6月10日 図書館
6月10日 図書館
五日前、アレシアを貴重書架に案内した時間より、少し早く図書館に着いた。
正直、今日はそれほど緊張していない。
リュシエンヌが経験した前回と現在は、少しずつ状況が変わっている
図書館の椅子にインクをつけるような、おかしなことをした人物――誰かはわからないが、もうその気は失せているかもしれない。
それに前回の、アレシアのドレスが汚れた事件では、犯人捜しが曖昧なまま終わったらしい。
だが、もしかすると単純な失敗で言い出せなかっただけで、悪意はなかった可能性もある。
それになんといっても、今日はアレシアがいない……。
図書館の入り口に近づき、擦り硝子越しに中を覗く。
いつもどおり司書見習いたちが数人と、隣接する教会の人影が見える。
入り口のすぐ近くに、小柄でふわふわの巻き毛が見えた。ルルだ。
硝子を少し叩くと、俺に気づいたルルが笑顔で鍵を開けてくれた。
「おはようルドウィク! 今日は早いのねえ」
「やあルル、ちょっとした用事があってね、すぐに帰るよ」
「お仕事? 今日から三日間グレイス館長はお休みだよ」
「ああそうなんだ、でも本当にすぐ帰るから大丈夫だ」
「じゃあ、何か手伝いが必要なら声かけてねえ」
「ありがとうルル」
手を振りながら、ルルは事務室へと消えていった。
彼女は一見おっとりして見えるが、蔵書の仕分けに関しては一番だ。
細かいラベリングなど全て頭に入っている。
歴史書架に向かっていると、受付にセレーネがいるのが見えた。
「あら、ルドウィクおはよう。今日も貴重書架なの?」
「やあセレーネ。いや、ちょっとした用事だ」
「ちょっとした用事?」
「まあね」
そう言ってセレーネに手を振り、受付の前を通ろうとすると、追いかけるようにして肩を叩かれた。
「ねえ、またリュシと喧嘩なんてしてないよね?」
眉を下げ、不安そうな表情でセレーネが俺を呼び止める。
「セレーネ、俺達は喧嘩なんかしてないよ。この前だってしてないって言っただろ?」
「本当? リュシがここに来る回数も減っているし、あなた達が二人でいるところをあの日以来見ないから……」
セレーネは首をかしげ、じっと俺を見つめる。
リュシにはなるべくここに来ないように言っているのだから、仕方ない。
この大きな瞳で見つめられると嘘はつきにくい。だが、本当のことは話せない。
「ほら、またルドウィクも今こんな表情してる。リュシなんて最近ずっとこんな顔よ」
眉を寄せて困っているような表情と、眉を下げて悲しそうな表情を、セレーネは続けて作って見せた。
それは、リュシエンヌが困っている時の顔に少し似ていた。
「セレーネ、眉間に皺寄せちゃ美人が台無しだよ」
「もーそんなこと言ってる場合じゃなくて! リュシが悲しい顔してるの私嫌なんだから!」
「わかってるよ、俺もだ。でも、本当に大丈夫だよ。そんなに気になるなら、今度クリストフを誘って4人で集まろうか?」
「いいわね、そうしましょ!」
セレーネが嬉しそうに両手をぽんと叩いた。自分でも、なかなかいい提案だと思った。
リュシエンヌにとっても、経験したことのない新しい出来事になるだろう。
クリストフもきっと喜んでくれる。
早めに日程を決めなくては……。
そう思ったとき、セレーネの後ろに置かれた時計が目に入った。
開館15分前。
いけない、このままだと椅子を調べる前に、開館時間が来てしまう。
「じゃあセレーネ、また連絡するよ」
「ええ」
あらためてセレーネに手をふり、歴史書架へと向かった。
相変わらず整然と並べられた机と椅子。
ゴミどころか、髪の毛一本さえ落ちていないのではないだろうか。
一番端の席、ここが、いつもアレシアが座っているという椅子だ。
この前と同じで、触っても何もつかないだろう。
そう確信しながら椅子を後ろに引いた。
ん? 座面の黒い革に艶がなく、他の椅子に比べるとくすんでいる気がする……。
「まさかな……」
ポケットからハンカチを取り出し、背もたれ部分をさっと擦ってみる。
真っ白なハンカチに、茶色い汚れがべったりと付いた。
「なっ!」
思わず大きな声が出そうになるのを、ギリギリで耐える。
もう一度、今度は座面を拭いてみる。やはり、ハンカチには同様の汚れがついた。
間違いない、インクがつけられている。
整頓された椅子は、今朝間違いなく清掃が行われた証拠だ。
ということはその後? それとも清掃中? 誰が、何のために、わざわざこの場所に……。
いや、考えるのは後だ、大事になる前に椅子を取り替えたい。
館内を見まわすと、休憩用にと二脚の椅子が書架の間に並べられているのを見つけた。
そのうちの一脚と、汚れた椅子と交換する。
さて、問題はこの椅子だ。証拠になるものだから、置いておきたい。
そういえば、明後日までグレイス館長が休みだとルルが言っていた。
周りに気づかれる前に、館長室の中に入れておこう。
汚れた椅子を片手に持ち、足早に館長室へ向かう。
ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込むが手ごたえがない。
不在のはずなのに、鍵が開いている?
まさか、誰かいるのか?
扉をノックするが返事はない……というより人の気配を感じない。
「失礼いたします」
声を掛けながら、館長室の扉を開けた。やはり中には誰もいない。
椅子を持ったまま、ゆっくりと部屋の中に入る。
室内は整頓されいて、完璧な状態だ。
しかし、机横に置いてあるゴミ箱になぜか違和感を覚えた。
汚れた椅子をその場に置き、机横のゴミ箱を覗く。
何かが入っている……。
それに気づいた瞬間、喉の奥に固いものが詰まったような息苦しい感じに襲われた。
あれは何だ?
塊のようなものと……丸めた布?
恐る恐るゴミ箱の中に手を入れ、それを取り出す。
その塊のようなものは、たっぷりとインクを含んで茶色に染まった布。
そして、丸めた布に見えたものは、それを持つために使ったであろう手袋だった。




