第93話 ミッション・ポッシブル
ロシア語で『ネバードーン航空』とデカデカと書かれた飛行機から降りるアンドレイは忸怩たる思いだった。エカチェリーナがあんな話を自分のような下っ端にしてきたせいだ。
(俺は別にロマノフ王家への敬意もネバードーン家への愛着もねえんだけどな)
それなのに、陰がかかったエカチェリーナの表情を思い出すとネバードーンの名を冠した製品を使うことに妙な忌避感がある。以前はこんなことはなかったのに。初めて直接会話した有名人に当てられて自分までおかしくなってしまったようだ。
税関も難なく突破できた。星詠機関の施設ならともかく所詮は公共の一般施設なので、ロシア帝国という大国が本気を出して作った偽造パスポートはバレやしない。自信はなかった英語もしっかり通じていた。
このパスポートの偽造技術もネバードーン財団産なのかもしれないな。そう考えると余計に気持ち悪くなる。
タクシーで都市部まで出ると、適当なバスに乗り込んだ。一番後ろの席に座ってバージニア州の地図を開く。バージニア支部が入っているビルまでの道順は事前に頭に入れてきていたが、復習がてら念のため。
(それにしても星詠機関の支部の位置なんて情報は表に出てないはずなんだけどな。まさかこれもネバードーンの……)
いやいや、さすがにこれは軍の誰かが掴んだ情報だろう。別に愛国心などないのだが、これ以上我が祖国とネバードーン財団を関連付けて考えると吐きそうになる。
州内を巡回するバスに乗って一時間弱。アメリカに訪れるのは初めてだ。とはいえ、車窓から見える景色にそう大きな違いはない。普通に人々の営みがあり、普通に泣き笑いしている。
意外だったのはネバードーン製の物が使われていることだ。ロシアから出たことのないアンドレイはてっきりロシアでしか見ない企業かと思っていたのだが、自動車やスマートフォンなどつぶさに観察するとそれなりの数ある。実態としてはネバードーン財団は国際的な大企業群なのだが、あまりそういうことに興味をもたずに生きてきたアンドレイには想像もつかなかった。
目当てのバス停に到着したので降車する。そこからバージニア支部のビルを見つけるまでは簡単だった。なにせ、この辺り一帯で最も高い建物なのだから。
「ここか……」
首が痛くなるほど全面ガラス張りのビルを見上げる。アンドレイにとっては初めて見る星詠機関の施設。そのリアクションは日本支部を目にしたナツキと同じだ。
アンドレイは一旦ビルの陰に潜み、橙色の眼を淡く光らせる。同時に、腹に力を込めて息を止めた。彼の身体、服、肩にかけたバッグやポケットのスマートフォンにいたるまで全てが透明になり、周囲の景色に溶け込んだ。
アンドレイの透明化の能力の範囲は、彼が自分自身の一部だと違和感なく思える範囲。もしもアンドレイが変な宗教にでもハマって『世界も自分』なんて言い出したら世界が地球が丸ごと透明になってしまうところだったが、そもそも等級が低く能力の強度が足りないため、前述の制約を合わせても透明化の範囲は『身に着けているもの』『手にもっているもの』くらいが限界だった。
透明になってもいなくなったわけではないので自動ドアのセンサーは反応する。周囲には誤作動にしか見えていないだろう。中の警備は頑丈だった。専用のカードをタッチしなければ通れない改札のような機械と、目視で監視する見張りの男性が二人。黒服黒ネクタイ黒サングラスの屈強な黒人たちだ。監視カメラはただのエントランスなのに無数にある。
そっと足音を立てないように気をつけながら、二人の間を抜けて改札風の開閉扉を跨いだ。潜入成功。もう息が切れそうだ。監視カメラの死角を見つけて透明化を解除しなければならない。施設内の地図は、ない。あとは全てアンドレイの技量にかかっている。本番はここからだ。
〇△〇△〇
バージニア支部の高層ビルの最上階に最も豪奢な部屋がある。百人規模の会議や集会ができそうなほど広い部屋だ。しかしここはたった一人のために設けられた。あまりに大きな個室。
星詠機関には二十一天という総称される幹部たちがいる。二十一と言っても全席が埋まっているわけではなく、組織の中でも選ばれし十数人だ。よって待遇も相応のものとなる。
ここは二十一天が一人、ハダル専用の個室だった。明らかに高さのあっていない椅子と机で足をぷらんぷらん揺らす。
「は、はじめまして! 南米支部から来ました! ルイ―ザ・ワタナベと言います!」
「へえ~ルイ―ザちゃんは日系人なんだね。日本語ペラペラでびっくりだよ」
「そ、祖父が日本人でした!」
ポニーテールにした黒髪をぴょこぴょこ揺らしながらハダルはうんうんと頷いている。ルイ―ザよりもはるかに身長が低いので、ルイ―ザに遊んでもらっているようにしか見えない。
「プロフィールには目を通させてもらったよ~。ブラジル生まれブラジル育ち、好きなサッカーチームはインテルナシオナル。まだ十代なのに私のところに派遣されてくるなんてすごいじゃん」
「きょ、恐縮ですぅ」
日系ブラジル人とではあるものの、そう言われなければ気が付かないだろう。日本に連れて行っても誰も外国人とは思うまい。髪型がベリーショートの割には、言動から読み取れる彼女の性格は快活というよりも根暗。ハダルという立場のある人物と会話をしているからなのか、それとも生来の性格なのか、さっきからずっとオドオドしている。せっかく今日の顔合わせのために下ろしてきたスーツも着ているというより着られているという感じ。
ところで、ハダルが言うところの『私のところに派遣されるなんてすごい』というのはバージニア支部を讃える旨の意味ではない。ましてハダルが自分自身を過大に評価しているわけでもない。
激務だぞ。ただそれだけのこと。
「今日はルイ―ザちゃんをお出迎えするために支部のビルに来てるけど、私基本的にアーリントンのペンタゴンの方にいるからさ。なんかあったらそっちに電話かけてほしいかな。あ、この部屋もほとんど使ってないからルイ―ザちゃんにあげるよ。あと、はいこれ。今朝ナナちゃんから送られてきた引継ぎ資料ね。組織運営のこととか出席しないといけない会議とかたぶん書いてあると思うから。超重要だからなくさないようにね~」
ドサッ、と机の上に乗せた引継資料は膨大な量で、背が低ければ座高も低いハダルは書類の山にすっぽり隠れてしまっている。あわわわわ、と焦ったルイ―ザはとりあえずその資料を受領して、ハダルの顔が見えるようにした。
「ペ、ペンタゴンって、アメリカの国防総省の本庁舎の、あのペンタゴンですよね? どうしてそんなところに……おっとっと」
抱えきれない量を強引に抱え込んだ結果、資料の山に振り回されてフラつくルイ―ザ。彼女の問に対してハダルは何の気なしに答えた。
「なんかアメリカの国防長官に気に入られちゃってさ~。研究職なんだった言ったらここの設備使っていいぞってペンタゴンに案内されて」
さらっと言っているが、国防総省はアメリカ合衆国の陸軍、海軍、空軍、宇宙軍、海兵隊を統括するアメリカの全軍事力そのものだ。そのトップに気に入られ、ましてアメリカ国籍でもない部外者のハダルがペンタゴンへの入場を許可されるなど、国防上いいや常識的にあり得ない。
ルイ―ザは紫色の瞳でハダルを見つめた。ハダルの眼は黒い。無能力者にして二十一天になった天才の中の天才だとはルイ―ザもかねがね聞いていた。つまり長官に取り入ったのも能力ではなく純然たる人間的魅力。取り入ってやろうという下心が本人に一切ない分、むしろ恐ろしい。ただ生きているだけで世界が動くのだから。
ルイ―ザが呆気に取られているときだった。彼女が抱きかかえる資料の山が、突如ぐらりと不自然に揺れる。
「ハダル様」
おどおどしていたルイ―ザの雰囲気が一変し紫色の眼に淡い光が宿る。すなわち三等級の能力者による能力発動。だが、ハダルはそれを遮った。
「いいんだ」
「しかし……」
「ルイ―ザちゃん。私がいいんだって言ったらいいの」
ニコニコと笑うハダルは両手で机に頬杖をつき床に届かない両足を依然ぷらぷら揺らしながら、幼いその容姿から発せられたとは思えないほどに威厳のある声を出してルイ―ザをその場に縫い付けた。
わずかにビクリとルイ―ザの全身が震える。相手は所詮、研究畑の無能力者。ましてや見た目は子供。それなのに今この瞬間、彼女の本能にはどちらが強者なのかがくっきりと刻みこまれた。
どうやら自分はすごいところに来てしまったらしい。
ルイ―ザがそう思ったとき、開け放たれていた扉がふわりとわずかに揺れた。
〇△〇△〇
当たり前の話、重要なデータは重要な人物のところにある。というわけでまずはこのバージニア支部のトップ、支部長とやらの部屋を探すことにした。そして捜索はまったく難航しなかった。一番上の階にひとつだけ馬鹿みたいにだだっ広い部屋があるのだから。そして馬鹿みたいに広いばかりか馬鹿みたいに丁寧に『支部長室』と書かれていた。もっと言うと、馬鹿みたいに扉は開け放たれていた。
トイレに隠れ、スーーッと息を吸い、口を閉じる。固く固く閉じる。
部屋の中には二人の女性がいた。小さな幼女が椅子に座っていて、ベリーショートの怖そうなスーツの女性がその前に立っている。妹か、親戚の子供か、或いは見学会?
漏れ聞こえる会話に耳を澄ましながら抜き足差し足忍び足で音をたてないように進入。
狙うはベリーショートの女性が抱える書類の山。互いの呼吸が聞こえるほどの距離まで近づく。アンドレイは能力使用のために息を止めているので向こうがこちらに気がつくことはないだろうが。
(ペンタゴンがなんだって?)
途中から会話を聞き始めたのでわからないが、国防総省の話をしているようだ。ビンゴ。エカチェリーナは言っていた。ロシアに不利益のある内容のデータだと。ならばアメリカという大国の軍事の話になっているのも頷ける。
さらに、あの少女は最後に『超重要だからなくさないように』と伝えていた。これ以上の証拠があるだろうか。
クラッキング対策で電子データではなく紙データの保存をしたのだろうが、それこそ運の尽き。自分のように物理的な接触を図る能力者がいるなど夢にも思わなかったのだろう。
(ああ、案外ラクな任務だったな。俺が触れたものは俺の一部分と認識されて一緒に透明化する。この書類がどこかに運ばれた後で……)
運ばれた後で取りに行こう、そう思ったとき。
「ハダル様」
ベリーショートの女は急にキョロキョロと周囲を見渡し始めた。その視線は徐々に自分に向く。視点が合っていないので正確には捉えてはいないのだろうが、気配か、或いはそれ以外の何かをたどったか。
アンドレイとルイ―ザの距離はほんの数十センチメートルもない。とはいえこちらは透明。バレる道理はありはしない。だが、しかし。
「いいんだ」
目が合った。完全に。合ってしまった、と言うべきか。もう一人の方、幼い容姿の女と。
(おいおいおいおい何者だこの幼女、完全に俺を見てるよな!? 黒い眼、無能力者のガキが俺を、どうして、一体どうなって…………)
そのときアンドレイの頭の中に現れたのはエカチェリーナの悲しそうな表情と『生きて帰ってこい』という言葉だった。万が一、この幼女にバレていた場合。自分が捕まった場合。そのとき自分はエカチェリーナの友だという人物の二の舞だろう。それは勘弁だ。エカチェリーナのためということではなくて、あくまで自分の保身という観点で。そう自分に言い訳して。
「しかし……」
ちょうどアンドレイの中で意識が逃走に傾き始めたそのとき。ベリーショートの女の視線が外れた。
これはチャンスだ。このチャンスをモノにできるかどうかは、成果もなくおめおめと帰投するか任務をきちんとまっとうするかという明暗にそのまま直結する。
意地だった。エカチェリーナに、自分はただ逃げたのではなくしっかり任務も果たしたぞと言いたかった。見栄と表現してもいいかもしれない。
だから、資料の山の上の方にあった分を数冊ひったくってからダッシュして部屋を出た。東洋人は背が低い。このときだけは自身のスラブ系の血に感謝した。悠々とてっぺんに手が届いたのだから。いきなりごっそり書類の山が消失したら怪しまれるが、視野の外にある最上部が数冊なくなったからといって気が付けるわけもない。
背後からは例の幼女が何かベリーショートの女性に厳しい声をかけているのが聞こえる。だが自分には関係のないことだ。今はこれらのデータを祖国に無事持ち帰ることだけを考える。必ず生きて帰ってみせる。
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