第7話 アルカンシエル
感想やブックマークよろしくお願いします! あと数話で主人公と会う予定です! あらすじ詐欺には絶対しません。
バーバラは一目散に走り始めた。もはや後ろは振り返らない。
結果的にこうして現在スピカに背中を向けていることに後悔はない。あるとすればその判断が遅れたこと。恥も外聞もかなぐり捨てて、どんなに無様でも、這ってでも逃げるべきだった。どう立ち回るかなどといった思考の時間さえ惜しんで真っ先にそうしなければならなかった。小細工も抵抗も命乞いも時間と労力の無駄。圧倒的な強者には勝てやしないのだ。
とにもかくにも。いまさら自分の浅陋を呪っても手遅れだ。今はただ走ることだけを考える。意識は自分の足にだけ向ければ十二分。この場を離れて人込みにでも紛れることができれば……。
「美しくないわ」
だがしかし。希望は一瞬で砕かれる。
「愛、名声、富、誇り。何でもいいから、自分が本当に大切にしているもののためなら死んでもいい。死んでもそれを守ってやる。死んでも相手に一矢報いてやる。そういう気概はないの? 気高く美しい精神を持たない人間なんて……そんなのただの獣じゃない」
発砲騒ぎのため周囲の歩道や店舗にはもう誰もいない。マンハッタンの一画とはとても思えないほどの、不気味なまでの静寂。スピカはつまらないものを見るような視線を送る。
ズシャ、と肉の切れる湿った音だけが響いた。
「水ってね、ウォータージェットっていって金属の加工にも使われているの。だからなんというか、極限まで圧縮した水を射出すればそういう風になるのも自然よね」
バーバラは倒れこんだ自身の身体を腕の力で起き上がらせて、ゆっくりと自分の足を見た。
なかった。
足首より下に、何もついていなかった。
「どうせ逃げることしかしないなら、せめて潔く命乞いでもしてくれたら綺麗な身体で捕らえたのに。ああ、ごめんなさい。あなたたぶん財団の人間よね。だったら無理か。きっと私は意味もなくあなたを傷つける」
憐憫はたちまちに消え去った。スピカは深い海を思わせる瞳で芋虫のように這い蹲るバーバラを見下ろした。
スピカの隣では水の龍が表面をゆらゆらと揺らしながら宙に浮いている。龍の口から放たれたわずか数ミリリットルの水がバーバラの肉を削ぎ足を切り落としたのだ。
彼女の操る水分か、或いは自分の血液だろうか、薄暗くよく見えないなか水浸しになった床にバーバラは片手を突いて起き上がった。緑色の瞳でスピカを睨みつける。失血のせいで銃を握る腕はガクガクと震えている。それでも最後の力を振り絞り銃口を向けた。手ブレもリコイルも自身の微弱な重力操作で制御できるはずだ。無理な姿勢からでも、せめて当てるだけなら……!
パンッ!
再び乾いた銃声が弾けた。だが苦し紛れの弾は届かない。
同じ距離で競うとして、とスピカは前置きし、
「どうして水泳競技のタイムが陸上より遅いのかご存知?」
スピカの前には厚さ二十センチほどの透明な水の壁ができており、その中で、威力が吸収された銃弾が浮いている。弾道を示すようにスクリューが水壁の中に出来上がっていた。
「安心しなさい。殺しはしないわ。まあ、どういう扱いを受けるかは知らないけど」
スピカが水壁に指を入れ静止した銃弾を摘み出すと水壁は形を崩して元の水の龍に合流した。
「行きなさい」
スピカの指令に応じるように水龍が襲い掛かる。店内を貫通するほど大きな水龍が彼女を喰らわんと口を大きく開けて迫り来るのをバーバラはどうすることもできずに見つめた。彼女の貧弱な重力操作能力ではこれだけの質量の水を床に叩き落すことはできず、できたとしても水龍を床に縫い付けておくにはこちらに向かう運動エネルギーさえも御しきらねばならない。
逃げる足も武器の拳銃も自分だけの異能力も、何もかも通じない。まさに八方ふさがり。バーバラは静かに目を瞑った。
水龍の激流がバーバラを丸呑みにする。もちろんこれは本物の龍ではなく水の塊でしかない。水龍の一部はバーバラを包み込むように球の形をなし、残った分は店の壁にぶつかって離散し、あたりをびしゃびしゃにしていった。直径三メートルほどのその水の球の中心でバーバラは仰向けに寝かされている。
「案外酸素が溶けているものなのよ。だから死にはしない。魚のエラ呼吸と一緒の理屈ね。私なら濃度の調整もできるし」
バーバラは朦朧とする意識のなかで、水の牢獄越しにスピカを見つめた。光が屈折し輪郭もはっきりと見えない。
(服飾のお店……結構楽しかったんだけどな…………)
それを最後にバーバラは完全に意識を手放した。
対象者の殺害という点でスピカが能力を最も効率的に活用した場合、この戦闘は一秒もかからず彼女の勝利という形で終結していただろう。しかしこれは虐殺が目的ではない。
ネバードーン財団が派遣している諜報員を捕縛し情報を抜き出すことが今回のミッションである。故に、銃弾をわざわざ躱したり能力での攻撃をあえて反撃に利用したりして最大戦力がことごとく無駄であると相手の意識に刷り込み、最終的に視覚的に迫力のある能力の使い方をすることで心を折った。
(最も恐ろしいのは強大な能力者じゃない。たとえ弱者でも、まるで超新星爆発みたいに死に際で人生最大の輝きを放つ人もいる)
日本にあまり縁がないスピカは知らないが、かの国では『火事場の馬鹿力』『窮鼠猫を噛む』という言葉がある。死に直面し覚悟を決めた者は強い。何度も能力者と戦闘してきた彼女はそのことを経験的に理解していた。
その場しのぎの離脱や逃走を嫌い、内面や思考の美しさという珍しい価値観を持っているスピカにとっては能力の大小など実のところ些末な問題なのだ。
恐怖を飼いならし敵に立ち向かう心意気、隙を見つけ出す冷静な理性、それらを元手に一発大逆転を起こそうという強かな精神。彼女が尊び、愛し、それ故に警戒するのは突き詰めればそういった内面の部分ということになる。
(だから私は慢心しない。一手一手確実に追い詰める。覆り得ない戦況を整える)
チェスや将棋の世界では一流の棋譜はそれ自体がひとつの芸術品として評価される。彼女の戦い方も今回はそれに近かった。店に入った瞬間から、脅すように発した言葉も説明じみた喋りも一足単位で調整したあらゆる位置関係も全てが最後に自分が圧倒的に勝つための布石。
白銀の長髪をなびかせながらスピカは店を出て、携帯電話でミッションの完了を報告した。直にバーバラを連行する護送車と自分の迎えの車が来るだろう。
スピカは青い瞳で歩道の消火栓を見やる。依然激しく空へ水を吹き出しているその場所にむかってそっと手をかざすと、徐々に水流の勢いは弱まっていき、とうとう雫ひとつ残さず止まった。そして道路に架かった小さな虹をスピカは懐かしむように眺めるのだった。