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第96話 姉妹と皇帝と

 その日、エカチェリーナの姿はロシア帝国の首都、サンクトペテルブルクにあった。正確には自身の生家とも言うべき王城に。それなのに彼女の表情は明るくない。なぜか。会いたくない男がいるからだ。



「どうした、とうとう俺の妻になる気になったのか?」


「寝言は寝てから言え。そして起きるな」



 エカチェリーナは腰に提げていた西洋剣を抜き、何十段もの階段の上にある玉座に座るその男に切っ先を向けた。

 最下段に控える二名の甲冑を着た兵士が剣を抜いたエカチェリーナに槍を構え、さらにその兵士たちからエカチェリーナを守るため彼女の従者の女も短剣を抜く。互いに主を守るために一触即発。

 男が『かまわん』と唸るように言うと兵士たちは槍を下げる。従者も主であるエカチェリーナの方をチラリと見て、目配せされたため短剣を下ろす。


 ここは謁見の間。人目に付くが故に他の部屋よりも一層荘厳で広大で豪奢な部屋。その部屋の主の名は。


 現ロシア帝国皇帝、クリムゾン・ロマノフ・ネバードーン。


 彼の赤銅(しゃくどう)色の短髪は火のように逆立ち、王家のみに着用が許された黒地に金刺繍のタキシード風ローブを纏っている。そして下卑た視線でエカチェリーナを見下ろす。威風堂々とした姿が、この場の、この建物の、この街の、この国の主が誰なのかを示していた。



「まあまあ、あなた。今夜もわたくしが相手して差し上げますから、我慢してくださいな。それよりも今日はこれについてのお話なのでしょう? ほら、カチューシャも」



 クリムゾンの隣にはもう一つの玉座があった。床につきそうなほど長い金髪を一房に編んだ女性が座している。コバルトブルーのドレスを身に纏い、女神を思わせる美貌と聖女を思わせる慈愛に満ちた顔つき。最下段でクリムゾンに剣を向けるエカチェリーナと瓜二つのその女性の名は、王妃アンナ・ロマノフ。正真正銘、エカチェリーナ・ロマノフの姉である。


 カチューシャ、それはロシアの人名においてエカチェリーナの短縮形、愛称を表す。姉に言われしぶしぶエカチェリーナは剣を鞘に戻した。

 



「ああ、そうだったな。なかなか面白いものだった」



 アンナから一冊の黒い本を手渡されたクリムゾンはそれをパラパラとめくった後、パンッと閉じる。しげしげと表紙を眺めて言った。



「父上から面白いものがあると言われてエカチェリーナに頼んでみたら、とんだ掘り出し物だった。俺とてまさかここまでの代物が出てくるとは思っていなかった」


「ちょ、ちょっと待て! ロシア帝国に不利益あるデータだと言っていたではないか」


「ああ、言ったな。だが嘘ではない。面白いものが俺の手の届かないところにあるのは、この俺、ロシア帝国そのものである皇帝にとって不利益だ。俺の不利益ならばそれはこの国の不利益。違うか?」


「貴様っ……。そんなことのために私の部下を危険に晒したというのかっ!?」


「ハッ、おかしなことを言う。俺の幸福はこの国の幸福、ひいては民の幸福だ。それを王族のお前が嫌がるのは道理が通らん。だが、そうか。お前は良い部下を持ったな。ろくに情報も引き出せないどこぞの【無色】と違って完璧に仕事をこなし持ち帰って来た。ふむ、俺の手元に置こうか」


「彼は貴様なぞに渡さん」


「彼……。ほう、あれだけ俺の求婚を断ったエカチェリーナもとうとう雌になったか。初夜は物足りたか? もし体の疼きが収まらないならいつでも俺が……」


「それ以上エカチェリーナ様を侮辱するなァァァァッッッッ!!!!」



 エカチェリーナの従者の女は憤怒と羞恥で赤面し、再び短剣を抜いた。甲冑兵士が咄嗟に槍を構えるが、身軽にジャンプし顔面を踏みつけ、乗り越える。



「やめてくれっ!」



 頭に血が上っていて聞こえないのか、主であるエカチェリーナの言葉も無視して玉座にいるクリムゾンに凶刃を突き刺さんと階段を駆け上がった。

 しかしそれが届くことは決してない。


 クリムゾンの()()()が、淡く光を灯す。



「貴様の発言を許した覚えはない」



 何気ない動作だった。自身に迫る従者の女に片手をかざした。玉座から立つことはなく、座ったまま。


 ただそれだけのことで、従者の女は発火した。小さな火種ではない。まるでガソリンでも被っていたかのように身体全体から。

 全身を包む業火の中で女の悲鳴がこだまする。服を焼き、髪を焼き、肌を焼き……。叫びながら階段に倒れ込みごろごろと転がり落ち始めた。


 エカチェリーナはたまらず追いかけるように走って大切な従者を受け止め抱き締めた。火は当然エカチェリーナにも燃え移る。火傷が露出した皮膚に広がることなどものともしない。それよりも大切な部下を助けたかった。



「頼む……私が悪かったから火を消してくれ……」


「さて……どうしたものか」


「この通りだ……」



 エカチェリーナは倒れている従者の女を抱えた姿勢のまま、頭を下げて階段につけた。一国の姫君が見せてよい姿ではない。日本における土下座のような単語化された文化はないが、ロシアにおいても頭を地につけるのは屈服と屈辱の証である。


 クリムゾンはエカチェリーナの誇りや尊厳の傷つく様に満足し、かざした手を閉じてグーの形にした。すると、たちまち女を包んでいた火は何事もなかったように消え去る。

 だが痛々しい燃え跡、火傷まではなくならない。女性らしくウェーブしていた従者の美しい髪は跡形もなく灰になり、全身は黒く焦げている。肺からはひゅーひゅーと呼吸音が聞こえるために死んではいないのだろうが、このままでは息を引き取ってしまうことは誰にとっても疑いようがない。



「すまない……私のために……」



 私()()()のために、とは言わない。それは自分の名誉ために怒ってくれた彼女の気高い精神を傷つけてしまうから。エカチェリーナは高貴な軍服に煤がつくのも気にせずに従者の女を強く抱き締める。エカチェリーナの青い眼が、淡い光を灯した。


 エカチェリーナと従者の女の二人を青く優しい穏やかな光が包む。

 まず、軽度の火傷だったエカチェリーナの傷がふさがった。つづいて、見るに堪えないほど(ただ)れていた従者の皮膚が元通りになった。全身の火傷はみるみる縮小されていって、燃え尽きていて髪が再び頭皮から生えていく。とうとう元の美しい栗色のロングヘアを取り戻し、艶と張りのある白肌には火傷はおろか傷のひとつもありはしない。


 着ていた服は燃やし尽くされ戻ることはない。エカチェリーナは黄金のボタンを外し自身の軍服の上着を脱いで、裸体になった従者にかけた。クリムゾンに大切な従者のあられもない姿を見せることは絶対にしたくない。



「いつ見ても凄まじい能力だ。俺の能力との相性も良い。本来ならばその女は不敬罪で裁くところだが……フン、エカチェリーナの美しい光に免じて今日のところは大目に見てやろう」


「寛大な措置、感謝する……ッ」



 エカチェリーナはいわゆるお姫様抱っこと呼ばれる状態で従者を抱きかかえ、玉座のクリムゾンを見上げ睨みつけて言い放った。それが本心でないことはこの場の誰もが理解している。それでも、クリムゾンは『その強気こそお前らしい』とむしろ笑ってみせた。



「……失礼させてもらう」



 踵を返し、エカチェリーナは謁見の間を出て行った。



〇△〇△〇



「あんな意地悪しないでもよろしいでしょうに」


「エカチェリーナはお前と違って屈服させがいがある。だから面白い」


「あらあら。わたくし、嫉妬しちゃうわ」


「抜かせ」



 クリムゾンは手元の黒い本を眺め、表紙のタイトルを読む。



「それにしても、Dead Sea Scrolls、死海文書か。贋作の可能性も否定できん。だがこの本からは並々ならぬ熱意……執念にも似た激情を感じる。父上が何を思って俺にこの本の話をしたのかは知らんが、たしかに面白い。アンナ、お前はこれが読めるか?」


「ええ。読めますわよ。表紙は英語、それから中身は北欧のルーン文字や、ドイツ語で書かれたゲーテの詩なんかもありますけど、ほとんどは日本語で書かれていましてよ」


「ほう、日本。あの女狐の国か」


「わたくしはエカチェリーナと違って身体を動かすのは苦手でしたから、その代わりに外交や交渉事、パーティに参加していずれ皇帝となる殿方を助けられるように、主要国家の言語は全て習得したんですわ。本の内容、お聞きになります?」


「ああ。頼む」



 まるで母親が子供に絵本の読み聞かせをするように、アンナが語り始めるのに合わせてクリムゾンは目を閉じた。



「『神々の黄昏を暁へと導く者。俺の眼には真っ赤な焔が宿っている。煌々と燃え盛る炎は──』」


「待て、眼が赤い、だと?」


「そのように書いてありますわ」


「なるほど……父上の意図がわかった。これを書いた奴は俺と同類、一等級か」


「うーん……あなた、正直に申し上げると、内容は支離滅裂でしてよ。文章と図は特に関係がありませんし、その文章も小説のような書き出しかと思ったら途中でいきなり詩になって……。わたくし、狂人の手記かと思いましたわ」


「狂人か。ハッ、当然だ。俺と同類でまともなわけがない。強大な力を持つ者には二種類ある。俺のようにチカラを振るう器のある者と、器がなくチカラに飲まれる者だ。飲まれたら最後、人としては狂ってしまう」


「ふふ、わかっていますわ。あなたが気になるのは、著者の方の能力にまつわることなのでしょう……?」



 そうですわね……と呟きながらアンナはパラパラとページをめくる。



「著者の方と関係がある方かどうかはわかりませんけれど、面白い記述がありましてよ。読みますわね。『煉獄を司る赤き眼の黄昏の能力者の隣には、時を司る女性が一人。名を、空川夕華』」


「なに?」



 クリムゾンは閉じていた目をカッと見開き、アンナを見つめた。



「本当か? 本当にそう書いてあるのか? 時を司る能力、と」


「ええ。ロマノフの名とこの北の大地に賭けて真実そう書いてありますわ」


「そうか……そうか……父上は……」


「あなた、そんなに時を司る能力は重要ですの? もちろん強そうということは理解できますけれど……」


「たしかに、強い、というのは間違いではない。確実に一等級の能力だ。俺と比肩するレベルのな。だが重要なのはそこではない」


「では何が?」


「いいか、アンナ。時を司る能力、それは日本の女狐……()()()()()だ」



 黒い本に記された『空川夕華』という名の女性こそ、かの女狐を打倒する鍵になるかもしれない。


 かつての大戦で日本とも争い、それでいて国連にも与さず、いすれは世界をも手中に収める気でいるクリムゾンにとって、その女性を探し出し自分のもとへ連れてこいと命令するのはいたく自然なことだった。

 冗談ではなく本気で世界征服を目論んでいる。そのためには日本の聖皇は最大の障害なのだから。

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