6月18日 エルネスト家別荘 2
小さく息をつき、リュシエンヌはテーブルに飾られたバラの花びらを、指先でそっと揺らした。
――アレシアと会う、だって?
リュシエンヌからすれば、今の状況では、自分が一方的に避けているだけと考えるのも無理はない。
そして、俺との関係が順調な現在、もう彼女と話しても何も起こらないのではと……。
前回、リュシエンヌを苦しめたのは『俺』だ。
それは、アレシアを好きになってしまったから……いや、本当にそれだけだったのか?
俺がリュシエンヌを嫌いになり、アレシアに惹かれるよう仕向けた“何か”。
自分を正当化したいわけじゃない。
ただ、その“何か”が存在するとしか思えない出来事が、あまりにも多い。
たとえば、あのインクで汚された椅子。
犯人も動機も、意図さえわからないままだ。
リュシエンヌは自分に関係があると思い込んでいたが、もしあれが、アレシアだけを狙っただけだったとしたら?
そして今、アレシアに対して不審感を持っている俺とは反対に、リュシエンヌには何一つ問題が起きていない。
おかしいだろ? だからこそ、このままがいい。
二人を会わせるわけにはいかない。
「リュシ。アレシアとは会わなくていい。というより、会ってほしくない」
「……どうして?」
リュシエンヌの手が止まり、不安そうな顔をこちらに向けた。
「実は、図書館の椅子にインクがついていなかった……というのは、嘘なんだ」
「まあ……」
「すまない、君に不安な思いをさせたくなくて隠してしまった。アレシアに被害が及ばなかったので、言う必要がないと思った。椅子はインクで汚されていた。つまり、誰かがいるんだよ。それを仕掛けた、誰かが」
「……」
俺が言った「誰か」という言葉に、リュシエンヌはぎゅっと眉をひそめる。
「少しずつだけど、君が経験した前回と現実は変わっている。それは、俺と君にとって良い方向にだと思ってる。そう信じたい」
リュシエンヌはこくりと頷く。
「でも……その結果として、本来起こるはずだった出来事が起きなかったことで、君の知らない『別の何か』が起こる可能性もあるんじゃないかと……俺は、それが怖いんだ」
「‼」
リュシエンヌがはっとしたように両手で唇を覆った。
長い睫毛は瞬きを忘れ、瞳だけが大きく揺れている。
「何も起こらなければそれでいい。だからこそ、いま接触していないアレシアとは、会わないままでいたほうが良いと思うんだ」
「うん、わかった……それがいいわね」
長い睫毛が一つ瞬き、美しい灰青色の瞳が、ほんの少しくすんだように見えた。
口を覆ったままの両手をそうっと掴み、軽くキスをする。
「もちろん、俺が君を一番好きなことは、まったく変化はないからね」
「……ありがとうルド」
リュシエンヌは俺の目をしっかりと見つめ、優しい顔で微笑んだ。
大好きなリュシエンヌ。
君をこれ以上悲しませたくない。
本当は、椅子の話なんてしたくなかった。
リュシエンヌは、俺がアレシアを好きになり、それが原因で婚約破棄になったのだと思い続けていたのに……
そこに、別の誰かの存在があるかもしれない、なんて考えさせてしまった。
きっと今、彼女の頭の中は疑問と不安でいっぱいだろう。
だが、それは俺も同じだ。
情けないがまったくわからない。だからこそ、彼女を守るんだ。
爽やかな薔薇の香りの中、二人の間に沈黙が流れる。
ちょうどその時、執事のジョセフが小さなワゴンを運んできた。
「失礼いたします。こちらは春積み紅茶と、水蜜桃のミルククリームババロアでございます」
「まあ、なんて綺麗なの」
執事が運んできたのは、小さなグラスに入ったババロア。
淡い桃色と乳白色が二層に重なり、上には桃のコンポートと、きらきら光るジュレが飾られている。
喜ぶリュシエンヌを見て、執事も笑顔で紅茶をカップに注いだ。
「では、ごゆっくりお過ごしください」
「ありがとう」
声をかけるリュシエンヌに、ジョセフは改めて頭を下げ、屋敷へ戻っていった。
二人で目を合わせ、同時にミルクババロアのグラスにスプーンを入れる。
水蜜桃のしっとりとした触感と、甘い香りが口の中に広がった。
「んーーーーー」
目の前でリュシエンヌが声にならない声をあげている。
うん、いつもの彼女だ。
10日後、カトラン家であのパーティが行われる。
リュシエンヌは、もうすぐ迎えるその日を、どう思っているのだろう。
それに、パーティの前日にアレシアから貴重書架の開架を頼まれている件も、話さなくてはならない……。
ミルクババロアを綺麗に食べ終えたリュシエンヌは、新しい紅茶に口をつけていた。
「なあ、リュシ」
「どうしたの?」
「月末のパーティのことなんだけど……」
「ええ……招待状が届いていたわね」
少しだけ声のトーンが落ちた。
「俺は父の手前出席しなくてはいけない。でも、君は無理に行かなくてもいいんだよ?」
「うん、ありがとう。行かないことは考えたけど……でも、ここまできたんだもの。私が生きている現実を、自分の目で確かめたいの」
そうきっぱり言ったリュシの口元は、強く結ばれている。
ほんの少し不安そうにも見えるが、それ以上に彼女の決意が伝わってきた。
「わかった、その日は俺が屋敷まで君を迎えに行くよ。一緒にパーティに行って、俺達の仲の良さを周りに見せつけてやろう」
「それは嫌だわ」
「えっ、酷いよリュシ」
「ふふっ」
美しい巻き毛を揺らし、目を細めてリュシエンヌは笑った。
きっと大丈夫だ、何も起こらない。
二人で一緒にいればいいだけだ。
―― リュシエンヌさんが怖いのですか?
ふと、庭園でのアレシアの言葉が頭をよぎる。
あれは一体、どういう意味だったのか? 彼女は何が言いたかったんだ。
アレシアのことを考えると、苛立ちとはまた違った、胸焼けするような不快な気持ちが渦巻く。
そうだ、27日……。
「あと、リュシ……」
「なあに?」
「そのパーティの前日の27日、また、アレシアから貴重書架の開架を申し込まれている」
「前日……」
「ああ、君の記憶にはないことかい?」
リュシエンヌは、何かを考えるように左上に視線をやり、少しの間のあと首を横に振った。
そして、小さなため息をついて口の端だけをあげた。
「全く記憶にないわ、もしかしたら頼まれていたのかもしれないけど……そのころはルドと会うことなんてほとんどなかったもの」
「ごめん、俺は本当に最低だったんだな」
「そうなの! でもあなたが謝らなくていいわ」
「それでも、謝りたい」
少しだけ目を細め、優しい表情でリュシエンヌは首を横に振った。
「ルド、あなたはお父様から彼女の手助けをするように言われたんでしょ? 私みたいに避けることも難しいし、貴重書架となれば、なおさら断るのが難しいのはわかってる。本当に全然大丈夫よ、信じてるもの」
「ありがとう」
「お礼なんて……わたしのほうが、たくさん言わなくてはいけないのに」
「そんなことないよ」
「ううん、そんなことある!」
ふたりで顔を見合わせて吹き出した。
薔薇の香りを含んだ風が、二人の間を抜けていく。
「じゃあ、今から薔薇園を案内するよ、リュシエンヌ姫」
「ありがとうエルネスト侯爵」
俺は右手を差し出し、立ち上がる。
リュシエンヌはそっと左手を重ね、その手をしっかりと握り返した。
柔らかな日差しに包まれながら、二人はゆっくりと薔薇園への道を進んだ。




