6月10日 エルネスト家 午後1
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書類を片づけていると、部屋の外からバターの香ばしい匂いが漂ってきた。
ヨハンは昨晩からリュシエンヌのためにお菓子を仕込んでいる。
「仕込みはすべて終わり、あとはクッキーを焼くだけです」と言っていたから、この匂いはそのクッキーだろう……しかし、本当にいい香りだ。
さて、もうすぐリュシエンヌが到着する時間か。
机の書類を手にして引き出しを開けると、布と手袋を入れた袋が目に入った。
その袋を端に寄せ、書類を入れて鍵をかける。
「椅子にインクは付いていなかった……」
自分に言い聞かせるように呟き、姿見で身だしなみを整えて部屋を出た。
客間の前まで行くと、ちょうど部屋から二人の侍女がトレーを持って出てくるところだった。
中では、テーブルの上に置かれたカトラリーをヨハンが数えている。
「おお、坊ちゃま。いま支度が終わったところでございます」
笑顔のヨハンに促されて、客間へ入った。
シャンパンゴールドのテーブルクロスに真っ白なテーブルランナー。
中央には、小ぶりな白い薔薇のブーケが飾られている。
食器は、金の縁取りがされた真っ白な陶器で揃えられ、シンプルだが華やかだ。
テーブルの中央には、鮮やかな黄色のレモンカードタルトと、一口サイズのレモンマドレーヌ。
さらに、キツネ色に焼き上がったメレンゲのレモンパイとクッキーも並んでいる。
テーブルセッティングもお菓子も魅力的なものばかりが並んでいた。
「ヨハン素晴らしいよ! これは間違いなくリュシが喜ぶ」
「お二人の話が弾むようにと、作らせていただきました」
「そうか……ありがとう」
「では、お嬢様をお迎えに参ります」
ヨハンはにっこりと微笑むと、いつも良い姿勢をさらに正して、玄関ホールへと向かっていった。
そういえば、セレーネも俺達のことを心配していた。
普通にしているつもりだが、何か違いを感じているのだろうか……。
まだ、やるべきことはいくつかある。それもあと半月程度のことだ。
今朝のことを考えると、気を抜いてはいられないのもわかっている……。
リュシエンヌを不安にさせないように、全力で彼女を守れるのは、俺しかない。
ふと、入り口の方から何やら楽しそうな声が聞こえてきた。
客間を出て、廊下から玄関ホールを見ると、リュシエンヌがヨハンになにかを渡しているのが見えた。
真っ白なアジサイの花束だ。
なにやら『この前のハーブティーのお礼』という言葉が聞こえてくる。
「リュシエンヌお嬢様! お気遣いいただきありがとうございます」
「私こそよヨハンさん、いつもありがとう。私がここに来るのは、ヨハンさんに会えることも楽しみの一つなのよ」
「おお、なんと嬉しいお言葉」
「ふふふ。そうそう、このアジサイは花が枯れてからも美しいんですよ」
「素晴らしいですね、爺の楽しみが増えました」
「まあ」
二人がとても楽しそうに話している。今は、出て行く雰囲気ではなさそうだ。
照れているリュシエンヌが可愛い、ああ羨ましい……。
廊下の隅で身をひそめて見ていた俺に気づいたヨハンは、侍女に花束を渡し、リュシエンヌを客間へ案内し始めた。
急いで客間に戻ると、すぐにノックの音が聞こえた。
ヨハンの声と共に扉が開く。
「失礼いたします。リュシエンヌお嬢様がいらっしゃいました」
「やあリュシ」
「ルド、ごきげんよう」
近くで見るリュシエンヌは今日も一段と可愛いかった。
クリーム色のドレスが良く似合っている。
ヨハンはリュシエンヌをテーブルにエスコートした後、お茶の準備を始めた。
リュシエンヌの視線は、目の前に広がる檸檬のお菓子に釘付けになり、「なんて素敵なの」と声をあげている。
「マドレーヌにはレモンピールを入れております。紅茶は砂糖抜きがおすすめですよ」
ヨハンの説明に、リュシエンヌは嬉しそうに頷いた。
他のお菓子の説明をしながら、手際よく二人分の茶を注ぎ終え、大きなティーポットをワゴンに戻す。
続けて、マドレーヌとタルト、パイを皿に盛りつけ、頭を下げた。
「では、私はこれで失礼いたします。ご用の場合はいつでもお申し付けください。リュシエンヌお嬢様、素敵なお花をいただきありがとうございました」
「そんなヨハンさん。こちらこそいつもありがとう」
「ごゆっくりなさってくださいませ。では、失礼いたします」
ヨハンは深々と頭を下げ、ちらりと俺を見て微笑むと部屋を出て行った。
扉の閉まる音が部屋に響く。
淹れたての紅茶を一口飲むと、リュシエンヌも続けて口をつける。
正面からじっとこちらを見つめるその瞳は、俺の言葉を待っているようだった。
図書館の椅子のことを話さなくてはいけない。
「さてリュシ、今日のことなんだけど」
「うん、ありがとうルド……どうだった?」
先程までとは違い、リュシエンヌの頬が少し緊張したように見えた。
「開館前に行って椅子を調べたら……なんと、何もついてなかったんだ」
「えっ、そうなの?」
「俺も驚いたよ。でも少しずつ運命が変わってるから、それなのかなって」
「確かにそうね……」
「いい方向に変わっているんじゃないかな? 俺達の仲も良いし、ね?」
「えー」
「えーってなんだよリュシ」
右手を胸に当ててポーズを決める俺に、リュシエンヌがわざと意地悪を言う。
でもその表情は、さっきまでと違って笑顔だ。
彼女も真似して右手を胸に当て、ふふふと笑っている。
その仕草がたまらなく愛おしい。
「また一つクリアできた。君はあの場所に居なかった。そして、アレシアのドレスが汚れることはなかった。新しい未来になったよ」
「うん……アレシアは、来たの?」
「彼女が来る前に屋敷に戻ったから、会っていないよ。わざわざ顔を見る必要はないからね」
「そうね、ありがとうルド」
「これは君のためでもあるけど、君を大好きな俺のためでもあるから」
「もう……本当に恥ずかしいから……」
頬を真っ赤に染める彼女を見て、今まで以上に守りたい気持ちが強くなる。
早く時間が過ぎればいい。
不安も、悲しい思いも、全て書き換えて、二人だけの新しい人生にしたい。
部屋の中は、瑞々しいレモンの香りと、甘いバターの香りに包まれていた。
目の前のリュシエンヌは、頬を染めたまま紅茶を飲み、艶やかなレモンタルトを頬張る。
その美味しさに目を細め、頬を押さえて唸っている。
ヨハンのレモンカードは絶品だ。
朝食に出た時、父がパンを全て食べてしまい、母に怒られていたのを思い出す。
リュシエンヌも二個目を口に運んでいる。
「じゃあリュシ。そのままでいいから、18日のお茶会の話をしよう」




