第99話 少年少女バトルする
宿舎の外には演習場がある。普通、軍の演習というと銃火器を使った訓練を指すのだろう。だがアンドレイが生活している宿舎はアンドレイと同じ能力者の部隊の人間しかいないので、必然そうした演習は能力を用いたものが主となる。アンドレイ自身正確に数えたことはないが、百人いるかいないか、小隊と中隊の中間くらいの規模だろうか。軍医などの非能力者を合わせれば中隊規模になるかもしれない。
雪かきされた演習場はまるでサッカーやラグビーのグラウンドのようだ。霜の張った土の地面に、長方形を形作っている白線。その白線の外でアンドレイを含む数十名の能力者のロシア軍人は一対一の演習を観戦していた。
「なぁそこのお前、ダリアとキリルのどっちが勝つと思う?」
「え? ええと、そうだな、ダリアじゃないか」
「そうかそうか、そうだよな! ダリアかわいいもんな!」
アンドレイは隣に立つ男に背中をバンバンと叩かれた。本人はコミュニケーションのつもりなのだろうが、優に二メートルを超えたムキムキの軍人のそれはこの宿舎で相対的に最も痩せ細っているアンドレイにとってあまりに痛い。
ゲホゲホと咳き込みながら、『そもそも俺の名前も知らないのかよ……』と心の中で悪態をつくことでわずかながらに抵抗を試みた。口に出す勇気はないのだが。それに、アンドレイも相手の名前を知らない。全員デカくてがっしりした体型で、容姿に特徴がなく区別がつかないからだ。
その意味では、演習場で向かい合っている二人の男女はアンドレイでも顔と名前が一致するほど特徴的だった。少なくともこの宿舎では有名人と言ってよいかもしれない。
片方は少年。名はキリル。黄色の眼が四等級を示す。暗い茶髪で、目つきが悪くあまり他の人と喋っている姿は見かけない。食堂でも訓練でもいつも一匹オオカミだった。
片方は少女。名はダリア。紫色の眼が同じく三等級を示す。ブロンドヘアを二つ結びのおさげにしている。いつも朗らかで誰にでも分け隔てなく話しかけ、屈強の軍人たちにも物怖じせず、この宿舎では娘のように可愛がられていた。
二人ともアンドレイより痩せっぽちだ。なにせまだまだ十歳くらいの少年少女である。きっと自分よりも早く能力が発現し、こうして軍隊に送り込まれたのだろう。ここにやってきてから一年は経っていないように思う。
それが不幸なことなのかどうかはわからない。自分は愛国心なんてないし軍に入ることは嫌だったけれど、大半の国民にとっては非常に名誉なことなのだろう。それに、能力などというヘンな力を持ってまともな生活を続けていける気がしない。
アンドレイの透明化の能力なんて戦闘ではほとんど役に立ちはしない。かつて自分をいじめていた連中にこっそりと一発かますくらいはできても透明化が解除された後に袋叩きにされるだけだ。おかしな力を持っているという理由でいじめは激化していたかもしれない。そう考えると、さっさと軍隊に閉じ込められたのは幸福なのかもしれない、と思い始めてきた。檻は鎖のように縛るものじゃあない。外敵を遮る壁でもあるのだ。
「キリルくん、お姉さん手加減しないから本気できなよ?」
「……誰がお姉さんだ。お前は俺と同じ年じゃないか」
「そうやっていっつもふてくされているところが私の弟にそっくりなんですぅ!」
ダリアは唇を尖らせ、キリルは目を合わせようともせず。孤高を気取るキリルではあったが、こうしてダリアはいつも世話を焼こうとちょっかいをかけている。そして毎回、今のやり取りのようにキリルに煙たがられていた。
「それじゃあ、二人とも準備はいいかね? お互いに相手に致命傷を与えたり急所を狙ったりするのはなしだ」
審判のように、二人の間に初老の男性が立っている。先日アンドレイを呼び出した上官であり、この宿舎の現場では階級的に最も上の立場にある。
うなずくキリルとダリアを一瞥し、スタートの合図をする。
まず動いたのはキリルだった。掌底をダリアの顔面めがけて放つ。女の子相手に容赦がない。
攻撃が届くまでの一秒にも満たない瞬間にダリアの紫色の両眼が淡い光を宿したのを観戦するアンドレイは見逃さなかった。まるで透明のバリアにでも弾かれたかのように、キリルは五メートルは後退させられた。
(あれが引力と斥力を操る能力か)
ダリアのようなか弱い少女がむさ苦しい軍人たちの組織でのされることなく過ごせているのは、その能力の強さ故だ。三等級の中でもかなり強い部類に入るであろう引力と斥力を操る能力。どれだけ軍人たちが能力を駆使しても、筋肉にものを言わせても、斥力によって遠ざけられては攻撃が当たるはずもない。
身体能力や格闘技能ではキリルの方が秀でているのだろうが、そこには絶望的なまでにダリアとの相性の悪さがあった。
しかし黙って敗北を受け入れるキリルではない。雪かきによって集められ隅に積まれた雪の小山に手をつっこみ、手の中でぐしゃりと潰しながらダリア目掛けて投擲した。溶けて水っぽくなった雪の塊はダリア届かず、地面に落ちる。キリルのまだ未発達な身体ではそこまで飛ばすのが精いっぱいだった。
でもそれだけ飛べば十二分。キリルの黄色い眼が淡い光を灯し、着地した雪塊が轟音とともに爆風を引き起こす。
物体や人体は斥力によって遠ざけることができても、風や衝撃といった不可視の攻撃は対処のしようがない。ダリアは引力の能力によって自身の身体を後方の地点まで強制的に引っ張り、強引に爆風を回避した。
ついさっきまで向かい合っていた二人は互いの能力によって長方形の白線の端と端まで追い詰められ合っていた。この状況でキリルが先に動き始められたのは戦闘センスの差だろうか。
キリルは姿勢を低くし演習場の右側を一直線に走りながら、指をカリッと少しだけ噛んで血を流し、数滴の血液を左前方に飛ばす。ちょうど縦の長方形の右下から左上へ対角線を描くように。
飛び散ったキリルの血液は再び土の地面に着弾するとボンッ! と爆発を起こした。ぬかるんだ場所を意図的に狙ったのか、爆風に乗って土砂までもがあたりにまき散らされた。再び避けるためにダリアは爆心地の逆側──キリルから見れば自身が走っている右側──に移動せざるを得ず、そしてそこには急接近してくるキリルがいる。
「キリルの小僧はたしか液体を爆弾に変える能力だったよな」
「あ、ああ」
「ダリアみてえに絶対的な汎用性はないが、巧い奴が使えばハマるタイプの能力だな、ありゃ」
本当はもっと複雑な化学式に基づく化学変化だとキリル本人がダリアに説明しているのを聞いた気がするのだが、学のないアンドレイにとってはそれが呪文のように聞こえてさっぱり記憶になかった。それにあまり親しくもない隣の男のために頑張って思い出すのも癪だった。
ダリアが爆風と土砂を避けるため向かった地点は、まさにキリルが全速力で接近している場所だ。引力の能力が切れた後は斥力の能力で弾かれる。ならば引力の使用状態にならざるを得ない状況に追い込み、斥力の能力に切り替えられる前に近接攻撃を叩き込めばよい。これが今回キリルの立てた作戦だった。
幾度かこうして模擬戦闘をしダリアに負け続けたのは少しでも相手を分析し能力の粗を見つけ出すため。最後の最後で自分が勝つため。引力と斥力は同時に使えない、というキリルのみが知るダリアの弱点を突いたのだ。
やっと負け越していた相手に土をつけることができる。キリルは表情が険しくなるのを自覚した。でもそれは真剣であること、そして最後まで気を抜いていないことの証明。詰めを甘くするよりよっぽどいい。キリルは自分にそう言い聞かせて腰からサバイバルナイフを取り出し、引力によって物理的には不自然な角度で強引に飛んで来たたダリルの眉間に切っ先を合わせ──。
「そこまでだ。勝負はついた。それでいいだろう?」
キリルのナイフの切っ先を、エカチェリーナが剣で受け止めた。
年末だからなのか、昨日一昨日と多くの方に読んでいただきブックマーク等をしていただきました。本当にありがとうございます!