第98話 俺って異端?
終業式が始まった。体育館にて生徒たちはクラスごとに列を作って静かに校長の話を聞いている。夕華をはじめ教員たちは壁際に立ち、体調不良になっている生徒がいないか、コソコソお喋りをしている生徒がいないか、見張りという名目で全体を見渡していた。実際は教師たちは昨日の大量採点ラッシュと成績付けでぐったり疲れており、生徒たちと同じくボーっとしながら校長の話を右から左に聞き流しているのだが。
しっかりと生徒たちに目を光らせているのは、生活指導担当でもあり非常に厳しいことで知られるジャージ姿のゴツい男性体育教師。それから……。
(ナツキがいない。もう終業式は始まってるのに……。下駄箱には上履きがあったから登校もしていないってことよね)
英語科担当の空川夕華は生徒たちを、正確には遅刻してきたナツキが列の中に紛れ込んでいないかを見渡し探していた。しかし一切見当たらない。体育館全体を何度見ても生徒たちの中にナツキはいない。
以前もナツキは遅刻してきたことがあった。あのときは登校こそしていたものの雲母美咲に旧校舎へ連れられていたらしく、事故や事件に巻き込まれていたわけではない。
でも今朝は登校もしていない。朝食は間違いなく一緒にとっているので寝坊の線は薄い。ならば、それこそ事件事故のような最悪のパターンである確率は高くなり……。
夕華は隣で突っ立っていた同僚の教師に『遅刻している生徒がいるので保護者に連絡してきます』と告げて体育館を出た。すれ違ってしまわないように校門のそばまで出て行って、『遅刻しているようだけど大丈夫?』とメッセージアプリでチャットを送る。
(もし返事が来ないようなら、探しに行くしかないわね)
終業式の後はテスト返しがあり、さらに最後は帰りのホームルームで担任しているクラスの通知表を渡さねばならない。予定はぎっしり詰まっていて、しかし夕華はそれらの職務を放棄し後でどれだけ怒られることになっても構わないとさえ思っていた。まずはナツキの無事を確認する。それが最優先。はやく元気な返信がきますように、そう祈るように胸の前でギュッとスマートフォンを両手で強く握った。
〇△〇△〇
美咲は元々午後から歌の仕事が入っていて、今日は欠席するとずっと前から学校に連絡してあったようだ。なるほどたしかに自分は制服だったのに彼女は私服だった。期末テストと通知表は先んじて昨日のうちにもらいに行ったという。
ショッピングモールから学校まではそこまで遠いわけではない。どちらも自宅の徒歩圏内。いつもとルートは変わってしまうが、充分に歩ける距離である。
(バケモノ、か……)
美咲の言葉が頭の中で反響する。能力者になりたい気持ち。大好きな人に気持ち悪いと思われたくない気持ち。その矛盾するかもしれない二つの気持ちが拮抗して身を裂く思いになる。
校舎が近づいてくるのが見えてきた。夏の午前の生ぬるい風が背中から吹き抜けていく。花が落ち生え変わった学校の葉桜がざわざわと鳴り木漏れ日が揺れていた。
フェンスの向こうのグラウンドには誰もいない。それどころか校舎の窓からも人の気配がなく……。そうだ、今日は終業式だったか。そう思ったときスマートフォンの通知音が鳴った。
(まずい……ずっと能力覚醒のことばかり考えてショッピングモールに向かったから、夕華さんに連絡していなかった……)
遅刻を心配する文面だった。きっと終業式を抜け出しでもして連絡してきたのだろう。彼女はそういう人間だ。胸が締め付けられる思いになる。自分を長年思いやってきてくれた心優しい夕華でも、能力者だとわかったらバケモノだと思ってしまうのだろうか。
ふと、ナナや姉のハルカが夕華に星詠機関の話をしていないことを思い出す。それもまた別の意味合いを持ってしまうような気がした。
ナツキの好きなネットスラングに『俺って異端?』というものがある。中二病は誰よりも異端でいたい。特別な存在でありたい。それなのに。
(俺が憧れる異能バトルや能力者……異端な者たちは大衆に迎合されないのか?)
ナツキの脳内図書館ではミュータントという突然変異能力者が登場するとあるアメコミ映画が自動検索でヒットしていた。そういえば、あの作品でも能力者は非能力者によって差別され迫害されていた。黙っていれば見た目は普通の人とは変わらないのに、特別で異端な能力を手に入れたというだけで。
暗い気持ちのまま一本道を進み、正門をくぐる。体育館に向かって終業式に途中参加するか、もういっそ教室でテスト返却まで待機しておくか。どうするか迷っていると、突然声をかけられた。
「随分と遅かったじゃない田中くん」
「げっ、夕……空川先生」
ついさっき連絡をしてきた夕華が、目の前にいた。終業式を抜けてからずっと自分を待っていたのか。お互い、もう学校なのでよそよそしい呼び方になっている。
ずっと下を向いて考え事をしながら歩いてきていたナツキは夕華の声に気が付きぱっと顔をあげた。そして当然、夕華はナツキの様子にすぐさま気が付いた。学ランは汚れ、顔にはいくつもの裂傷と打撲による青アザがある。
「その傷、どうしたのよ!?」
「……まあ、ちょっとな」
能力者と戦って怪我をしました、と正直に夕華に話すことは憚られた。ただ、ナツキは夕華に嘘をつかない。だから転んだとか猫にひっかれたとか変な誤魔化し方はできない。目を逸らして口ごもることしかできなかった。
夕華もナツキの心情を察したのか、言い訳もせず目を逸らしたナツキの腕を掴み無言で引っ張る。
校舎の一階フロアには、会議室や校長室、応接室、放送室、資料室、そして保健室がある。この中でも保健室はやや部屋の構造が特殊だ。体育や部活動、休み時間などでグラウンドで怪我人が出た際にすぐにベッドに搬送できるよう、窓だけでなく外と接続するドアも設置されている。そして学校が開いている時間は基本的に保健室の外扉も施錠はされておらず、怪我人なら誰でも入れるようになっていた。
正門から下駄箱には向かわずグラウンドの前を通って保健室の前まで行き、夕華はガラガラ、と開けてナツキを連れ込んだ。
〇△〇△〇
「今日は養護教諭の先生が出張でいないの」
ナツキを無理矢理に座らせて、薬品の瓶が並ぶ棚を漁りながら夕華が言った。
昨日と今日は部活動も体育の授業もなく怪我人の出る可能性が限りなく低いので、養護教諭は教育委員会の集まりや研修等の出張をそうした日に入れるよう調整しているのだ。
高いところに手が届かないのか棚の前で軽く背伸びをしており、スーツの黒いタイトスカートが張り付いて下半身のラインを強調させている。生地越しに溢れ出る張りのある尻と太ももの色気にあてられたナツキは洗濯で毎日のように目にしている夕華の下着を思い出し、頬を赤く染め、さっきとは違う理由で目を逸らした。
「よし、あったわ。……どうしたの? 顔真っ赤にして、まさか熱も……」
「ち、違う! なんでもないんだ、本当に」
「そう。じゃあほら、消毒するからこっち向いて」
丸椅子に座るナツキの高さに合わせるように夕華は膝に手を突き前のめりになる。艶やかなベージュの髪を垂れないように耳にかけ彼の顔にぐっと近づき消毒液を染み込ませた綿棒を頬の切り傷に当てていく。
その姿勢のせいだろうか。
夕華の端正で凛とした顔が目の前に来る。はたから見たらまるでキスをするような体勢。そして、ちらりと下を向くとボタンを上まで閉め切っていないブラウスの隙間からは肌色の柔らかそうな谷間が見え隠れしており、視線が引き寄せられてしまう。
それになんだか良い香りがする、などと思ったのも束の間、消毒液が傷口に染み渡った。
「いったッッ痛い痛い痛い夕華さんそれ痛いッ!」
「ふふっ、こうやって手当して痛がるのも昔から変わらないわね」
あの頃はこんなに小さかったのに、と夕華は懐かしむように自身の腰の高さのあたりに手をかざす。
「……夕華さんは何も聞かないのか?」
普段から自身を『能力者』だの『裏の世界の住人』だのと称し大げさで尊大な喋り方や言葉遣いをするナツキも、夕華が相手ではときに塩らしくなり、作り上げた中二な仮面の下の素顔が出てしまう。
学校内だというのについ名前で呼んでしまった。そんなことも今のナツキは気が付かない。
空川夕華という女性は普段からあまり笑わない。姉のハルカ曰く学生時代からそうだったという。氷のようにクール、それが彼女を知るほとんどの人たちの評だ。その夕華が慈しむように微笑し、彼の頭にぽんと手を置いて語りかけた。
「昔からナツキが傷だらけで帰って来るのは誰かを守るためだったでしょう。何歳になっても、おかしなことを言うようになっても、そういう優しいところは変わらないわよ」
ナツキは驚いたように目を見開く。
(ああ、やっぱり夕華さんには敵わないな)
自分を信じてくれているが故に怪我や傷の理由を詮索しない。夕華にそのように思われることは心から嬉しいし、ある種の『勇気ある選択』ができる彼女には尊敬すら覚える。
もしも逆の立場だったら。例えば夕華が明らかに職場で何か大きな悩みや問題を抱えた様子で苦しそうな表情で帰宅してきたとき、自分だったら根掘り葉掘り尋ねてしまうだろうな、とナツキは考えた。
相手を心配すること以上に、事情を知って自分が安心したいがために。
だから、聞かないというのは勇気ある選択なのだ。相手を本当に信頼していないとできない。そしておそらく、もしここでナツキが怪我の事情を話して助けを求めたら夕華は他のあらゆるものを擲ってでも力になってくれるだろう。
愛されていると感じる。照れくさい。愛と言ったって、それは夕華にとって姉弟のような関係性であって家族愛に近いのかもしれないが、ナツキにとっては何よりも大切で尊いものだった。だからこそ。なおのこと能力者だと知られたときに見捨てられたり気味悪がられたりするのは怖い。
さっぱり言葉が出ない様子を見て夕華は柔らかく笑いながら、氷嚢を彼の頬に当てた。
「はい、アザはこれで冷やしておきなさい。顔に当てながら終業式に出るのは難しいと思うけど……。早退する?」
「いや、いい。ちょっと休めば痛みも引いて戻れると思う」
「そう。ベッドも空いているようだしそれがいいわね。一応各教科の先生には伝えておくから」
それじゃあ私は体育館に戻るわ、と言って保健室の扉に手をかけた夕華をナツキは咄嗟に呼び止める。
「どうしたの? まだどこか痛むかしら」
「そうじゃなくて、その……、手当してくれて……ありがとう」
学年首席を誇る頭脳と身体能力を持ち、能力者だ何だと中二なことを普段は言っていても所詮は文字通りの中学二年生、十三、四の思春期真っ盛りだ。まして歳の離れた初恋の相手、素直に礼の言葉を言うのも一苦労だった。
夕華は再び向き直ると、ナツキの額に軽くデコピンをする。
「あまり私を心配させないでちょうだい……馬鹿」
保健室を出る夕華の背を見送りながら、呆けているナツキは『馬鹿でもいいかも……』などという考えが渦巻いていた。
それだけならばよかったのに。
ナツキの中では自分自身への疑いの芽が育ちつつあった。
(俺は能力者になりたい。夢にまで見た異能バトルの世界を味わいたい。でも……透と戦ったときのように強大な能力者によって命を奪われかけて、最悪死ぬかもしれない。あんなに俺を案じてくれる夕華さんを悲しませるようなことをしていいのか?)
そもそも今こうして夕華に心配をかけるような怪我をしているのは動物の姿形をその身に宿すという能力者と戦ったため。普通に生きて普通に暮らして普通に登校し普通に終業式に出ていればしないで済んだ怪我だ。今後も今日のように生きて帰って来られる保証はない。
所詮はただの中二病の無能力者だ。取り返しのつかない大怪我をするのは明日かもしれないし、明後日かもしれないし、さっきだったかもしれない。
心配させないで。夕華の言葉が重くのしかかる。
能力者になること。異能バトルをすること。そういう組織に身を置くこと。
まとめると、普通じゃなくなるということ。
異端でありたいという理想への渇望と愛する人と離れ離れになりたくないという願望。相反する二つの想いが、今まで真っすぐに自分らしく中二な価値観で生きてきたナツキに生まれて初めて雲をかけたのだった。