第82話 誰の手引きだったのか
その日、土曜日であるにも拘わらず高橋典子の姿は会社にあった。今週は有給休暇を取っていたので彼女にその義務はないのだが、つい仕事を溜めてしまったことが気になって出勤してしまったのだ。
自分一人しかいないオフィスはいつもよりもだだっ広く感じる。ワーカーホリックな自分が憎い。キーボードの横に置いているチョコレートをひとかけら摘まんで口に放り込みながら、切れかけた集中力を入れ直す。
(……って、無理よねえ。気にはなって来てはみたものの、自分だけでできる仕事なんてそんなに多くないし)
仕事の手を止めて席を立つ。彼女のいるオフィスはさほど高くない。わずか地上三階である。窓から外を覗けば、大きな荷物を持った人たちが行き交っている。休日の朝なのできっとどこかに遊びに行くのだろう。
高橋典子には憧れがあった。それは海外である。一度でいいから、海外旅行をしてみたかった。何もリゾートで豪遊したい、なんて分不相応なことを思っているわけではない。雑多な街中を歩いて、見知らぬ言語と見知らぬ人種の人々の中を歩くだけでいい。自分の給料でも充分に叶えられるであろうとてもハードルの低い憧れ。
でも、彼女がいくら札束を積んでもこの夢は叶わない。なぜなら彼女は能力者だったから。
はぁ、と溜息をつき窓に寄り掛かってチョコレートをさらにまた一口食べる。
物体を倍々に増加させる能力。幼少期に命に関わるレベルで貧しかったため覚醒したこんな能力だが、ただのOLの自分にはまったく使い道がない。紫色の眼を淡く光らせ、ためしに指先のチョコレート片を増やしてみる。どうせ時間が経ったら増加は解除されるのでこんなことをしても腹の足しにもなりはしない。
典子は先日ナツキに敗北したときからこの実技試験に参加する気はほとんど消え去っていた。星詠機関に入れば憧れの海外も体験できる可能性は非常に高いだろう。昔から学校の図書室に籠ってファンタジー小説を読むのが趣味だったので筆記試験もなんとか突破した。だが、誰かを傷つけるのはどうも性に合わなかった。
美咲を急襲したのが初めての戦闘だった。もしこれがうまくいったら意外にも自分には才能があるということなので実技試験の突破を試みよう。もしうまくいかなかったら、潔くきっぱりと諦めよう。
結果はナツキと美咲のコンビの勝利。だから終了ギリギリの土曜日でありながら、彼女はもはや得点を増やすための行動はまったくとっていない。
とはいえ。こんな天井の低いオフィスでずっと過ごすよりもスカッとしたのは間違いない。それに能力に目覚めてしまったという意味では初めて同じ悩みを共有している人たちとの出会いでもあった。どうせ有給休暇はそのうち上司に使いきれと命令されるのだから、こんなにも面白い経験ができたのなら価値はあったと言えるだろう。
ただ一つ、引っかかることがあった。
(あの子、私よりも早く勝負を降りてたわよね)
火曜日、そもそも彼女がどうやって美咲のイベントに潜り込めたのか。CDに封入されている応募券をハガキに貼って、そこからさらに高倍率の抽選を潜り抜けてやっと手に入る入場券だ。美咲のファンでもなんでもない典子はいかにして正面から侵入することが可能だったのか。
──
『あの、あなた実技試験の参加者ですよね』
『ええと、きみは?』
『ほら、僕も同じですよ』
手首につけたスマートウォッチを見せてくる。地図上では赤い点が二つ、一か所で明滅していた。
『あそこ、入場券がないと入れないんですよ。でもあなたの能力なら誤魔化しが効く。はい、これ僕のです。能力でコピーしていいですよ。ああ、今ここであなたに挑まれると厄介ですね。ええと、もしもし、って、スマートウォッチにマイクはついてないか。うん、でもどっかで聞いてますよね、きっと。僕、音無透は高橋典子に負けました。参りました。十点どうぞ』
そう言って、典子の腕を掴み強引に入場券を握らせた。
──
「音無透くんねえ。そんなにイケメンってわけでもないし、運動とか勉強とか得意そうには見えないし、きっとこういう争いごとにも向いていなかったんでしょうね」
面白い出会いを思い出しながら、気を取り直して再び自分の席に戻りパソコンを前にキーボードをカタカタと打ち始めた。
〇△〇△〇
入口の重苦しい扉を開け放てば、暗闇の中に一か所だけスポットライトが当てられているのを見つけた。
ここは日本武道館。その名の通り武術大会や格闘技の興行が目的の施設でありながら、今では音楽を生業にすると志す者たちにとって聖地とされるライブ・コンサート等含めた多目的ホール会場だ。現にナツキがそこに訪れたとき、ステージやアリーナ席のセットは音楽ライブの状態でセッティングされていた。
およそ一万五千人を収容できる国内最大級のホール。しかしすり鉢状の段差になった観客席にも床に椅子が敷き詰められたアリーナ席にも、観客は誰一人としていない。
「ようこそ! 暁くんなかなか来ないから待ちくたびれちゃったよ。アイドルオタクならここは来慣れているはずでしょう?」
「透、貴様……!」
舞台上の美咲は、椅子に座らされ全身が縄で縛られている。目隠しもされていて何も見えていないようだ。ライトの当たらない影からぬっと現れた透は美咲の肩を撫でるように触りながらナツキを出迎えた。
んーんーと言葉にならない叫び声をあげる美咲の姿と、その横でニヤつく透。
地上高四十二メートルという高さからすり鉢状の武道館の底にあるステージを見下ろすナツキは全身の血が燃え上がり沸騰するほど怒りや憤りが溢れんばかりに滾るのを自覚する。
(美咲の声はそんな苦しくて辛そうな想いのためにあるんじゃないんだぞ……)
美咲がどのような想いを抱いているのか、ファンや事務所の人たちのことをどれだけ愛しているか、何よりも、その歌声がどれだけ美しく豊かな表現力を持つか。それら一番近くで見て、知った。ともすればこの一週間に限ってはマネージャー以上に一緒にいた時間は長いだろう。
だからこそ彼女の声と尊厳が冒涜されているようなこの状況はナツキの心を逆撫でし波を荒立たせる。
(そうそう、そうだよね。僕もきみと同じファンだから怒る気持ちが手に取るようにわかるよ)
ナツキの最もされたくないことを狙いすますように透は行っている。すべては彼が自身の手で封じている一等級の能力を引き出すため。
……実際は、一割くらいは彼の趣味も含まれている。音無透は歪んでいた。応援するアイドルの苦しむ姿が好きだった。だって、それを乗り越えた先でアイドルはもっと輝くから。かつて美咲とユニットを組んでいた二人のアイドルを唆したように、数日前に高橋典子が襲撃する手伝いをしたように、今、こうしてロープで縛るように。
最大のファンである自分が怒りたくなるくらいにアイドルが苦しめば、それだけ乗り越えたときの成長は大きい。育成ゲームよろしくアイドルを自身の手で成長した気になれる。どうせナツキが能力を使ってくれたら美咲のことは解放する。でも、塞がれた口で苦しそうに呻き声をあげる経験をした美咲は今後もっと良い声で歌うだろう。それはそれで面白いイベントだ、本当にまるで育成ゲームをしている錯覚さえ透はおぼえる。
あの父親が注目するほどの逸材で、世界的に稀有な一等級の能力。それをナツキが使うところを見てみたい。
今の美咲もこれからの美咲も、歌う姿を見てみたい。
ああ、どちらも楽しみだ。音無透はニヤつく顔を抑えることができない。
客席階段上から睨みつけるナツキと底のステージでそれを受け止める透、二人の視線が武道館の上下、端と端を繋ぐように交差した。
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