第53話 怒りの日
ナナとの出会いや謎の試験から一夜明け、月曜日。ナツキはいつものように学校に来ていた。カラっと晴れた昨日とは違い、六月らしく朝から雨が降ってジトジトジメジメしている。
夏というにはまだ早く、晴れの日と雨の日とで寒暖差が激しい。昨日はナナ含め街の人たちは皆半袖だったというのに、教室を見渡せば男子は全員学ランを着ている。
「はい、それじゃあ今日はここまでね。明日は次のページの例文の和訳から始めるから、きちんと予習してくるように」
チャイムが鳴るのに合わせて夕華は授業を切り上げた。四限目が終わる十二時半。窓の外を見れば依然としてザーザーと大雨が降り続いていて、普段は早弁して昼休みはグラウンドでサッカーをする男子生徒も今日は教室内に残っている。
学食や購買に向かう者、教室で弁当を開ける者、トイレへと駆け出す者、授業でわからなかった点を夕華に質問しに行く者。まちまちに教室内で過ごしている。
いつものように購買でパンを買って旧校舎で英雄と過ごそうか、と席を立とうとしたときだった。
「なあ、お前さあ、空川先生ってどう思う?」
「え、どうしたんだ急に」
ナツキの真後ろの席の男子二人の会話が聞こえてきた。ナツキは思わず座り直して会話に聞き耳を立てた。
「まあ、あれじゃね。可もなく不可もなくというか。普通の先生だろ。ただ顔が怖ぇよな、いっつも無表情でよ。何考えてるかわかんねえ。他の先生よりは厳しかないけど、別に優しくもねえし」
「はぁ~~お前なんっっにもわかってねえな。あのクールな感じが良いんだろう。いやあ三者面談のときに真正面からじっくり見て改めて思ったね。先生はとびっきりの美人だ。入学式の日から空川先生のクラスが良いと思ってたから今年はラッキーだったぜ。あの目で見つめられるとゾクゾクしちまうよ」
「お前さ、担任教師好きになるのはやべえって。てか、俺は中間悪すぎて三面のことは記憶から消したわ! 帰宅してからもお袋の小言がぐちぐちうるせぇしよ」
「へっ、俺は空川先生のクラスって決まった四月から猛勉強してたからな。今回の中間はかなり良かったよ。それでさ、先生が俺を見つめて言うんだよ。『今回はよく頑張ったわね』ってさ!」
ナツキは不機嫌そうにその会話に耳を欹て続けている。
(フンッ、その程度が何だ。俺は家に帰ればプライベートの夕華さんを見ることができるんだ。ククッ、俺の勝ち!)
一体何を張り合っているのか。
ところで、今回の中間テストは退院から間もなく、首席の座を狙う者も多くいたが結局は一年生のときと同じようにナツキが全教化満点で学年首席を維持していた。ナツキは二人の男子生徒の会話を聞いて、内心、『だったら自分も夕華さんに褒めてもらおう、なんなら頭を撫でてもらおう』などと画策している。
「それによ、見てみろよあの身体。すらっと背は高くて痩せてるのに胸は大きいしケツも脚もむっちりしてて興奮してこねえか?」
「いやだからさ、お前、いくら学校で一番若い女の先生だからってそういう目で見るのはやべえって」
真面目そうな女子生徒に英語の質問を受け、黒板も使いながら説明をしている教壇の夕華。彼女に熱い視線を向けながら二人の男子生徒は会話を続ける。
「髪も綺麗でさ、すれ違うときめちゃくちゃ良い香りするよな。どんなシャンプー使ってのかなぁ」
(ククッ、俺は使ってるシャンプーを知っているぞ! 何せ一緒に暮らしているからな! やはり俺の勝ち!)
本日二度目の勝利宣言。だから一体何を張り合っているのか。
女子生徒の授業の質問は終わったのだろう、夕華にお辞儀して席に戻っていった。そして自分に向けられる視線に気が付いたのか、夕華は教科書やプリントを整理しながらナツキたちの方をチラリと見る。
ほんの一瞬の間、ほんの少しだけ。
ナツキと目があった夕華は微笑んだ。
「おい、今の見たか!? 俺に向かって笑ったよな!? あのクールビューティーな空川先生が!!」
「ほんとか? いつもと変わらねえじゃねえか」
(違う。貴様らが俺の後ろの席にいるからそう感じるだけだ。間違いなく夕華さんは俺を見ていた。絶対にだ。よって俺の勝ち!)
本日三勝目。
「空川先生ってやっぱ彼氏いるんかなぁ」
「指輪はしてねえから独身だろうけど、さすがに恋人の一人や二人いるだろ」
「アホ! 恋人が二人いてたまるか! でもそうだよなあ……。あんなに綺麗なら恋人くらいいるよなあ……」
「え、お前そんなにガチなの?」
「ああ! マジのガチだよ! あわよくば空川先生とお付き合いしたいなあ、なんて……」
ナツキは自身の脳みそが沸騰するのを感じた。たしかに夕華はとびきりの美人だ。それは世界の誰よりも自分が一番よくわかっているという自負がナツキにはある。だから、こんな風に生徒の中に許しがたい懸想を抱く者が出てくるのも無理からぬ話。
(ククッ、それを俺が許すわけないだろう。夕華さんに恋心を持つまでは、まあいい。いや、それもよくないが。だけどな、付き合おうとするのは絶対にだめだ。この俺が許さん。最後の審判、怒りの日)
ナツキは席を立つ。
(少し痛い目を見てもらう必要があるな。こいつがいつ夕華さんに襲い掛かるかわからん。欲情した思春期のサルはこの俺がきっちり調教してやろう、二度と夕華さんに邪な感情を抱かないように……)
と、眼帯に手をかけたときだった。
「ダメだよ黄昏くん」
「英雄? どうしてうちの教室に……」
ナツキの手首をがしっと掴んで眼帯に触れさせまいとしたのは英雄だった。
クラスこそ違うが、ナツキにとって唯一の対等な友人、結城英雄。
ただ、私服を見て以来どうも学ラン姿に馴れない。どこからどう見ても、なんなら声を聞いても肌に触れても、美少女でしかない。が、英雄は男である。
英雄は真剣な顔でナツキを見つめて言った。
「今、黄昏くん能力を使おうとしたでしょ」
(暴走したボクを一瞬で倒した一等級の能力をこんなところで一般人相手に使うなんてダメだよ!)
「あ、ああ」
(ククッ、煉獄の番人たるこの俺が漆黒の炎で彼らを焼き尽くす、もとい話し合いという名の喧嘩をしようとしていたことが見抜かれただと?)
「事情はわからないけど、やりすぎだよ。黄昏くんの能力はそんなことに使っちゃいけない」
英雄のまっすぐな眼差しを受けて頭が冷えていく。
(ハッ……! そうか、たしかにここでクラスメイトと喧嘩しているところ夕華さんに見られたら……)
少なくとも担任教師という立場上、夕華はこの場でナツキを叱らねばならないだろう。それだけではない。万が一本気で夕華がナツキに愛想を尽かして家を出て行ったら……。
たちまち顔が青ざめていく。
「ククッ、たしかにそうだな。俺の考えが浅かった。ありがとう英雄。危うく俺は大切なものを失うところだった。さすが俺のたった一人の友達だ」
「そうだよ。ボクは友達で、その、い、一生黄昏くんのそばにいるんだから……!」
(どうして英雄は顔を赤くしているんだ。体調がよくないのか?)
そんなナツキをよそに、一部のクラスの女子たちはひそひそと囁き合っていた。
「(見て、田中くんと隣のクラスの結城くんが手を握り合って熱く見つめ合ってるわ!)」
「(ほ、ほんとね! まさか二人はくんずほぐれつな関係……?)」
「(キャーー!!)」
「(キャーー!!)」
夕華は学校で友人と楽しそうにしているナツキに気が付き、愛おしいものを見るように優しく穏やかに目を細めるのだった。