6月28日 パーティ当日1
――カトラン子爵邸
夕暮れにはまだ少し早い頃、二人を乗せた馬車はカトラン子爵邸へと到着した。
馬車を降り、リュシエンヌをエスコートして入り口へと向かう。
隣を歩く彼女は、いつもより可憐で、ひときわ華やかに見えた。
淡い水色のドレスが白い肌を際立たせ、結い上げた髪には、瞳と同じ灰青のリボンが揺れている。
共布で作らせた靴と一緒にプレゼントをしたのだが、思った以上に似合っていてよかった。
ここへ来るまでの馬車の中、二人でたわいもない話をした。
リュシエンヌはかなり乗馬を楽しんでいるらしく、最近は鞍のつけ外しまで自分でできるようになったのだと嬉しそうに教えてくれた。
その様子が可愛くて、パーティ会場に行きたくなくなってしまう……
今日のパーティは、リュシエンヌにとって最もつらい思い出の場所だ。
馬車を降りる前も、「まさかこんな日が来るなんて思わなかった。二人でここに立つなんて」と微笑んだ彼女の表情が、まだ胸に残っている。
昨日の貴重書架の件について、彼女は何も聞いてこなかった。
あえて触れなかったのは、信頼してくれているからだろう。
俺からも『特に何もなかったよ』と、彼女に報告した。
そう、昨日はアレシアと話をしただけだ、他には何もなかった……。
今日、この会場で何も起こらなければ、それが真実になる……それでいい。
会場に向かって歩くリュシエンヌの横顔に、わずかに緊張の色が見える。
その表情を見つめ、気を引き締めながら足を進めた。
カトラン子爵邸の門を抜けると、会場となる広間へ続く中庭が目に入った。
聞こえてくる人の声に、繋いでいたリュシエンヌの手に力が入るのがわかる。
その細い手を握り返すと、リュシエンヌが俺の顔を見て微笑んだ。
パーティ会場では、リュシエンヌから一秒たりとも離れない。
ここまで順調に来ている。
もう未来は変わっている、大丈夫だ。
リュシエンヌの話によれば、今日起こることはアレシアの扇子の紛失と、俺の婚約破棄宣言……。
俺自身は心配する必要はないが、気になるのはアレシアの扇子だ。
本日のパーティの主役である彼女。
カトラン子爵の手前、無視するわけにはいかない。
早めに挨拶を済ませ、あとは離れてしまえばいい──それだけのことだ。
アレシアには悪いが、扇子に何が起ころうと俺達には関係がない。
本当は早く帰りたいところだが、父も顔を出すと言っていたので、それまではここにいなくてはならない。
会場のガラス戸は開け放たれ、中庭とひと続きになっていた。
あたりは少し薄暗くなりはじめているが、そこだけは昼間のように明るい。
招待客の多くが、あちらこちらで歓談を楽しんでいた。
「凄い人ね……」
「ああ、こんな大規模なパーティはなかなか無いね。リュシ、平気かい?」
「もちろん。 だってルドが一緒にいるもの」
明るくふるまう彼女が愛おしくて、握っていた手を体ごと引き寄せる。
額に軽くキスをすると、リュシエンヌはくすぐったそうに笑った。
「行こうか」
「ええ」
小さく頷くと、頬を染めながら、俺の右腕に細い腕を滑り込ませた。
その腕をしっかりと組んで、中庭を進む。
中央には色とりどりの料理と、オーケストラの演奏。
給仕たちがトレーを持ち、忙しそうに動き回っていた。
「前回の時より、一段と華やかに感じるわ。たしか、この先にセレーネとクリストフがいるはずよ」
リュシエンヌがそう言いながら、俺を見上げた時、ちょうどセレーネの姿が見えた。
「リュシ! ルドウィク!」
エメラルドグリーンのドレスに身を包み、髪を下ろしたセレーネは、いつもより大人っぽく見えた。
隣には、薄いピンクのドレスを着たルルが、一緒に手を振っている。
「あれ? ルルだわ」
「そうだな、クリストフは……いないな」
あたりを見渡したが、クリストフの姿は見えなかった。
二人が笑顔でこちらに近づいてくる。この様子だとどうも二人だけで来たようだ。
「ごきげんよう、リュシエンヌ。リボンの色がとても素敵ねえ」
「ありがとう。ルルもとっても可愛いわ。ピンクが似合っててる」
いつものように穏やかな口調でルルが話しかけてきた。
リュシエンヌは笑顔で答え、そんな二人をセレーネはにこにこと眺めている。
「やあセレーネ。今日はクリストフと一緒だとばかり思っていたよ」
「あーうん……私が先にルルを誘ってたから、クリストフとは会場で会おうって」
「セレーネったら! わたしの約束なんて全然良かったのにい」
「いいのよ、ルルと来たかったんだもの」
セレーネは、ルルの頬を人差し指でつつくと、いたずらっぽく肩をあげた。
近くにいる若い貴族たちが、そんなセレーネに注目しているのが分かった。
今日はアレシアを目当てに来た客も多いだろうが、それでもセレーネは人気がある。
こんな大きなパーティにパートナーと来ていないとなると、ダンスを申し込みたいと待っている者も多いはずだ。
二人と話すリュシエンヌは、嬉しくてたまらないという表情をしていた。
前回は一人でここに来て、誰とも話さずにいたと言っていた……。
こんな華やかな場所で、しかも婚約者である俺はアレシアと……そんな最低なこと、胸が苦しくてたまらない。
抑えきれない気持ちがあふれ、後ろからそっとリュシエンヌの肩に手を乗せた。
驚いた顔のリュシエンヌが振り返り、ルルとセレーネが「はいはい」と冷やかしている。
「じゃあ、セレーネ、ルル。俺達はアレシアに挨拶に行ってくるよ。また後で会おう」
「ええ、わかったわ」
「また後でねえ」
笑顔で手を振る二人の元を離れ、通り過ぎる給仕から飲み物のグラスを受け取った。
「はい、リュシ。大丈夫かい?」
「ありがとう。クリストフがいないのに驚いたけど、本当に色々変わってるのね」
「そうじゃなくて、ほら、いまからアレシアに挨拶に行くんだよ?」
「それは……もちろん大丈夫。だって、一人じゃないもの」
そう言ってリュシエンヌは、ピンク色をしたレモネードのグラスをこちらに差し出した。
グラスは軽い音を鳴らし、炭酸が弾けて甘い香りがひろがる。
リュシエンヌは笑顔を見せ、ソーダを一口飲んだ。
「それに、万が一ルドと彼女に何かがあったとしても……私にはあの『お守り』があるから!」
「お守り? あっ! あの証明書か」
「安心して、ここには持ってきてないわ」
口の両端をあげ、リュシエンヌは笑いながら、またピンク色のソーダに口をつける。
日が沈む前の空のように美しい瞳。
彼女が俺をまっすぐに見つめている。
透けるような栗色の髪をそっと撫でると、くすぐったそうに首をすくめた。
彼女に婚約破棄を申し込まれた日から今日まで、あっという間だった。
最初は焦ったのも事実だが、少し考えれば、そんなに難しいことではないと思った。
――リュシエンヌへの気持ちが変わるわけがない。
その自信があった。
しかし、ヴェーバー先生の邸宅に行った時から、なにか違和感のようなものを感じ始め、それが日を追うごとにどんどん大きくなっていった。
そして、俺の疑念は昨日確信に変わった。
この件には、ある人物が関わっていると……。
今日このまま何も起こらなければ、リュシエンヌは自分の人生が新しく書き換えられたと思うだろう。
俺はそれでいいと思っている。
何も起こらない、ただそれだけを願っている。
グラスに入ったソーダを飲み干し、口の中に残る檸檬の果肉を噛みしめた。
果肉ははじけ、ほろ苦さとソーダの香りが口に残る。
このパーティさえ終われば、きっと大丈夫だ……。
「ねえルド、そろそろ……」
リュシエンヌが俺の腕に手を置きながら、きょろきょろと会場を見回した。
あたりには一段と人が増えはじめていた。
「そうだな、行こうか」
リュシエンヌから、飲み終えたグラスを受け取り、テーブルの上に置いた。
とはいえ、いったいアレシアはどこにいるのか?
会場を見渡していると、リュシエンヌが軽く俺の腕を引っぱる。
「ねえルド。中庭にキングサリの長いアーチがあるでしょ。あそこに彼女がいるわ……」
ここに来てから穏やかだったリュシエンヌの表情が、わずかに曇る。
言われた方向に目をやると、満開のキングサリのアーチの周りに、多くの人が集まっているのが見えた。
ふと、昨日アレシアと話したことを思い出す。
途端に、全身が緊張に包まれた。
大丈夫だ、挨拶をしてすぐに会場に戻ればいい。それでうまくいくはずだ。
大きく深呼吸をして、姿勢を正す。
横で、リュシエンヌも同じように深呼吸をしていた。
目が合って、二人とも吹き出してしまう。
「行こうか」
「ええ」
歩き始めたリュシエンヌは、俺の腕をしっかりと掴みなおした。
二人で人波を抜けていくと、近づいてくる黄色いアーチから、甘い香りが漂ってきた。
今日の更新はここまで。
とうとうパーティが始まりました、最終章突入です。
ここまでたくさんの応援、大変ありがとうございます♡
明日の更新はお昼の12時。
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