第92話 友の名は
意外とお茶目な人なのかもしれない。呆気にとられたアンドレイをよそにエカチェリーナは引き出しから書類を取り出して手渡した。
「読みながら聞いてくれ。アヴェルチョフ一等兵、きみは透明化の能力を持っているそうだな」
「え、ええ。条件つきではありますが……」
橙色の眼をぱちくりさせながらアンドレイは頷いた。
能力者の強さや規模の尺度、すなわち等級は眼の色に対応している。これは世界のあらゆる能力者が関わる組織は研究機関にとって定説となっていた。上は一等級から下は六等級まで。色は順に赤、青、紫、黄、緑、橙。つまりこの部屋にいる二人で言えば、エカチェリーナは二等級、アンドレイは六等級ということになる。
「そうか。では透明化の能力を用いた潜入任務の経験は?」
「訓練は日々積んでおります。自分のようにフィジカルも学もない者が帝国に貢献するにはこれしかありませんから」
実際の任務経験はないと遠回しに言う。それに、フィジカルで劣るのも学歴がないのも事実だ。アンドレイはスラブ系が大半を占めるロシア帝国民の中でも図体が大きいというほどではない。日本人をはじめとするアジア人と比べればかなり大きい方なのだろうが、軍のような脳みそまで筋肉になっている環境に身を置けば自分の中背中肉な標準体型はいやというほど目立ってしまう。
能力が発現したのは幼少の頃だった。酷いイジメを受け、自殺すら考えたとき、消えてしまいたいという願いを叶えるように透明人間になる能力を手に入れた。ただし、息を止めている間だけ。何もしなくても一、二分。激しい運動をするとなると、数十秒ももたない。
それでも能力は能力だ。どこから察知したのか軍部の人間が家に訪れ、両親に「御宅の息子さんは才能があります」などと居間で話しているのを聞いたのが十年前。両親は偉大なる王家のために死んできなさいと泣いて喜んでいたが、人並み未満の愛国心しかないアンドレイにしてみればたまったものではない。
あれよあれよとしているうち、逃げる間もなく軍属になってしまった。まあ逃げる度胸もないのだが。
故に、エカチェリーナに対して言い放った『帝国に貢献するには……』など口からのでまかせ、軍人としての社交辞令程度の意味しかない。
それでも、まるで我が子を愛おしむような優し気な顔で『うむ、よい愛国心だ』と漏らしているエカチェリーナを見ていると少しだけ心が痛んだ。その表情は、どこか以前新聞で見たエカチェリーナの姉のアンナに似ている気がした。
「……ということは、潜入任務なのですね」
「ああ」
資料をパラパラとめくると、長ったらしい文章や地図、どこかの街の外観写真、アンドレイに与えられる仮身分の設定や偽造身分証明書、偽造パスポートなどが載っていた。
「場所は、アメリカ……。それも星詠機関ですか」
「そうだ。ある重要なデータがバージニア支部に移送されたらしくてな。どうやら帝国にとって不利益を被るものだという。頼めるか?」
「謹んで指令を承ります」
「きみの忠義と愛国の心に敬意を。だが……もしも身の危険を感じたら、まずは逃げることを考えろ。最悪データを手放してでもな」
わずかに表情を曇らせたエカチェリーナ。ともすれば命を国のために捨てさせるのが軍隊だ。そんな組織の人間が発するには違和感のある言葉に、アンドレイは緊張も忘れて聞き返す。
「どうしてそのようなことを?」
「……私には友がいた。アメリカからの移民でな。洋裁が得意で、幼いころからふざけてよく私のドレスを作ってくれたよ。私の侍従たちにはアメリカの穢れた血の者と関わるなと叱られたものだ。もちろん私はそんなこと無視していたよ。だって彼女は……私の友なのだから」
どこか遠い目で寂し気に語るエカチェリーナの表情と口ぶりから、その友人はもう既に故人なのだろう。
「まだ私は若く、未熟だった。軍にも入る前の話だ。彼女は私より少しだけ年上で……能力者だった。そしてネバードーン財団の能力者組織に引き取られた。彼女は移民だったから。私のような王家の小娘ではネバードーン財団に口出しすることはできなかったんだ」
「たしかネバードーン財団は……」
「ああ。はっきりと言ってしまえば軍の中にもあの財団を快く思わない連中は多いよ。私含めてな。戦力的にも……恥ずかしい話だが、もしぶつかった場合勝てる保証はない。そしてネバードーン家は金や権力だけでなく、私たちロシア帝国の血と伝統も乗っ取った……」
「……現皇帝、クリムゾン・ネバードーンですか」
「正確には今はクリムゾン・ロマノフ・ネバードーンだがな。仮に奴が皇帝として財団側につかない選択をしたとしても、その上で私たち国軍ではネバードーン財団の私的な組織にすら勝てないと言わざるを得ない」
遠目からだが見たことがあった。皇帝のクリムゾンも能力者だった。ならば当然、戦力の頭数として数えることができる。国のトップである以上は国の味方をしてほしいところだけれど、彼がネバードーン家という一国すら凌駕する規模の家柄の長男である以上は愛国や忠節や奉仕といった考えはないだろう。
尤もロシア帝国と一財団との戦争などあくまで仮想の話に過ぎないのだが。
「話を戻すぞ。私の友は、ネバードーン財団の中でそれなりに活躍したみたいだ。元々手先が器用だったからな。特に諜報活動が得意だったらしい。そんな彼女が……先日星詠機関に捕縛された。連中が温情をかけていれば命は助かっているかもしれないが、しかしおそらくは……」
どう返答すればよいのだろう。同情の言葉をかけるのも違う。部外者の自分にそのような資格はない。
「笑ってくれて構わない。これは半分私の私怨だからな。星詠機関への、そしてそこへ送り込んだネバードーン財団への……」
「俺は!」
エカチェリーナの言葉を遮るように。自分でもどうしてそんなことをしたか思えない。それも『俺』などと軍人にあるまじきプライベートな口調で……。
「……俺は、必ず生きて帰ってきますよ。だからあなたはそこで安心して待っていてください。いつもみたいに、俺たち軍人のケツを叩いて激励していてください」
「そう、だな。うむ。わかった。アンドレイ・アヴェルチョフ一等兵、きみを信じよう。絶対に帰投するのだぞ」
「はい!」
アンドレイは力を込めて敬礼する。
執務机の上にある小さな鉢植に生える植物を撫でながらエカチェリーナは莞爾と微笑む。アンドレイは不思議と力が湧いていくるのを感じた。信じる、などと言われたのは軍に入ってから初めてかもしれない。
エカチェリーナの姿はまるで一枚の絵画のようで、否定しがたいことに自分は強く魅了されている。
(ああ、あれは何の植物だったけな。そう、たしか……)
バーバラ。鉢いっぱいに広がる葉の多肉植物の名前は、バーバラといった。
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また、お忘れの方も多いでしょうが本編でエカチェリーナから語られている内容は第六話・第七話になります。