第81話 音も無く近寄る恐怖
慣れた手つきでインターホンを押す。もうここに来るのも数回目だ。立派な門構えと広い敷地には委縮することもあったがすっかりそんな気持ちはなくなった。だというのに、美咲からの返答はない。
部活に入っていない中学生にとって土曜日は完全な休日。気分で言ったら毎週訪れる祝日だ。本当なら昼まで寝ていたいところだったが、昨日の晩に美咲が「最終日は得点の最終調整よ!」と言うから頑張って早く起きた。しかし当の美咲が返事をしないものだから、当然セキュリティの厳しい門は開かない。
奇妙だ。美咲はテキトーなノリのときこそあるが約束を破るような相手ではない。どこかに外出しているのだろうか。手首につけたスマートウォッチの地図機能をチェックする。自分も美咲も得点の上位半分だから、地図上に赤い点として表示されているはず。
それなのに。
「おい、美咲はどこ行ったんだ……?」
地図上には赤い点が一個、つまりナツキ自身を示す印があるのみだった。
〇△〇△〇
「ごめんよ、美咲ちゃん。僕だってこんな手荒な真似はしたくないんだけど、どうしても彼を追い込む必要があるんだ」
「んーっ! んんー!!」
「昨日彼はこう言ったんだよ。大切な人との平穏な日々を守るために能力は使わないって。うん、彼は僕と同じアイドルオタクだからね。彼にとって大切な人っていうのは、美咲ちゃん、きみに違いないんだ」
暗闇の視界の中で把握できることは多くない。椅子に座らされていること、手首と足首にロープが巻かれていること、猿轡をされていること、目を布か何かで覆われて何も見えないということ。
そして、自分をどこかに連れ込んだ犯人がよく知った人物であること。
「ほらほら暴れちゃだめだよ。どうせ美咲ちゃんの欠陥だらけなショボい能力じゃこの状況を覆すことはできないんだから。ああ、勘違いしないでね。たとえ美咲ちゃんが能力者としてクソ雑魚でも僕は一生きみのファンだから」
傍から見れば爽やかな青年。しかし鼓膜にねっとりとへばりつくような声が、呼吸がかかるほどの至近距離で耳朶を震わせる。
身動きが取れず声も出せない。能力を使うにしても、口をふさがれていては美咲の能力はただの自爆だ。それどころか相手は自分と違って動ける分、自爆覚悟で能力を行使し音を大きく増幅させても自分の方が被害が大きい、なんて間抜けなことになりかねない。
尤も、今の美咲はそんな冷静な判断を下せるほど正常は精神状態ではなかった。
アイドルとして活動していれば過激なファンや変態的なファンは多くいる。マネージャーが事前に確認して弾いてくれているから美咲自身が目にすることはないが、愛しすぎるが故に殺意の籠った手紙を送る者もいた。テレビ局や大御所芸能人、レコード会社など、大人たちから卑猥な視線を浴びせられたことは一度や二度ではない。
自分を攫った彼の言葉が全て本当である保証がどこにある? 気が変わっていきなり服を破き身体を揉みしだいてくるかもしれない。今の自分は、何も抵抗ができない。
視界を奪われていることが不安とマイナス思考を加速させる。
(怖い……助けて……誰か…………暁!)
怯えるように身体を震わせながら心の中で願う。それを知ってか知らずか、彼女を拉致した張本人は慰めるように言った。
「うんうん、怖いよね。でも心配しないで。きみの王子様はきっと来るよ。だって、僕の目的はきみじゃなくて彼の能力なんだから」
本人は安心させるつもりだったのだろう、ぽんと美咲の肩に手を置く。しかし周囲の状況がまったく見えず予期せぬ刺激が加わったことで美咲はビクンと身体を震わせた。
「大切な人との生活のために能力を使わない。ってことは、大切なきみのためなら彼は思う存分能力を振るってくれるはず。楽しみだねえ。どんな能力なんだろうねえ。ね、美咲ちゃんもそう思うでしょう?」
彼女をこんな目に遭わせた青年──音無透は、薄く笑った。
〇△〇△〇
門の前で待ちぼうけを喰らっていたナツキは、通知音が鳴るやいなやスマートフォンをポケットから引っ張り出す。
ナツキの連絡先を知る者は多くない。必然、通知音はナツキにとって非常に大切な人からの連絡を意味する。案の定メールの差出人は美咲だった。
「ククッ、俺との盟約を破るとは良い度胸をして……おい、なんだこれは!?」
画面をスクロールすると、一枚の写真が添付されていた。
椅子に縛り付けられ、目も口もふさがれた美咲の姿だった。美咲のメールアドレスから美咲の姿を映した写真が送信されてきたことの意味は、第三者の存在。何者かの手によって美咲は窮地に立たされている。
さらにスクロールしていくと、『場所はここ↓↓』という煽るような文章とともに位置情報が貼り付けらている。リンクを踏み地図アプリを起動する。
「美咲……」
グッとスマートフォンを握り、走り出した。
相手は美咲のイカれたファン? いいや、わざわざ美咲のスマートフォンを使ってピンポイントに自分に連絡してくるということは見知った人物、ないしは今回の実技試験の参加者。ナツキと美咲の二人でコンビを組んで加点をしていることを知った下位得点者が実質最終日の土曜日に賭けてこのような暴挙に出たのだろう。
少なくとも、自分の知人のなかにこのような非道な真似をする者はいない。そのはずだ。
「約束したんだよ……。美咲を勝たせてやるって。あいつと一緒にいてやるって」
自分でもこんなにも美咲を拐わかされたことに憤っているのが意外だった。最悪の出会いだったのに、気が付けば大きな存在になっていた。
一緒に戦った。一緒に笑った。一緒にクッキーを食べた。一緒にマッサージをした。
なんだ、案外充実した時間だったんじゃないか。最初は放課後を潰されて面倒で、自分を利用しようとする彼女の打算に乗ってやるくらいの気持ちでいたのに。
(ああ、たしかに俺自身、ここに来る足取りはいつも軽かったな)
この一週間、心昂る異能バトルも何気ない会話も本当にかけがえのないものだった。そうして気が付いた大いなる『幸福』は、しかし美咲が何者かに拉致されこの場にいない現在では全てが漏れなく『怒り』へと転化される。
「どこの誰だか知らんが……。煉獄の劫火に憤怒の薪をくべたことを一生かけて後悔させてやろうじゃないか」
ふつふつと、感情のマグマは爆発の一歩手前まできているのだった。