったわ。だって、お相手がエルンスト家って言うんだもの。あれ? ルドウィクって兄弟いたっけって考えた……だから聞いたのよね、『ルドウィク?』って。そうしたらあなたは嬉しそうに私に抱き着いて……『うん』って」
セレーネの語気がどんどん強くなっている。
それでも、リュシエンヌは視線をそらさない。
「頭の中が真っ白になったわ。あなたが何を言ってるかわからなかった。これは夢だと、何かの間違いだと思った……そうしたら、どんどん胸が苦しくなっていったの。リュシのことは大好きなのに、大好きだったのに……嬉しそうにルドウィクの名前を口にしている姿をみていると、憎くてたまらなくなった!」
「……!」
セレーネの口から出た「憎い」という言葉に、リュシエンヌは俯いてしまった。
親友だと思っていたセレーネが、まさか自分をそんな風に思っていたなんて、受け止められるわけがない。
力なく俯いたリュシエンヌの肩が、びくりと震える。
何かに気づいたように勢いよく顔を上げ、俺を見た。
美しい灰青色の瞳が大きく見開かれ、みるみる涙が溜まっていく。
少し開いた唇は、言葉にならないまま震えていた。
リュシエンヌは今、確信してしまったのだ。
自分が死んでしまった前回の数々の出来事に、一番の親友であるセレーネが関わっていたことを……。
昨日、アレシアと話をした時、俺だって信じられなかった。
本当はリュシエンヌに知られないうちにセレーネのことを解決したかった。
せっかく生まれ変わった彼女に、悲しい思いをさせたくなかった。
そのために頑張っていたつもりなのに……。
ぽろぽろと涙を零すリュシエンヌの頬を拭い、俺はただ頷き返すことしかできなかった。
正面にいるセレーネは、無言のまま俺達二人をじっと見つめている。
その頬は、外灯の中でも紅く蒸気しているのがわかり、大きな瞳はまずます大きく見えた。
リュシエンヌは何かを決めたように大きく息を吐き、俺から視線を外してセレーネに顔を向けた。
「セレーネ、あなたの私への気持ちは分かったわ……」
「私のこと……嫌いになったでしょ?」
小さな声でセレーネが問いかける。
リュシエンヌは首を横に振った。
「ううん、嫌いになんてなれない。だって、ずっと一番大好きな友達なんだもの……だから受け入れられない、あなたがどんなに私のことを嫌いでも」
はっきりとした口調で、リュシエンヌはセレーネの顔をまっすぐに見つめて答えた。
その迷いのない視線に、今度はセレーネが俯いてしまう。
「ねえ、セレーネ。小さい頃から、私にいろんなことを教えてくれたよね。あなたは頭が良くて、なんでも知っていて、自分の考えをしっかり持ってた。私、あなたにどれだけ助けられたかわからない……友達だけど、ずっと憧れていたのよ」
「……」
「だから、ルドと婚約が決まったとき、あなたに一番に知らせたかったの」
「そんなことっ……」
セレーネが掠れた声をあげ、頭を小さく振る。
髪に結ばれたリボンが、力なく揺れている。
「そんなこと、わかってる!! でも、私は……悔しくてしかたなかった。だって! 私の家が先にエルンスト家に話していれば、この報告をしていたのは私だったはず……」
「そんな……」
「だってそうでしょ? 私の家ではエルンスト家と婚姻をという話がすでに出ていたわ。それを……リュシが!」
叫ぶようなセレーネの声が、人影がない小道まで響いた。
呆然と立ち尽くすリュシエンヌを後ろへ下がらせ、俺はセレーヌと向き合った。
それを見たセレーネは、俺を避けるように数歩下がる。
このわずかな距離が、やけに遠く思えた。
セレーネは口元を歪ませ、こちらを見つめている。
眉を深く寄せ、今にも泣きだしそうな子供のような顔だ。
その表情に戸惑っていると、セレーネはふっと頬を持ち上げ、精いっぱいの笑顔をつくった。
微かに震える唇が、弱々しく開く。
「ねえ、ルドウィク……あなたの口から聞かせて? もし、パーヴァリ家ではなく、マルセル家が先に婚約話を持ち掛けていたら? 私と婚約したわよね?」
強気な言葉とは正反対に、瞳にあきらめの表情が浮かんでいる。
胸がひどく痛む。
「セレーネ……君のことはとても好きだ。一人の人間として尊敬している。しかし、それは愛じゃない。友人を思う気持ちだ」
「……」
「それに、婚約を申し込んだのはエルンスト家からだ。俺から父に頼んだんだ。もし、マルセル家から話が来ていたとしても、断っていたよ」
セレーネの口がまた大きく歪んだ。
その顔はもう、泣いているのか笑っているのかさえわからない。
「わかってたわよ! いつか二人が結婚するんじゃないかって……その時になったら、きっと祝福できるって、そう思ってた! ルドのことは諦められたの……でも、リュシのことは好きなのに……なのに、憎んでしまう気持ちが止まらなかった! だから、二人が別れてくれればいいって……そうしたら、元通りになれるって……」
「まさか、それでアレシアに?」
俺の問いかけに、セレーネは弱々しく頷き、アレシアを横目で見た。
アレシアは、悲痛な表情でセレーネを見つめている。
「ええ。だってアレシア凄く美人でしょ、こんな綺麗な人見たことない。初めて会った時から、絶対にルドウィクも好きになるはず! って思ったの。だからすぐに、二人が近づくようなことを考えたわ……でも、嘘みたいに何一つうまくいかなかった……」
「じゃあ、あの図書館の椅子は君が……?」
セレーネは視線を合わせず、静かに頷いた。
「あの日、朝からルドウィクが来て驚いたわ。しかも帰ったあと、椅子が交換されてた。あなたが替えたってすぐにわかったわ。それでも、ルドウィクとアレシアは全然仲良くならなくて……ああ、やっぱりリュシと結ばれる運命だから、神様が守ってるんだって思い始めてた。だから、もう諦めようって……このパーティが終わったらって。なのに、気づいたら……」
一気に気持ちを吐き出したセレーネの視線が、アレシアが持つ扇子へ移った。
初めて目にするものでも、特別なものだとわかる美しい扇子。
前回、あの扇子は骨が折られ、汚されていたとリュシエンヌから聞いた。しかし、今は無傷だ。
扇子を持ち出した後、セレーネは満開の黄金色のアーチの中でずっと佇んでいた。
壊す時間は十分にあったはずなのに……。
あの時、自分の心と行動の葛藤に苦しんでいたのかもしれない。
リュシエンヌが経験した前回の人生。
その中でのセレーネは、自分の計画通りに事が運ぶのを、どう感じていたのだろう。
そして、まんまとアレシアを好きになった俺のことを、いったいどう思っていたのだろうか……。
セレーネの告白に皆が沈黙する中、リュシエンヌが俺の上着を掴んだのが分かった。
その冷たくなった手を握り、まったく動かないセレーネに声をかける。
「セレーネ。俺は君を友人として好きだ。でも、愛するリュシを傷つけたことは許せない。それに、この国に来たばかりで何も知らない彼女を巻き込んだことも許せないよ……」
「ル……ィク……ごめん、なさい……」
セレーネは肩を震わせ、頭を揺らしながらその場に崩れ落ちる。
膝をつきそうになる寸前、リュシエンヌが素早く駆け寄り、セレーネの両手を掴んだ。
後ろからアレシアも駆け寄り、その身体をしっかりと支えている。
「ふたりとも……ごめんなさ…い、本当に、ごめんなさい……」
息を吸いながら、子供のようにしゃくりあげ、セレーネはぼろぼろと涙をこぼす。
リュシエンヌはその頭を両手で包み込み、アレシアは泣きじゃくるセレーネの手を握っていた。
その時だった。
真っ暗になった小道の向こうから、誰かの声が聞こえてきた。
「あ、まだいたわ! あそこよ」
その声の主はルルだった。こちらを指さし、小走りで駆け寄ってくる。
横にはクリストフが並んで走っている。
セレーネがふたりに支えられていることに気づいたのか、一段と足を速めて目の前までやってきた。
「やあ皆、こんな場所でいったい何があったんだい?」
周りに挨拶をしながら、クリストフは不安そうな表情でセレーネの前に跪いた。
リュシエンヌはセレーネを支えながら立ち上がり、アレシアはゆっくりと後ろへ下がる。
その間もセレーネは泣きじゃくり、何も答えられないでいた。
「すまないクリストフ。セレーネは……気分が悪くなったみたいなんだ」
「まあ」
クリストフに追いついたルルが、心配そうな声をあげた。
セレーネは顔をふせたままで、リュシエンヌに支えられている。
「それは大変だ。では、少し失礼するよ」
クリストフが優しい声をかけた次の瞬間、セレーネの体はふわりと宙に浮いた。
エメラルドグリーンのドレスの裾をくるりと巻き込み、彼は軽々とセレーネを抱き上げている。
ずっと顔を伏せていたセレーネは、驚きの表情でようやくクリストフと目を合わせた。
その顔は涙でぐしゃぐしゃだ。
クリストフは眉を下げて微笑み、片手でポケットからハンカチを取り出した。
セレーネはハンカチを受け取り、あふれ出る涙を拭う。
「では皆さん。僕がお姫様を送り届けるよ」
そう言ってクリストフはくるりと向きを変えた。
彼はリュシエンヌたちにウインクをして、優しくセレーネの頭を撫でると、裏門への道へと歩きはじめた。
去っていく二人の後ろ姿とともに、さっきまでの耐えがたい空気の重さが、嘘みたいに消えていくのを感じた。
残されたリュシエンヌとアレシアは、まるで初めて顔を合わせたかのように、落ち着きなく視線を動かしている。
「あっそうだわ! アレシアっ!」
そんな中、突然ルルが大声をあげた。
「なにかしら?」
「カトラン子爵の顔が、真っ青を通り越して真っ白になってるのよお」
「まあ!」
「いけないわ!」
アレシアとリュシエンヌが同時に叫び、顔を見合わせた。
「三人ともっ! あれから30分以上も立ってるのよお。ダンスも三曲終わっちゃったのにー今日の主役の姿が、ずっと見えないんだものっ」
そう言って、ルルが会場の方向を指さした。
セレーネを追って中庭に来た時、まだあたりは薄暗く、人影は見えていた。
しかし、今は真っ暗で何も見えない。
30分以上……体感的にはもっと長く感じていたので、まだその程度の時間かと信じられない。
とはいえ、パーティの主役不在には、かなり問題がある時間だ。
「ここにいるのはわかってたから、呼びに行こうと中庭に出た時、ちょうどセレーネを探してたクリストフに会ったの……」
「そうだったのか、ありがとうルル。じゃあ、早く会場に戻ろう」
「でも、何と言えば……」
アレシアが、落ち着きがなくなるほど焦っている。
「俺に任してくれるかな? ここから会場までに良い嘘を考えるよ」
「はーい。じゃっそういうことなのでえ、皆さん行きますわよー」
会話を聞いていたルルが、待ちきれない様子で号令の声をあげた。
右手を高々と上げ、ドレスの裾をつまんで先頭に立つと、いつもより速い足取りで進みはじめた。
リュシエンヌとアレシアは答える間もなく、ルルの後についていく。
真っ暗な中、黙々と歩く四人。木立の葉が風に擦れる音と足音だけが聞こえる。
アーチを抜けると、中庭に数人の人影が見えた。きっとカトラン家の使用人たちがアレシアを探しているのだろう。
会場の明かりと、大勢の人のざわめきが懐かしく感じる。
まるで、何時間もあの場所にいたみたいだ。
いや、そんなことを思っている場合ではない、カトラン子爵に何と言うかを、考えなければ……。




