6月3日 演奏会2
――帰宅の馬車
ヴェーバー邸をあとにし、帰りの馬車に揺られている。
リュシエンヌはすっかり落ち込んでいた。
「私のせいでセレーネが大変なことになってしまったんだわ」
「リュシは関係ないよ。たしかに未来は変わった。でも、それは君が『何かをした』からじゃない、『何もしなかった』から変わったんだ」
「でも……」
「ほんの少し変わっただけの事だ。それより一つ回避できたことを喜ぼうよ、俺は嬉しい」
「うん……ありがとうルド」
リュシエンヌは少しだけ微笑んだ。
「それにセレーネは大丈夫だよ。なんたってクリストフがついてるから」
「ええ、彼がいれば安心だわ。ルドとセレーネが楽譜を取りに行ったあとね、クリストフと二人でおしゃべりしてたの。そうしたら突然ルドの声が聞こえてきて、どうしたのかしら? って言った瞬間、クリストフは飛び出してたわ」
「さすがクリストフだな、セレーネのことを一番に思ってる。ま、俺がリュシを思う気持ちには勝てないと思うけど」
「……っもう!」
いつものように少し唇を尖らせ、照れているのを隠すように、リュシエンヌは馬車の窓へと視線を移した。
車内には車輪の音だけが鳴り響いている。
「あの……彼女、アレシアは?」
外の景色を眺めたまま、リュシエンヌは訊ねた。
「彼女は特に何もなかったよ、まだ楽譜も取りに行ってなかった」
「えっ、そうなの?」
「うん。リュシじゃなく、俺たちが先に動いたことで、何らかの変化が起きていたんだろう」
「そうなんだ……」
あの時、アレシアがリュシエンヌを見ていたことは、言わないほうがいい……。
少なくとも、二人が近づくことは避けられた。接点がなかったのは大成功だといえるはずだ。
アレシアのあの視線に疑問は残るが、リュシエンヌに何もないことが一番重要だ。
さて、次はなんだったか……ああ、図書館だ。
アレシアがいつも座るとわかっている椅子に、細工がされていた。
どう見ても、アレシアを狙った悪質ないたずらだ。
俺とリュシエンヌ以外の誰かが動いている?
そう考えるのが自然だが……目的がまったく見えてこない。
「リュシ、10日なんだけどさ」
「うん?」
リュシエンヌは窓から目を外し、こちらに向き直った。
「君は調べ物の為に朝から図書館に行ったんだよね?」
「ええ」
「誰かと約束してた?」
「ううん、違う。でも……アレシアがいるのはわかってたの」
少し間を開けて、リュシエンヌは続けた。
「“前”は、楽譜のことがあった後に仲良くなってたから……それに、セレーネは週の初めは必ず図書館にいるでしょ。三人でおしゃべりしたいなって思って」
三人がどれだけ仲良くなっていたのかは、詳しく聞いていないのでわからない。
それでも、アレシアに好意を持っていたのは間違いないだろう。
それを俺が……本当に最悪な男だ。
下を向くリュシエンヌのおでこを、人差し指でちょんっとつつく。
「もう、子供みたいなことしないで」
「ごめんごめん。で、俺は10日の開館前に、図書館に行こうと思ってる。うまく理由をつけて椅子を調べるつもりだ。あの時間にいるのは司書見習いの数人だけだから、問題ないと思う」
「でも……」
「もちろん、君は来なくていいよ。開館したらアレシアが来てしまうだろ? 会わなければ、また一つ事件から離れられる」
リュシエンヌは俺の顔を見つめたあと、何かを考えるように唇の端を小さく動かした。
あれ、俺今なにかおかしなことを言っただろうか?
「どうしたリュシ?」
「ううん……なんでもない」
なぜか、リュシエンヌの頬がほんのり赤くなっていた。
馬車が暖かいせいだろうか? そう思っていると、彼女は手でぱたぱたと顔を扇ぎはじめた。
「気分でも悪いのかい?」
「ううん……」
「窓を開けようか?」
「違うの……」
「ん?」
「ルドが図書館に行ったあと……会えるかなって」
リュシエンヌの顔はさらに真っ赤になり、先ほどよりも勢いよく顔を扇いでいる。
これは……くっ! 嬉しい。
現在の状況になってから、リュシエンヌは以前より感情を隠さなくなった。
こんなこと口に出しては言えない、言わない。
でも、俺はとにかく嬉しい!!
「ああ、何の予定もないよ。リュシさえよければ、うちでお茶でもどうかな?」
自然と上がってしまう頬を押さえながら、冷静を装って答える。
リュシエンヌの表情がぱっと明るくなる。
「本当? 行きたいわ」
「よかった。じゃあ、ヨハンに相談してまた改めて連絡するよ」
「わかった」
リュシエンヌは、美しい灰青色の瞳を輝かせながら微笑んだ。
外を見ると、いつの間にかパーヴァリ家の門の前まで来ていた。
そのまま馬車は門をくぐり、敷地内に入る。リュシエンヌをエスコートしながら馬車を降りた。
「リュシ、今日はゆっくり休んでくれ。10日のことは任せてほしい」
「うん……ルド、本当にありがとう」
「大好きな君の信用を、完全に取り戻したいからね」
「あなたは何もしてないのに……」
「でも、君を悲しませたのは『俺』だから、とにかく俺が悪いんだ、まかせて!」
「ふふ、ありがとう」
今日一番の笑顔を見せたリュシエンヌは、可愛く手を振ると屋敷に入っていった。
その背中を見送り、自然ににやけてしまう頬を押さえながら、馬車に乗り込んだ。




