第76話 木曜日にはクッキーを
「はぁぁぁッ!」
タンッ! と足音を立て、相手に肉薄する。相手は二十代半ばほどの黄色い眼の男性だ。サラリーマン然としたカッターシャツとスーツを着ているので社会人だということがわかる。
スーツの男性が片膝をついてしゃがみ地面に両手を叩きつけると、地面が盛り上がって土壁が現れた。進行を遮られた格好となる。
厚さは数センチほどだが、ナツキが現在右手で握っている木刀で貫くのは困難。見上げて高さを確認すると二メートルほど。
チラリと後ろを向けば、美咲と目が合う。
タイミングを合わせられるか? もちろん!
アイコンタクトで意思疎通をする。ナツキは両足で強く地面を蹴った。足音が増幅され、人間の身体能力が本来は成し得ないほどの高さでの跳躍を可能にした。土壁など悠々と超えてみせる。
まるでオープンカーに飛び乗るように片手で土壁を乗り越え、向こう側、土壁の上部を蹴って急加速する。今度の加速は美咲の能力の利用ではない。単に自然落下に勢いをつけただけ。だが二メートルもあれば助走としては十二分。
ヒュン! と空気を斬り裂きながら真一文字に振り抜けば、木刀の先がスーツ男の胸部を削る。スーツのジャケットとその下のワイシャツまで敗れ、胸に真っ赤な痣ができた。
「まだやるか?」
胸を抑えながらうずくまるスーツ男の頭に木刀をつきつけると、絞り出すように言った。
「……俺の負けだ」
ナツキたちのスマートウォッチの画面が切り替わる。
『勝者:黄昏暁』
『勝者:雲母美咲』
スーツ男はふらつきながらも立ち去った。その後ろ姿を眺めていると、崩れ去った土壁を避けるようにして美咲がやって来る。
「やったわね」
「ああ。ナイスアシストだった」
美咲の能力を戦闘に利用しているからか、それとも監督者がナツキと美咲を二人一組のスクアッドと見做しているからなのか。理由は判然としないが、ともかく今のところナツキと美咲の二人に同時に加点されている。相手からしたら人数不利な上に一回の敗北で二十点も減らされるのでたまったものではないだろう。
今日は木曜日。昨日、つまり水曜日は誰とも戦わなかったので、戦闘なしペナルティでナツキも美咲もマイナス十点されている。今のスーツ男との勝利で水曜日のマイナス分は取り返した。つまり火曜日から得点の増減はプラスマイナスゼロということになる。
ナツキとしては美咲を勝たせたいので、他の参加者に見つかりやすい場所に行ったり他の得点上位半分で地図上の位置が表示されている者たちに挑みに行ったりしたかった。しかし当の美咲が今日は休もうと言ったので、約束通り放課後美咲の家に行って軽食を振る舞ってもらった。
美咲とて点数を稼いだことに驕っていたわけではない。ナツキの身体に休息を与えるためだ。ボディメンテナンスにはマッサージやストレッチだけでなく筋肉の休息も含まれる。無理をしては木曜からの三日半、もたないかもしれない。美咲の性格上、気遣っていることなど直接言えるわけもないのだが。
そんなこんなで今日、木曜日。
ナイフは小回りが利く一方でリーチがなく攻守ともに選択肢が限られる。そこで、スポーツショップで買った剣道用の布袋に入れて自宅から木刀を持って来た。やはり相手の能力に応じて何の武器を使うか選べる方が戦いやすい。夕華から隠れるように学校にまで持ち込んだ苦労も報われるというものだ。
「ねえ暁。あんた甘い物好きよね。いつも私の家でばくばくお茶菓子食べてるし」
「人を食い意地を張っているみたいに言うな。あれはお前が食べきれないって言ったから……」
「クスクス、わかってるわよ。ちょっとからかっただけ。でね、その……昨日の夜にクッキー焼いたらちょっと多く作りすぎちゃって、食べに来てくれない?」
「あれだけ食いきれないほど高級な菓子類が家に溜まってるのになんでクッキーなんか焼くんだよ……」
「う、うっさい! ちょっと昨日はそういう気分だったのよ。それで来るの? 来ないの?」
「喜んで行かせてもらおう」
安心したようにホッと一息つく美咲。できるだけ冷めないようにと朝早起きして作った甲斐があった。
作りすぎた? 昨日の夜? 全て作り話である。ナツキに食べてほしい一心で、或いはナツキを家に呼ぶ大義名分を作りたくて。
もちろん美咲はそんなこと正直には言わないし、ナツキも突っ込んで聞くようなことはしない。
今は温かいコーヒーのことだけを考えよう、そう言い聞かせて二人は並んで家に向かった。
〇△〇△〇
「スピカはとことん運がない。いいや、これも血なのかな……」
星詠機関ジュネーブ本部ビル。その一室でシリウスは部下から送信された報告書を読み終えてタブレットを机に置いた。
スピカが拿捕した犬塚という三等級の能力者。諜報部によって情報を抜き取るためにアラスカ支部へと運搬されていた途中、何者かに襲撃されて脱走したという。報告書の最後には周囲の足跡などの証拠から下手人は浮遊、飛行、転移、いずれかの能力者ではないかと部下の私見が書き添えられていた。
「まあそうだろうね」
思案顔のシリウスは顎に手を当てしばらく考えると、机上にある固定電話を手に取った。
「もしもし。私だ。北斗を呼ぶことはできるかい? そう、バージニアの狂犬のね。……ああ、わかっている。でもまだ正式な籍は日本支部じゃないだろう。それに彼女なら国境なんてあってないようなものじゃないか」
ガチャリと受話器を置き。溜息をつく。
「こういうのは専門家に任せた方がいい。私も私なりにあたりはつけているが……。いっそハダルに丸投げしてしまおうか?」
頭脳労働は自分より彼女の方が得意だろう、という見立て。そして自分自身の手を煩わせるほどのことでもないだろうという組織の長としての判断。
(それに今はもっと大きなものが動いてる。今はそっちに集中させてほしいものだ)
〇△〇△〇
水曜日
黄昏暁(田中ナツキ):一二〇→一一〇
雲母美咲:一〇九→九九
木曜日
黄昏暁(田中ナツキ):一一〇→一二〇
雲母美咲:九九→一〇九
ブックマークしてくださった方、ありがとうございます!