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19/41

6月10日 エルネスト家 午後1

✧✧✧


 書類を片づけていると、部屋の外からバターの香ばしい匂いが漂ってきた。


 ヨハンは昨晩からリュシエンヌのためにお菓子を仕込んでいる。

 「仕込みはすべて終わり、あとはクッキーを焼くだけです」と言っていたから、この匂いはそのクッキーだろう……しかし、本当にいい香りだ。

 さて、もうすぐリュシエンヌが到着する時間か。

 

 机の書類を手にして引き出しを開けると、布と手袋を入れた袋が目に入った。

 その袋を端に寄せ、書類を入れて鍵をかける。


 「椅子にインクは付いていなかった……」


 自分に言い聞かせるように呟き、姿見で身だしなみを整えて部屋を出た。

 客間の前まで行くと、ちょうど部屋から二人の侍女がトレーを持って出てくるところだった。

 中では、テーブルの上に置かれたカトラリーをヨハンが数えている。


「おお、坊ちゃま。いま支度が終わったところでございます」


 笑顔のヨハンに促されて、客間へ入った。

 シャンパンゴールドのテーブルクロスに真っ白なテーブルランナー。

 中央には、小ぶりな白い薔薇のブーケが飾られている。

 食器は、金の縁取りがされた真っ白な陶器で揃えられ、シンプルだが華やかだ。

 

 テーブルの中央には、鮮やかな黄色のレモンカードタルトと、一口サイズのレモンマドレーヌ。

 さらに、キツネ色に焼き上がったメレンゲのレモンパイとクッキーも並んでいる。

 テーブルセッティングもお菓子も魅力的なものばかりが並んでいた。


「ヨハン素晴らしいよ! これは間違いなくリュシが喜ぶ」

「お二人の話が弾むようにと、作らせていただきました」

「そうか……ありがとう」

「では、お嬢様をお迎えに参ります」


 ヨハンはにっこりと微笑むと、いつも良い姿勢をさらに正して、玄関ホールへと向かっていった。

 そういえば、セレーネも俺達のことを心配していた。

 普通にしているつもりだが、何か違いを感じているのだろうか……。


 まだ、やるべきことはいくつかある。それもあと半月程度のことだ。

 今朝のことを考えると、気を抜いてはいられないのもわかっている……。

 リュシエンヌを不安にさせないように、全力で彼女を守れるのは、俺しかない。


 ふと、入り口の方から何やら楽しそうな声が聞こえてきた。

 客間を出て、廊下から玄関ホールを見ると、リュシエンヌがヨハンになにかを渡しているのが見えた。

 真っ白なアジサイの花束だ。

 なにやら『この前のハーブティーのお礼』という言葉が聞こえてくる。


「リュシエンヌお嬢様! お気遣いいただきありがとうございます」

「私こそよヨハンさん、いつもありがとう。私がここに来るのは、ヨハンさんに会えることも楽しみの一つなのよ」

「おお、なんと嬉しいお言葉」

「ふふふ。そうそう、このアジサイは花が枯れてからも美しいんですよ」

「素晴らしいですね、爺の楽しみが増えました」

「まあ」


 二人がとても楽しそうに話している。今は、出て行く雰囲気ではなさそうだ。

 照れているリュシエンヌが可愛い、ああ羨ましい……。


 廊下の隅で身をひそめて見ていた俺に気づいたヨハンは、侍女に花束を渡し、リュシエンヌを客間へ案内し始めた。

 急いで客間に戻ると、すぐにノックの音が聞こえた。

 ヨハンの声と共に扉が開く。


「失礼いたします。リュシエンヌお嬢様がいらっしゃいました」

「やあリュシ」

「ルド、ごきげんよう」


 近くで見るリュシエンヌは今日も一段と可愛いかった。

 クリーム色のドレスが良く似合っている。

 

 ヨハンはリュシエンヌをテーブルにエスコートした後、お茶の準備を始めた。

 リュシエンヌの視線は、目の前に広がる檸檬のお菓子に釘付けになり、「なんて素敵なの」と声をあげている。


「マドレーヌにはレモンピールを入れております。紅茶は砂糖抜きがおすすめですよ」


 ヨハンの説明に、リュシエンヌは嬉しそうに頷いた。

 他のお菓子の説明をしながら、手際よく二人分の茶を注ぎ終え、大きなティーポットをワゴンに戻す。

 続けて、マドレーヌとタルト、パイを皿に盛りつけ、頭を下げた。


「では、私はこれで失礼いたします。ご用の場合はいつでもお申し付けください。リュシエンヌお嬢様、素敵なお花をいただきありがとうございました」

「そんなヨハンさん。こちらこそいつもありがとう」

「ごゆっくりなさってくださいませ。では、失礼いたします」


 ヨハンは深々と頭を下げ、ちらりと俺を見て微笑むと部屋を出て行った。

 扉の閉まる音が部屋に響く。

 淹れたての紅茶を一口飲むと、リュシエンヌも続けて口をつける。

 正面からじっとこちらを見つめるその瞳は、俺の言葉を待っているようだった。

 図書館の椅子のことを話さなくてはいけない。


「さてリュシ、今日のことなんだけど」

「うん、ありがとうルド……どうだった?」


 先程までとは違い、リュシエンヌの頬が少し緊張したように見えた。


「開館前に行って椅子を調べたら……なんと、何もついてなかったんだ」

「えっ、そうなの?」

「俺も驚いたよ。でも少しずつ運命が変わってるから、それなのかなって」

「確かにそうね……」

「いい方向に変わっているんじゃないかな? 俺達の仲も良いし、ね?」

「えー」

「えーってなんだよリュシ」


 右手を胸に当ててポーズを決める俺に、リュシエンヌがわざと意地悪を言う。

 でもその表情は、さっきまでと違って笑顔だ。

 彼女も真似して右手を胸に当て、ふふふと笑っている。

 その仕草がたまらなく愛おしい。


「また一つクリアできた。君はあの場所に居なかった。そして、アレシアのドレスが汚れることはなかった。新しい未来になったよ」

「うん……アレシアは、来たの?」

「彼女が来る前に屋敷に戻ったから、会っていないよ。わざわざ顔を見る必要はないからね」

「そうね、ありがとうルド」

「これは君のためでもあるけど、君を大好きな俺のためでもあるから」

「もう……本当に恥ずかしいから……」


 頬を真っ赤に染める彼女を見て、今まで以上に守りたい気持ちが強くなる。

 早く時間が過ぎればいい。

 不安も、悲しい思いも、全て書き換えて、二人だけの新しい人生にしたい。


 部屋の中は、瑞々しいレモンの香りと、甘いバターの香りに包まれていた。

 目の前のリュシエンヌは、頬を染めたまま紅茶を飲み、艶やかなレモンタルトを頬張る。

 その美味しさに目を細め、頬を押さえて唸っている。


 ヨハンのレモンカードは絶品だ。

 朝食に出た時、父がパンを全て食べてしまい、母に怒られていたのを思い出す。

 リュシエンヌも二個目を口に運んでいる。


「じゃあリュシ。そのままでいいから、18日のお茶会の話をしよう」


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