第51話 今夜、ニューヨークの片隅で
後部座席で腕も足も組んで座っているスピカはトントントントンと指で肘を叩いている。
星詠機関ニューヨーク支部の職員でもある若い男性運転士はミラー越しにそんな上司の姿を見て冷や汗をかいていた。
(スピカ様、絶対なにかにイライラしてるよな……)
眉間に皺を寄せ、静かに目を瞑っているスピカの姿は女神像か何かの彫刻品にも見える。が、二等級の能力者であるスピカを怒らせたらどうなるか運転士の男はよくわかっている。まるで核弾頭を運搬する戦闘機の気分だ。
思わずハンドルを握る手に力が入る。彼が運転するのは支部の予算で買った黒いトライシェビー。一九五〇年代にアメリカで販売された、いわゆるクラシックカーだ。
とはいえ、内装の広さはもちろんエンジンを始めとした性能部分は大幅に改造されている。当時とは段違いの馬力は安定して時速百キロ近い速度を出し、それでいて車体にほとんど揺れはない。この快適な運転が自身の技術ではなく車体性能であることは当の運転士本人が一番よくわかっていた。
車内に緊張感を湛えながら、ちょうどブルックリン橋に差し掛かった。
ニューヨーク州ニューヨーク市は五つの行政区にわかれている。ブルックリン区、クイーンズ区、スタテンアイランド区、ブロンクス区、そしてマンハッタン島で知られるマンハッタン区。
ブルックリン橋はマンハッタン島とブルックリン区を繋ぐ全長二キロ弱の吊り橋だ。
午後十時をまわり、ブルックリンの星空とマンハッタンのビルの夜景が橋の上で交差する。スピカは窓の外に目をやり、きらきらと光を受け止める昏いイースター川を眺めている。
(なんだかアカツキの近くに女の気配がする……)
そう。スピカの不機嫌の原因は、遥か一万キロ先にいるナツキのこと。これは特殊な能力でもなんでもなくただのスピカの女の勘だ。時差があるので日本は昼頃。実際、まさにこのときナナがナツキの額に口づけをしていた。
不安定な精神状態はこの後の仕事に支障をきたす。
現にイースター川の水が自然な流れに反して渦や荒波を作り始めていた。明らかに橋の高さを超える波やボコボコと泡立ちながら噴き上る水柱がサイドガラスからチラチラと見えていて、運転士は『えぇ……』と内心半泣きになっている。自分のような低位の能力者にスピカを鎮めるためできることはない、と橙色の眼に涙を浮かべながら。
ミラーの中で運転士と目があったスピカは彼の様子に気が付き、ばつが悪そうに自身の能力を抑え込んだ。意識的に邪念を振り払う。
(私らしくないわね、嫉妬なんて。美しくないわ。恋敵を引きずり下ろすなんて考えちゃダメ。まして見えない誰かが相手。ただ私は私を高めて、磨いて、ありのままの私らしさでアカツキに振り向いてもらうしかない)
口に出しはしないし、相談できる相手もいない。かといって心の中で再確認するような野暮なことはしない。しかしスピカはこれが恋という初めての感情なのだと、もうわかっていた。
マフラーと腕の包帯がたなびく眼帯の少年の姿がスピカの脳裏に浮かぶ。
生まれて初めての恋。必然的に、生まれて初めての嫉妬。
溢れ出し、渦巻く、たくさんの初めての気持ち。自分自身でもどうやって向き合えばいいのかがよくわからないのだ。
憂うスピカ様の姿も美しい、と運転士を魅了しながら、車は橋を抜けマンハッタンの繁華街へと消えていった。
〇△〇△〇
バーではフリーの演奏家たちが自分の腕を存分に振るっていた。ピアニストとドラムを中心に、トランペットやサックスのような金管、さらにはアコーディオンにウッドベースまで。客たちは酒を飲みながら、或いは睦言を囁きながら、また或いは何かを忘れるように、ジャズ音楽をバックに皆おもいおもいの時間を過ごしている。
ポマードで固めたブロンドの髪に無精髭。店主であるそのバーテンダーは両手で握った銀色のシェーカーを小気味よく振ってカクテルを作っていた。
オレンジ色のライトでぼんやり照らしているだけの暗い店内の中でも、カウンター席だけはバーテンダーの後ろで飾られている様々なアルコール瓶を通して色鮮やかな景色だ。
バーテンダーはシェーカーを開けてカクテルグラスに注いでいった。
「どうぞ」
スピカは差し出されたグラスを持って、綺麗なカクテルを見つめる。彼女が頼んだのはイタリア発祥の甘酸っぱいカクテル、カンパリオレンジだ。カクテル言葉は『初恋』。今の自分に相応しいだろう。
なぜスピカはバーになど訪れたのか。彼女の目的は、奥のソファ席にいる連中だ。
いくつかあるソファ席の中でも特に広く大きな、いわゆるVIP席。
そこには、薄くグレーのストライプが入った純白のスーツを着、生活に不便だろうと思わざるを得ないほどゴテゴテとした金色のアクセサリーを指や首にじゃらじゃらとつけた男が座っていた。チラつく前歯も一部が金歯になっていた。はだけたドレスの女をソファの左右に侍らせ、背後にはサングラスをかけた筋肉質な男が二人ボディガードのように立っている。
叩けばいくらでも埃が出てきそうだが、そちらはスピカたち星詠機関ではなく州警察の領分である。
スピカが見ているのは、正確にはその派手な男とテーブルを挟んで向かいに座る、白髪交じりの老年の男性だった。年齢の割に背筋はピンと伸び、格好こそ地味なスーツだが身に纏うオーラは重苦しく禍々しい。紳士と戦士、その両側面を兼ね備えていた。
スピカは彼らの会話に耳を澄ます。金ピカ白スーツ男が品のない大きな声で喋り始めた。
「あんたがこの国でナンバーワンっていう傭兵会社か?」
「カッ、傭兵なんて大層なもんじゃないさ。老いぼれがちょっと用心棒をごっこをしているってだけだ。まあ最近じゃうちの会社にも若ぇもんも集まっちゃいるがな」
「あんたらの事情には興味ねえ。オレが聞いたのは金さえ積めば力を貸してくれる連中がいるってことだけだ。で、どうなんだ。あんたらは大金を積むだけの価値があるのか? 答えろ」
「そう生き急ぐなよ若人。答えばかりを求めても道を見失うだけだぞ。遠回りをしていく中でこそ本当の、」
「うるせえなァァァッッ!」
金ピカ男はスーツのポケットから拳銃を取り出して、ダンッ! とテーブルに片足を置き身を乗り出して頬にグリグリと銃口を突き付ける。
老紳士は表情ひとつ変えずに金ピカ男を見つめる。睨むでもなく、怯えるでもなく、その紫色の瞳でただじっと。
「オイ兄ちゃん、そんな物騒なモン持ち歩ける自由に感謝しな」
そう言うと、ピキピキ……と音を立てながら、黒い銃口に霜が張り真白になっていく。霜はますます厚くなり、固くなり、氷となっていく。半透明な氷が、銃口、リボルバー、引き金と順々に覆っていく。
「ヒイィッ!?」
氷が銃だけでなく金ピカ男の指や手にまで到達しようとしたとき、間抜けそうな声を上げた。
背後に立つボディガード達も主が危険な状況にあることを理解し銃を取り出そうと内ポケットに手をつっこんだが、金ピカ男は空いた手で部下たちを制した。
「す、少しビビっちまったが、ヘッ、噂に聞いていた通りだったぜ。本物の異能力者がこの世界に実在するってな」
「お分かりいただけたか?」
「ああ。充分にな」
バリンと音を立てて氷が割れ、銃と手が解放される。凍り付き冷え切った手を温めるように息を吹きかけながら手首の先をぶんぶんと振る。
「いくらだ? 言い値を出してやる」
「ほう。こんな手品に言い値を出すたあ余程デカいドンパチが喫緊に迫ってんだな」
またもやすぐに答えない男の様子に一瞬イラつきを覚えたが、ここで喚き散らしてもさっきの氷漬けの二の舞。ぐっと堪えて返答する。
「ああ。ちょいと大陸系のマフィアがウロチョロし始めててな。マンハッタンはオレらのシノギだ。勝手は許さねえ。だが……あいつらはカネにものを言わせて人と武器だけは大層なもん揃えてやがる」
「なるほど。それでこんな野良の老犬に助けを乞うってわけか。……嬢ちゃん、聞き耳を立てるなんてマナー違反ってやつじゃねえか?」
しゃがれた渋い声がカウンター席のスピカにかけられる。
スピカはグラスを持ったままカウンター席を離れ、歩いてソファ席に向かう。
「失礼したわね。でもあなた、ずっとこの下品な人と話しているんですもの」
「そりゃ嬢ちゃん、こいつぁクライアントだ。若造だが俺にきちんとアポを取ってここに来た。他に誰と話せってんだ? ん?」
「じゃあ私とお話ししましょうか」
「ちょ、ちょっと待て! テメエ、横からズカズカと何様だ。こいつの知り合いか?」
「いいや、俺にこんな綺麗なレディの知人はおらんよ」
「あら。それはどうも」
「オレはマランツァーノファミリーのボスとしてメンツを立てなきゃなんねえ。交渉に茶々入れられてハイそうですかとはいかねえんだよ。まあ、テメエはコイツらより上玉だからな。そのダセェ黒服脱いで裸で頭下げるってんならこの場の態度は水に流してやる」
そう言ってソファの背もたれに身体を預けている金ピカ男は左右に侍らせている二人の女性の肩を抱き胸を揉みしだいた。
権力を振りかざしながら下劣な発言をしている金ピカ男本人はもちろん、金と力に尻尾を振り女として劣っていると言われても平気な顔でいる左右の二人に対しても、スピカは嫌悪感を抱いた。
きっと彼は今までも権力にものを言わせて欲しい物、者を手に入れてきたのだろう。
あえて無視しスピカは話を続けた。
「民間軍事会社ダイイングドッグ代表のムタ・イヌヅカね。私は星詠機関の」
「スピカ、だろう? 二十一天の一人が俺に何の用だい」
「あら、私のことは知らないんじゃなかったの?」
「知人じゃあねえだろう。俺が一方的に知ってるだけだ。能力者の界隈で星詠機関の有名人を知らん奴はいねえからな。特にやましいことしてる奴らはそりゃもう詳しくお前たちのこと調べてるぜ」
「それはあなたのこと?」
「かもな」
「テメエら! オレを無視して話を進めるな! おい野良犬、最初の仕事だ。この女を捕まえろ。できるだけ傷つけずにだ」
「二等級相手に三等級の俺がハンデ戦ってのは厳しかねえか?」
「いいえ。対等よ。私もあなたを殺すつもりはないもの。投降してくれたら怪我もさせない」
「ほう、言うじゃねえか嬢ちゃん」
ムタ・イヌヅカこと、犬塚牟田はソファに座ったまま掌をスピカに向ける。そこに三十センチメートルほどの氷柱が形成され、スピカに向けて放たれた。
スピカは咄嗟にしゃがんでこれを回避する。白銀の髪がひらりと数本待った。それだけでどれほど高速で発射されたかうかがえる。実際、氷柱はスピカの後ろの店の壁に深々と突き刺さっていた。
そのまま低い姿勢からスピカはカクテルをグラスごと放り投げた。スピカの青い瞳が薄く光る。
オレンジ色の液体が宙にばら撒かれ、薄い円盤のような形になって犬塚を襲った。腕を切り落とさんと彼の肩めがけて。
「ったく、俺を捕まえに来たのが相性の良い嬢ちゃんで助かったぜ」