第65話 白兵戦で引き付けて
美咲がいつもの調子に戻った。それを確認し、尋ねる。
「美咲、能力の射程はどれくらいだ?」
「射程?」
「ああ。音の増幅。それは美咲からどれくらいの距離の音源まで対象にできる?」
おおよそ見当はついている。旧校舎で戦った際に天井に設置されたスピーカー。美咲の身長が一五〇センチメートルだとして、天井まで二メートルほど。他にも、窓から降り注ぐ雨水は美咲の立っていた位置から三メートルほど。
そして美咲は夏馬の発する音に能力を用いておらず、ナツキと美咲の二人から夏馬までの距離は常時五メートルは空いている。
ということは、ざっと三メートルくらい。
「正確に測定したことはないけど……たぶん三、四メートルってとこね」
「やっぱりそうか。……奴は俺が射程圏内に引き付ける。そしたら何か目立つ音を出すから、能力を使ってくれ。そうだな……音叉と同じ四四〇ヘルツのラの音にしよう。それなら俺でも一発で音を出せる」
「ちょ、ちょっと待って。それじゃああんたが囮になるってことじゃない」
「そうだな」
「そうだなって……」
「でも得点を稼いでおく必要があるんだろう?」
「……ええ」
「ククッ、だったら決まりだ。なに、気にするな。俺はもうお前に十点やってるからな。もろとも吹き飛ばされても点は減らん。もしも危険だと思ったら家に戻れ」
法を犯してはならないというルールがある以上、美咲がすぐ後ろの自宅に入ってしまえば夏馬はそれ以上攻撃できない。不法侵入になるからだ。しかし相手に飛び道具がある。みすみす背中を見せるのは撃ってくれと言っているようなものだ。
だがナツキなら最低限美咲が逃げる時間くらいは稼げるだろう。つまり、美咲にとってはナツキの囮役がうまくいけば加点でき、うまくいかずとも無失点で済むという美味い話でしかない。
でもそれはナツキという囮の犠牲で成り立っている。何か言いたげな美咲を振り切るようにナツキは夏馬のもとへと駆けだした。
〇△〇△〇
(おいおい、ありゃ何だ。能力もなしに……)
雑木林の一本の木、そのてっぺんに、一人の若い男が立っていた。歳の頃は二十代半ばか三十代前半といったところか。左手首にはナツキたちと同じスマートウォッチがつけられている。そう、この男もまた実技試験参加者の一人だった。
彼は橙色の眼で双眼鏡を覗いていた。彼自身は依然として得点の下位半分なので、得点を稼ぐには地図に位置が表示される上位半分を襲うしかない。そして偶然、比較的近くのエリアで二つの赤い点が接近しているのを確認した。間違いなく戦闘が行われている。この男は負けた方に追い打ちをかけて楽して得点を稼ごうとしていた。要はハイエナ行為。
もちろん自身も参加者だとバレたら勝った方に狙われるので、ハイエナ行為といっても誰もが無傷でできるわけではない。しかし、幸いにしてこの男には逃げ足があった。能力である。
そもそも木のてっぺんにいることができるのもそういう理由。橙色の眼は六等級の証。彼の能力は、『およそ十秒間だけ壁や天井を歩く』というものだった。
生活が苦しく万引きや強盗を繰り返し、警察に追われる中で運悪く転落死しそうになった。そのとき発現したこの能力によって男は今もこうして生きている。
さて。現在ハイエナ目的で高い場所から監視しているこの男が見ているのは、一進一退の攻防を繰り返す二名の男性だった。片や浅黒い肌にスキンヘッドで図体の大きな男、片や学ランの少年。夏馬とナツキである。
ナツキはポケットから愛用のバタフライナイフを取り出し、逆手で握って夏馬に振り下ろす。
ナイフ攻撃の基本は身体をコンパクトに使うことにある。大振りしてしまうと武器のない無防備な部分を狙われるからだ。ナイフを握っていない部分は素手と変わらない。
にも拘わらずナツキのナイフ術はいやに大振りだった。
(そら見ろ、あの夏馬誠司とかいうデカブツの剛腕がとんでくるぞ)
戦いの素人であるその男でも予期できたこと。タンクトップから伸びる丸太のような腕がナツキに向けて放たれる。が、しゃがむことでギリギリ回避。ナツキの頭上を腕が通り抜けた。
ところで、この男もまた夏馬の名を覚えていた。あの自信、あの体格、あのオーラ、前回見かけたときと今回目の前で行われている戦闘を踏まえ、男は十中八九ナツキが負けると読んでいる。
(ありゃシャバの人間じゃねえよ。俺も人様に顔向けできる人生は送っていねえが、あの夏馬って男は格が違ぇ。何人かヤっちまってる顔だ)
軍か、傭兵か、民間軍事会社か。そんな相手に、見るからに子供であるナツキに勝ち目があるはずがない。と言っても刃物を持っている以上は夏馬とて腰に提げているクロスボウに矢を番える時間的猶予は与えられないだろうが。それでも、そもそもナツキのナイフ──それも耐久性の低いバタフライナイフ──で夏馬の筋肉の鎧を貫けるのかも怪しい。
(ほう、どうやらアレが夏馬の能力か……。俺も他人のことは言えねえが、能力の方は弱いな)
ナツキが姿勢を低くしナイフを振り上げる。身体をねじって躱した夏馬は低い位置にいるナツキに拳を叩きつけようとするが、ナツキは地面スレスレにまでさらに体勢を低くし、回転して踵で夏馬の足を払う。そのままの蹴りでは体重差のある夏馬を転ばせることはできないので、筋肉が存在しない関節、膝裏を狙う。
あえて避けることはせずナツキの大外足払いを受けた夏馬は地面を転がりナツキから遠ざかりながら、黒煙をまいた。
(なるほどな。これで時間を稼げばまたクロスボウは使えるのか)
ナツキはバックステップを踏み黒煙の中から抜け出した。視界が三六〇度塞がるリスクよりも、相手から遠ざかってでも情報を得やすい状況に身を置いたほうがいい。
そして黒煙を貫くように、猛スピードで矢が飛んできた。
高い木の上から双眼鏡を用いて俯瞰しているこの男は夏馬が矢を番える様子も放つタイミングも見えていた。
が、左右や背後は開けているとはいえ目の前に黒煙が広がり夏馬の動向がまったく掴めないナツキには対処の術はないはず。それなのに。
キンッ! という甲高い金属音が男いるところにまで響いた。
(嘘だろ……バケモンか……黒煙を抜けて矢が見えてから一メートルくらいしかないのにナイフで弾くのかよ……)
さすがに眼の色まではよく見えないので、その男は『きっとあの少年の能力は動体視力強化か動体反応か何かなのだろう』と判断した。でなければ、そこらへんの中学生がこんな超人技を繰り出せるわけがない。
それに今戦っている二人は自分と違って得点の上位半分なわけで。きっとあの少年は強大な能力を持っているに違いない、と考える方があまりに自然だった。
夏馬が脚力のみで距離を詰める。夏馬の正拳突きをナツキは合気道よろしく腕の側面を軽く押していなした。しかし夏馬もすぐさま身体を回転させながら勢いをつけて逆の手で裏拳を放つ。頭を下げて避けるナツキ。その隙を利用してナイフで斬りつけようとしたナツキの手首を掴んだ夏馬はそのまま投げ飛ばす。
空中で一回転し体勢を整えたナツキが難なく着地した。
改めて空いた距離を再度夏馬が詰め、また拳とナイフの応酬が再開した。
(おいおい、これ能力者の試験だろう……。なんでただの肉弾戦でこんなハイレベルな戦いをしてるんだよ……)
現場を俯瞰しているその男でさえ、二人の白兵戦を完全に眼で追い切れているわけではない。ナツキと夏馬、二人の一瞬の隙を狙い合う攻防は殴る、躱す、斬りつける、躱す、殴る……と繰り返しているだけなのだが、まるで詰碁のように互いに無駄なく最善手を打ち続けている。
それでも。
(やっぱり夏馬の方が徐々に押してるな……)
少しずつではあるのだが、ナツキは追い詰められ、後退させられていた。
何度か、何十度かの拳とナイフの打ち合いの末、夏馬の拳を手首に受けたナツキはナイフを手放してしまう。
勝負あった、その男はもちろん、実際に相対している夏馬も確信した。夏馬は今までにないほど深くナツキの間合いに踏み込む。千載一遇の好機。
それなのに、ナツキは笑っているばかりか、突然グッと手を握って親指を突き立てている。まるで誰かに合図するかのように……。
その男が目にしたのは、ナツキが口を開いて声帯を震わせたその瞬間。距離があるためその男には聞こえないが、間違いなくナツキは何かを言った。
「嘘だろ……」
これまで音も立てずに見張っていた男が思わず漏らす。
夏馬とナツキの二人は、まるで爆発に巻き込まれたかのように吹き飛ばされる。いいや、文字通りに空気の爆発。突風などというものではない。それほどの勢いで二人は吹き飛び、夏馬は自身のジープに背中から激突し、地面に倒れて動かなくなったのだった。
〇△〇△〇
言葉を選ばずに表現するのならば。
(夏馬のような本物の戦いのプロとの近接戦闘に美咲が混ざったところで邪魔なだけだ)
美咲の覚悟も心意気も本物だ。だからこそ夏馬も美咲への警戒を切っておらず、誤差程度ではあるが白兵戦をするナツキにとっては助けになっている。何かはしてくる、ただ呆けて突っ立っているのではない、という警戒である。とはいえそこまで考えられても、では何をしてくるのかというところまでは夏馬はわからない。
(だが、能力者の美咲にしかできないことがある)
ナイフを弾き飛ばされた。手首に走る激痛に顔を歪ませながらも、訪れたチャンスに笑みがこぼれる。
ここまで、わざと押し込まれるような戦いをしてきた。それもこれも、美咲の能力の射程圏内に警戒している夏馬を誘き寄せるため!
(ククッ、さあ、一発デカいのをかましてやれ!)
グッドサインを出す。振り返れないので確認はできないがきっと美咲は見ている。決意のこもったその緑色の瞳で。
ナツキは口を開く。
出す音は『ラ』、音階をアルファベットで表現した際に『A』となる最初の音、音叉にも利用され、国際的に基準として制定された音程。
「~~~~~~~~~~~」
ナツキの叫び声が美咲によって瞬く間に増幅される。池に落とした石が波紋をなすように、ナツキが空気中に放ったラの音は同心円状に広がり、増幅され、音波は一帯に均等に広がっていく。
音、すなわち空気の波は夏馬の巨体すらも軽々と吹き飛ばし、意識を刈り取った。ナツキもまた同じように美咲の横を通り抜けて美咲邸の門に衝突して止まる。
三人のスマートウォッチの画面が切り替わった。
『勝者:黄昏暁』
『勝者:雲母美咲』
〇△〇△〇
「な、なにが起きたんだ……」
その男は美咲の存在に気が付いていた。派手な赤い髪なので当然だ。だが、まさか美咲が能力者だとは、そしてナツキの作戦のカギだとは、夢にも思っていない。
「まさか夏馬とかいう奴が負けるなんてな。そ、そうだ。俺が今あそこで倒れている夏馬のところに行って、どこかに監禁でもして起きるの待てば、タコ殴りするだけで十点稼げるんだ……行かない手はねえ」
元々意識がない現在の状態で殴る蹴るをしてもこのスマートウォッチは勝敗判定をしてくれないかもしれない。でも、意識があればさすがに勝敗をつけてくれるだろう。
幸い夏馬のジープは放置されている。夏馬を乗せてどこかに身を隠し、手錠でもしておけばいい。目を覚ますと同時にボコボコにしてやればそれだけでお手軽に点数稼ぎができる。
「おっと、その必要はない」
「へ?」
突如、男の背後から聞こえる声。ここは雑木林の木の上だ。自分以外に他の者がいるわけ……。
きっと空耳だ、だって音も無く近づくなんてできるわけがないのだから、そう自分に言い聞かせながらも恐る恐る振り返る。
その男の意識はそこまでだった。
壁や天井を歩ける、その能力を使うにも意識がないといけない。無防備に落下していく。幸い木々の葉がクッションになって死にはしなかったが。
意識がないため確認できるわけもないのだが、その男のわずかな残り得点はさらに十点減らされているのだった。
〇△〇△〇
黄昏暁(田中ナツキ):九〇→一〇〇
雲母美咲:七九→八九
夏馬誠司:一八〇→一六〇
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