第50話 食べ物で遊ばない
ナナがナツキに手をかけようとしたそのとき。
ブゥゥゥゥゥン! ブゥゥゥゥゥン! ブゥゥゥゥゥン!
マナーモードにしていたナツキのスマホが振動した。電話に出たナツキの表情は出会って間もないナナでもわかるほど明るくなる。
「もしもし。どうかしたのか? ああ。いいや、よくわからん。今度姉さんに尋ねてみることにするよ。そうだな……何かの試験のようなものだった。ああ。ああ。ククッ、俺を誰だと思っている。そうだな。ああ。何、夕飯? そうか。わかった。じゃあジャガイモは俺が買って帰ろう。ジャガイモのないカレーはランスロットのいない円卓のようなものだからな!」
(電話の相手、誰だろう。あんなに嬉しそうにしちゃってさ。母親?)
ナツキとハルカの両親はナツキが幼い頃に亡くなっている。が、ハルカにとって親の存在は別に大きいものではなく、家事も夕華が手伝ってくれていたため困ったことはなかった。葬式すら開いておらず自宅に仏壇もない。
そうなると、ハルカがわざわざ親がいないということを友達のナナに伝えているわけもなく。だからてっきり、夕飯の話をしているのは親なのだろうと判断したのだ。
「ああ。わかった。今ちょうど終わったから夕方には帰れる。ああ。ああ。じゃあ切るぞ。……もう子供じゃないんだから電車くらい平気だ。うん。ああ。大丈夫だ。心配しすぎなんだよ、夕華さんは」
ナナは火照った頭が一気に冷たくなるのを感じた。
電話越しに言葉では鬱陶しがっているナツキだが、会話中の顔がよく見えるナナにはナツキがまんざらでもないことが、それどころか夕華と喋っているこの時間に深い愛情を持っていることがわかってしまった。
じゃあ、と言って電話を切るナツキ。
「ナナさん、その、もう一度改めて謝らせてくれ。申し訳な……」
「いいよいいよ! アンタの反応が面白いからちょっとアタシも意地悪したくなっちゃってね!」
ナツキの謝罪の言葉を遮るようにバンバンと肩を叩く。
「ほら、待ってる人がいるんだろ。急いで帰ってやりなよ」
「ナナさんがそう言うなら……」
よくわからないが、もうナナに怒っている様子はない。それを見たナツキは席を立ち出入口の扉へと歩いていく。
その後ろ姿を眺めるナナの身体はどこか小さく見えた。
(アタシは馬鹿だ。アタシの大事な友達の弟で、アタシの大事な友達のことが好きな男。そんな子を自分の欲望で独り占めしようとして……。暁の幸せなんて何も考えてなかった)
ナナは自分の身体を縛り戒めるように腕で逆側の二の腕をきつく押さえた。胸の疼きを閉じ込めようと。
ドアノブに手をかけたとき、ナツキは振り向いて言った。
「なあ、ナナさん、また会えるか?」
「え?」
「今日一日、いいや、半日くらいか。ナナさんには世話になったからな。ククッ、それに俺はナナさんみたいに自分らしさを大切にしている人が大好きなんだ」
はにかむように笑いながら告げるナツキ。そのときの笑顔は、さっき見た夕華と電話しているときの顔にそっくりで。
ナナは冷たくなった心がじわりと温かくなったことを自覚した。
ナツキに近づき、耳元に顔を寄せて囁く。
「ちょっとだけ、目、つぶりな」
「ん?」
言われるがまま目を閉じたナツキ。見えないが、ナナに前髪を上げられたように思う。
そしてそのとき。
一瞬。ほんの一瞬だけ、額に柔らかく瑞々しいぬくもりを感じた。
ナナの方がナツキよりずっと背が高い。前かがみになるようナツキの額に唇を軽く当てたナナは、そっと離れて言った。
「もう開けていいよ」
ドギマギしながらゆっくりと目を開けるナツキ。
「暁なら大丈夫だ。次の試験にも絶対進める。そしたらきっとまた会える。アタシ、待ってるから」
気を付けて帰りなよ、と背中をパンと押されてナツキは部屋を出た。
扉の向こうではナナが『唇と唇じゃないから今のはファーストキス的にノーカン!?』などと悶えていることも知らず、ナツキはエレベーターに乗り込み一階へ降りた。
逆方向の電車に乗り、駅前のスーパーに寄って買い忘れていたというジャガイモを買い、帰宅する。
夕陽が眩しい。沈み行く太陽を眺めながら、ナツキはなんとなく『またナナさんに会える気がする』という漠然とした予感を抱くのだった。
〇△〇△〇
「鮮血を吸い尽くせ! レーヴァテインッッ!!」
ナツキの握る刃はその物体に深々と突き刺さり、両断していく。
中からドロリと固形に近い赤い液体が垂れてきた。
「食べ物で遊ばない」
「うう……すまん」
大きな声を出しながら包丁でトマトを切っていたナツキに、鍋に火を通している夕華が注意を促す。
今日の夕飯はカレーだ。ぐつぐつと煮込まれる鍋の中にはナツキが帰りに買ってきたジャガイモが入っている。まな板の上でサラダに使う野菜を切っているナツキのところまで香ばしい匂いが漂ってきて、空腹感を刺激する。
平日は夕華が遅くまで仕事しているので夕飯はナツキの担当だが、休日は夕華が担当するか、今日のように二人で一緒に作る。その夕華の格好というと、いつもの自宅で着るグレーのスウェットの上にエプロン。ハルカが依然送り付けてきたフリフリ付きのピンク色エプロンだ。
(毎朝見ているが、飽きないな。うん。超かわいい。……ちょっと待て。嫌がりつつもこのファンシーなエプロンを着ているということは、この間姉さんが送ってきたあのメイド服も着てくれるんじゃ…………)
スカートの丈が短く胸元の開いたメイド服。おたまで鍋をかき混ぜている、学校でいつもクールな夕華がそんな服を着ていたら……。
タラ――とナツキの鼻から血が垂れ、貧血で眩暈を起こした。
「ちょ、ちょっとナツキ! 大丈夫!?」
鍋の火を止め、夕華が駆け寄って来た。フラついたところを受け止めてもらった。
「もうほとんど完成してるしリビングで休んでなさい」
「あ、ああ……」
夕華に肩を貸してもらいながらリビングまで行きソファに横になる。
頭にもちゃんと血が巡る姿勢なのでそれだけでもかなり楽になった。
「あら?」
夕華はナツキの前髪の隙間からある違和感を見つけ、ソファの前でしゃがんでペロリとめくった。
額には、赤い唇の跡。
ただ赤いだけであれば、壁か何かにぶつかったときにできた腫れを唇の形であるかのように錯覚したのだと夕華も自分に言い聞かせたかもしれない。しかし、明らかに赤いルージュに加えて艶を出すグロスもついている。自身もメイクをするからこそその色艶には見覚えがあった。
「……ナツキ、今日は誰に会ってきたの?」
「いいや、電話でも言ったが何かの試験会場だったみたいでな。なんで姉さんがそんなものを俺に受けさせようとしたか知らんが一応受けてきただけだ。特に誰かに会いに行ったわけでもないし、そもそも俺の交友関係の狭さは夕華さんが他の誰よりもよく知っているだろう」
「じゃあ聞き方を変えるわね。誰かと知り合った?」
「ああ……ええと、まあそうだな……。なんと表現すればいいか……」
「ナツキがそうやって視線を逸らしながら口ごもるのが隠し事をするときよ」
冷たく言い放った夕華に、敵わないとばかりに肩をすくめるナツキ。長年一緒にいると隠し事もできない。
結局、食事をしながら今日起きたことをざっくりと説明した。もちろん幻覚が見えたことなどは省略したが、北斗ナナというカッコいい女性に出会った、という話は、それはもうしっかりと。
「ナナに!? 驚いたわ。ハルカがナツキを外に引っ張り出すなんて何事かと思ってたけど、そう、ナナに会わせようとしていたのね……」
いや俺を引きこもりみたいに言うなよ、とツッコミを入れそうになったが、英雄という友人ができるまではたしかに休みの日は滅多に外出しないので強ち夕華の意見も間違っていないな、と情けない再確認をしてしまった。
「姉さんと随分親しいみたいに言っていたからまさかとは思っていたが、やっぱり夕華さんとも知り合いだったか」
「ええ。私とハルカ、そしてナナ。高校時代は三人でいつも一緒だったわ。私が電話したときその場にいたの?」
「ああ。だけど万が一、特に夕華さんを介さずに姉さんと知り合っていた場合気まずいことになるからな。さすがにそれは避けたかった」
「なるほどね。でも今日のことはナナにしっかりと私から問い詰めさせてもらうわ。最近あまり連絡取れていなかったし」
教師としてナツキを誑かしたことに関する厳しい顔と、旧友に思いを馳せる優し気な顔。
どちらも綺麗で素敵だと思いながらナツキは好物のカレーを口に運んでいった。