第90話 人間椅子
『快適なクルマ体験をあなたに。圧倒的馬力を低燃費で実現します。ネバードーン自動車です』
壁に埋め込むタイプのテレビ、一二〇インチの巨大なスクリーンには、サーキットを爆走するワゴン車が映し出されていた。穏やかな女性のナレーションをバックに二五〇万円~というテロップが流れている。
テレビコマーシャルを見ている二人の人物、北斗ナナと田中ナツキは価格になど目もくれず各々違った感想を抱いていた。
(どうやったら大家族ファミリー層向けのワゴン車がサーキットでタイヤから火花を散らしながらドリフトをキメる必要があるんだ……)
(表向きは一般企業だからって、星詠機関で受信してるテレビ番組のコマーシャルにまでネバードーン財団のが流れるのって風紀的にどうなんだろね)
十五秒もすればまた別の企業の別の商品の広告が流れる。二人は星詠機関日本支部のの高層階にあるナナ専用部屋でダラダラと過ごしていた。事務仕事をする目的で設けられた広い机では、ところせましに書類が端に寄せられている。代わりに机の中央を占領しているのは細い棒状のチョコレート。二人ともそれを一本一本手に取ってかじりながら、平日の朝からバラエティ番組を観ていたのだ。
「暁、何か飲む?」
「じゃあコーヒーを頼む」
「アンタいっつもそれだね。アタシも同じでいいかな」
ナナの紫色の眼に淡い光が宿り、パチンと指を鳴らすと机に突如としてコーヒーメーカーと二つのマグカップが出現する。ナナの転移能力だ。
「今日は学校ないの?」
「昨日が期末テストで、今日は教員たちの採点業務らしい。授業ができないから休日だ。次に学校に行くときは終業式だな。テスト返しや通知表配布もその日にある」
「ふーん。そしたらもう夏休みか。懐かしいね。ま、アタシは授業ちゃんと出てなくて毎日が夏休みみたいなもんだったけど」
「学校を何だと思ってるんだ……」
「夕華とハルカと遊ぶとこ」
淀みなくそう言い切るナナに半ば呆れ顔になったナツキはツッコミを飲み込むようにコーヒーに口をつける。そんなことよりもナナにはもっと言いたいことがあった。コマーシャルが終わりテレビでは芸人たちがガヤガヤと騒いでいる。
「一つ聞いてもいいか」
「うん」
「どうして俺はナナさんの膝の上に座らされている?」
星詠機関は馬鹿みたいに高いビルを支部や本部に使うだけあって、内装にも金をかけている。日本支部でも大きな役職を任せられているナナは当然それだけ立派な部屋をあてがわれており、今まさに座っている椅子も高級品だ。見た目は俗に言う社長椅子。しかしクッション性能が高く背もたれは腰の負担を吸収するなど、機能性はゲーミングチェア。
良い品は丈夫だ。二人分の体重を乗せても椅子はビクともしない。背もたれに体重を預けているナナは膝にナツキを座らせ、ナツキはナナの身体を背もたれにし体重を預けている。
少し視線を下げれば、腰にナナの腕が巻かれていることを確認できた。椅子のクッションが無い代わりにナナの大きな二つの胸がむにゅりと形を変えながら背中を受け止めている感触があり、否応なくナナが大人の女性であることを痛感させられる。夏は暑いからなのか今日はライダースパンツではなく太ももを大きく露出したホットパンツだった。素肌の肉感がまた艶めかしい。
「どうしてって、暁成分を摂取するために決まってるじゃないか」
そう言って背後からマフラーの中につっこんで首元に顔をうずめてきたナナに、どうすればいいのか困ったナツキはとうとう考えるのを放棄した。そのうち解放されるだろう。ペットの動物にでもなった気分だ。
(本当はナナさんには能力のことを詳しく聞きたかったんだけどな……)
ナナの机で整理整頓されることなく積み上がった書類の上にナツキが持ってきた黒いノートもある。本物の能力者たちに色々とインタビューをして、自分も能力に覚醒するきっかけを掴めれば、と思ってのことだった。期末テストの採点をしに学校に行っているため自宅には夕華がおらず自分一人。だったら暗い部屋で机に向かいウジウジするのではなくて思い切って外に出てみようと考えて。
この日本支部は日本国内にあるが故に最高権力者の聖皇に強い制約を受ける。国連に加盟しない日本と星詠機関は水と油……とは言わないまでも、良好な関係というわけではない。ネバードーン財団という過激派が両者にとって共通の目の上のたんこぶであるためにこうして支部建設を許すくらいにはなっているが。
そういう理由で、日本支部のトップには日本側から人材の派遣があった。事務員等の一般職員は全て日本側が用意することは知らされていたが、まさかトップまでとは。しかし訪れたのは、ナナの予想を大きく反して幼い少女……ではなく、本人曰く少年。それもナツキの友人ときた。
中学生に大人の仕事を全て任せるわけにもいかない。結果として、英雄を補助するという形式でナナや牛宿らが副支部長に収まった。業務はほとんどこの二人が行っていて、事実上の支部長職はこの二人ということになる。それにあれだけ英雄に申し訳ない顔をされたらナナも断れない。
また、どういう因果かナナと牛宿という人選も多少は幸いした。ナナの以前の上司はバージニア支部のハダルことナツキの姉のハルカ。牛宿の以前の上司は北欧支部のアルタイル。どちらも非常に奔放で、支部長の事務仕事には昔取った杵柄があったのだ。
それでも正式に活動を始めてから一カ月も経っておらず、関係各所との調整など仕事は山積みだ。つまるところ、ナナは疲弊していた。好きになってしまった男を見かけ、こうして部屋に連れ込んで甘えるくらいには。
もちろんナツキはそこまで詳しい組織事情は知らない。しかし大人には大人の背負うものがあるというのは、夕華と暮らすナツキにとって理解できるものだった。それは子供の自分が無責任に邪魔していいものではない。そういうわけで、同年代の中でも特に聡いナツキは諸々ふまえ黙ってナナを受け入れている。
(あーもう、暁はほんっとにカワイイな。いつ部屋に呼んでもいいように普段食べないお菓子用意していてよかった)
ギュッとナツキを抱き締めてスーハ―と吸いながらナナはそんなことを考える。同僚の牛宿が聞いたら職場にプライベートを持ち込むなとブチ切れていたところだろう。
難儀なものだ、と自嘲する。まだまだ若く恋愛を謳歌するはずの二十代の女が、男子中学生を好きになってしまったのだから。
ナツキはテレビを眺めたままナナの方を見ずに呟く。
「ククッ、まあ、俺でよければいつでも相手をしよう。ナナさんにはナナさんらしく、いつもみたいに元気でいてほしい」
ああ、どうして彼はこうも自分がかけてほしい言葉を伝えてくれるのか。
ナナは無言でさらにきつくナツキを抱き、熱くなった顔を冷ますように今度は背中に顔を押し付ける。
グウェッ! という悲鳴が腹から漏れ出るのを堪えたナツキは、まあこれも悪くはないとその状態を受け入れて、ゆっくりと過ごすことに決めるのだった。
〇△〇△〇
「よし、やろう」
ナツキが部屋を出てから、ナナは一念発起した。ちゃんと仕事をしようと。彼にみっともない姿はもう見せられない。見せたくない。
別の場所から山のように放置していた書類を能力で持ってくる。目を通し、サインをしたり修正をしたり。日本国内用のもの、支部専用の内容のもの、本部や別の支部に送るものと分類したり。
「これはたしかハルカのところに送る引継ぎ資料だったね」
机に数多できあがった書類の山。いいや、山というより高さからして柱。その柱のうち一柱を見やる。ナツキの姉であるハルカはバージニア支部のトップで、ナナも以前はそこの所属だった。会社風に言うならば、ナナは日本支部に異動になった、というわけだ。
前任者として業務に関することや支部の組織構造のこと、あとはハルカとの付き合い方のことなど幅広くまとめたため想定していた以上に大量の資料となってしまった。ナナは机の上で積み上がった書類の山を対象に選択しテレポートの能力を発動する。
書類の山が、遥か遠くアメリカ合衆国バージニア州に転移した。
書類と書類の間にナツキが持ってきた黒いノートを挟んだまま……。
ブックマークがまた増えておりました。ありがとうございます!
おかげさまで九十話です。