青天の霹靂 1
「ねえルドウィク……私との婚約を、白紙に戻してしてほしいの」
「えっ? 今、なんて言ったんだい?」
ルドウィクは自分の耳を疑った。
穏やかな春の日差しが降りそそぐエルンスト家の中庭。
目の前の婚約者、リュシエンヌ・パーヴァリが告げた言葉は、あまりにも突然で思いがけないものだった。
乾いた風は庭園の木々を揺らし、庭池の水面を輝かせている。
リュシエンヌの瞳は、その水面を映したように、今にも零れそうな涙が光っていた。
「リュシ……」
「突然ごめんなさい。でも、どうしても今日話をしておきたくて」
リュシエンヌは唇をきゅっと結び、涙をこぼさないように一度上を向いてルドウィクの目を見つめなおした。
濡れたまつ毛が、灰色に曇る青い瞳を隠している。
一体何が起こっているんだ? 全く意味が分からない。
16歳で彼女と婚約をしてからの二年間、二人の間に何の問題もなかった。
それどころか、俺の思いは一段と強くなっていた。彼女も一緒だと思っていたのに……。
ああそうか、わかったぞ、これはリュシのいたずらだ!
いや違う……彼女は今、泣いている。
無言でこちらを見つめるリュシエンヌの手を、ルドウィクは両手でそうっと包んだ。
いつもは薔薇色の頬も、いまは色を失って青白く見える。
こんなに暖かい日なのに、細い指は氷のように冷たく、僅かに震えていた。
「どうしたんだい? もし俺が、何か君を怒らせるようなことをしてしまったのなら教えてほしい」
「違うの……今はまだ……違う」
「今は?」
リュシエンヌは小さく頷いた後、空を見上げた。彼女につられて、一緒に空を仰ぐ。
春らしく抜けるような青空に、小さな雲が少しだけ浮かんでいる。
風に乗って、街の時計台から午後を告げる鐘の音が聞こえてきた。
鐘の音の余韻が終わる頃、リュシエンヌが口を開いた。
「もうすぐ雷がくるわ」
「雷だって? こんなに気持ちの良い日なのに?」
「ええ」
ルドウィクの手をそっと離し、くるりと振り返ったリュシエンヌは空を見上げた。
彼女が見上げた反対側の空は、いつの間にか暗雲が立ち込めていた。
「これは一体……」
湿度を帯びた風が頬を撫でた瞬間、青い空に稲光が放射状に走り、辺りに低い雷鳴が轟いた。
さっきまでの青空が、あっという間に暗い雲に飲み込まれ、大粒の雨が降り始める。
雨粒に打たれたリュシエンヌの体は、みるみるうちに濡れていく。
ルドウィクは慌てて後ろから覆いかぶさった。
「リュシエンヌお嬢様っ!」
「ルドウィク様!」
屋敷から、ローブを持ったパーヴァリ家の侍女と、大きな傘をさした執事のヨハンが庭に飛び出してきた。
リュシエンヌはローブを掛けられ、4人で駆け込むように屋敷へ戻る。
屋敷へ向かっている途中、リュシエンヌは小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。
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一気に冷えてしまった体を温めるため、執事が暖炉に火を入れる。
幸いリュシエンヌの体は思ったほど濡れておらず、暖炉の前で毛布に包まっていればすぐに乾くだろう。
「ルドウィク様はこちらへ」
全身びしょ濡れになってしまったルドウィクは、執事のヨハンに促され、自室で着替えることになった。
リュシエンヌは暖炉の前で、侍女に髪を梳かれながらぼんやりと火を見つめている。
「すまないリュシ。温かいお茶を用意させるから、少し待っていてくれないか。着替えが終わったらさっきの話の続きをしよう」
後ろから声をかけると、リュシエンヌは暖炉の炎を見つめたまま頷いた。
ルドウィクは客間を出て、急いで自分の部屋へと向かう。
しかし不可解だ。
目に涙を浮かべながらの婚約破棄の申し込み、浮かない表情……そして、彼女の言葉どおりに起こった雷。
俺のことを嫌いになったわけではない?
部屋に入るなり、ヨハンが大きなタオルを頭から被せてきた。
「ルド坊ちゃま、しっかり髪を拭いてください」
ヨハンは、エルネスト家に長年仕えている執事だ。
父が子供の頃からこの屋敷に居るため、まるで家族のような存在になっている。そのせいか、今でも父のことをフレデリックではなく愛称のフレッドと呼び、俺のことは坊ちゃまと呼ぶ。
ルドウィクがヨハンに言われるがまま髪を乾かしていると、キャビネットの上に新しい着替えが用意されていた。
「さて坊ちゃま、私はお茶の用意を頼んでまいります。リュシエンヌ様はとてもお疲れのように見えたので、飛び切り美味しいお菓子も用意させましょう」
「ああ、ありがとうヨハン」
「では、失礼いたします」
満足そうに微笑み、軽くウインクをしてヨハンは部屋から出て行った。
やはり、ヨハンから見てもリュシの様子は普通ではないのか……。
たしか今月初め、リュシが三日ほど高熱を出して寝込んだことがあった。
見舞いに出向こうとしたら、手紙で断られた……。
あの熱の後から、元気がない日が増えたような気がする。
いや違うな、元気がないと言うより上の空だ。
ピアノの演奏会が近いせいかと思っていたが、実は何かに悩んでいたのか?
その何かとは、俺が原因……? 全く心当たりがない。
熱を出したと聞いた翌日、彼女が好きな花と果物を届けた。
回復してからも、週に一度以上は会っている。毎週末は必ずお茶に招待して……。
ん? 待て、今月お茶の誘いを二度断られているぞ。
パーヴァリ家での用事や習い事の為と聞いていたが、よく考えれば今までそのようなことはなかった。
もしかして、避けられていたのか?
「ルド坊ちゃま!」
「ああ驚いた、どうしたんだヨハン」
振り返ると、ヨハンが腰に手を当て、首を横に振っていた。
「どうしたのはこちらのセリフでございます。お茶と菓子の準備をして戻ったら、着替えが全く進んでないではありませんか」
そう言うヨハンの右手には、ヘアブラシが握られている。
「すまない、考え事をしていたようだ」
「大事なお嬢様を待たせてはいけません。さあ早く」
鏡の前に座らされ、キャビネットに置かれたシャツを手渡される。 髪を整えられながら、ルドウィクは急いで着替えをすませた。
もし、彼女に避けられていたのならば、なぜ今日のお茶は断らなかったんだろう?
それに、なぜ婚約破棄を急ぐのか……。
ちょっと待ってくれ、今、最悪のことが頭に浮かんだ。
まさか、俺以外に好きな相手ができたのか⁉
「さあ坊ちゃま」
ヨハンはヘアブラシを戸棚に片付けると、笑顔で部屋の扉を開けた。
部屋を出るルドウィクの足は、信じられないほど重く、震えていた。
そんな最悪なことがあるのか?
でも、そう考えると今日のリュシの様子にも納得がいく……。
いやいや、俺は納得しない! とにかく、早く話を聞くんだ。
俺に駄目なところがあるなら、すべて受け入れる覚悟はある。
自分の未来にリュシエンヌが居ないなんて、考えられない!
「ようし」
ルドウィクは客間へ続く廊下を、大股で力強く進んだ。
もう足は震えていない。
足早に進むルドウィクを、ヨハンが慌てて追い越し、客間の扉をノックした。
「はい」
中から、パーヴァリ家の侍女の声が聞こえた。
一瞬の躊躇もなく、ルドウィクは部屋へ飛び込んだ。
「リュシ!」
扉を開けた途端、部屋の中から、苺のシロップ漬けのような甘い香りが漂ってきた。
「あ……」
暖炉の近くの小さなテーブル。
そこには薔薇色の頬を膨らませて、ケーキを頬張るリュシエンヌがいた。
ルドウィクの姿を見た途端、一気に頬が赤く染まる。
「すまない、急いでしまった」
「……んン、大丈夫です」
リュシエンヌは両手で口を押えて答えると、侍女が継ぎ足したお茶を飲んだ。
ヨハンは見ていないふりをしながら、深々と頭を下げている。
テーブルの上には、果実がたっぷりと入った紅茶と薔薇の花びらの砂糖漬け。
焼き立てのビスケットにはちみつとクロテッドクリーム。
他にはオレンジのパウンドケーキと、小さなテーブルが見えないくらいの菓子で埋め尽くされていた。
ティーカップのお茶を飲み干したリュシエンヌは、執事と侍女の顔を交互に見ながら照れ笑いをしている。
なんて可愛いんだ。
よかった、今日はじめて笑顔を見ることができた。
それでも俺とは目を合わせてくれない……。
ヨハンはちらりとルドウィクに目をやった後、リュシエンヌに紳士らしい微笑みを返し、一礼して一歩後ろに下がった。
「では、ルドウィク様、リュシエンヌ様。一旦失礼させていただきます。ご用の際はそちらの呼び鈴を鳴らしてお申し付けください」
「ありがとうヨハン」
リュシエンヌはにっこりと微笑みながらヨハンに応え、傍にいる侍女に目くばせをした。
侍女は小さく頷いた後、ルドウィクに深々と頭を下げ、そのままヨハンの後ろへ着いた。
「では、失礼いたします」
二人はそう言うと、客間から出て行った。
まるで果樹園のような香りが、部屋中に立ち込めている。
その爽やかさとは対照的に、重い沈黙が二人を包み込んだ。
居心地が悪そうなリュシエンヌの正面にルドウィクが座ると、それを避けるかのように俯いた。
どうしてなんだ? さっきまではいつもどおりに笑っていたのに。
本当に他に好きな相手ができてしまったのだろうか?
ルドウィクの指先が、緊張でどんどん冷たくなっていく。
「リュシ! さっきの婚……、あの話だが、理由を聞かせてくれないか? 俺は君が好きだ、説明が欲しい」
「ええ、説明しなきゃいけないのはわかってる。でも……」
「もし、君に好きな相手ができたのなら……死にそうなほど辛いけど、でもそれで君が幸せになるとい……」
「えっ? ルド、ちょっと待って! どうしてそういう話になるの?」
リュシエンヌは慌てたように顔を上げた。
雨に濡れたせいか、前髪が少し乱れている。
睫毛の音が聞こえそうなくらい目を見開き、何度も瞬きをした。
「だってこんな話おかしいじゃないか! 俺達が婚約破棄だなんて」
「――他に好きな人ができるのは、あなたよルド」
「え? 俺?」
「そう、あなたよ」
リュシエンヌが真っ直ぐに俺を見つめている。
彼女の言っている意味が分からない。え? 俺が?
呆然とするルドウィクに、リュシエンヌは一房だけくるんとはねた前髪を抑えながら、灰青色の瞳を瞬いた。
「ねえルド。いまから私が話すこと、何も言わずに最後まで聞いてくれる?」
突然の真剣な表情。
リュシエンヌの美しい瞳は、全く揺らがない。
さっきとはまるで違う雰囲気に、ルドウィクは黙って頷いた。




