第48話 帰国ニューヨーク
──アメリカ合衆国、ニューヨーク
「スピカ様がご帰還するぞ!!」
うおおおおお、という大人数の声が建物全体を揺らす。
ここは星詠機関ニューヨーク支部。マンハッタン島のような大都会からは数十キロ離れた、内地の郊外にあるレンガ造り五階建てのこじんまりとしたビルだ。狭苦しいが落ち着きのある街並みの中でビルやアパートが密接して集まっている。
星詠機関は国際連合の一機関ということになっているが存在は公になっていない。そのためどれだけデカいビルを建てたところでその街や国に住む人々から苦情が来ることはなく、世界中の支部は大半が巨大タワービルであった。普段シリウスがいる本部ビル然り、現在ナツキがいる日本支部然り。
スピカがこのニューヨーク支部の長になった際にまず行ったのは施設移転だった。無意味に高いだけのビルは美しくない、という彼女の一声によってマンハッタンにあった巨大ビルを引き払い、活気はなく地味だが落ち着きのある街へと支部が移された。
ニューヨーク支部には老若男女能力者無能力者、合わせて五十名ほどが勤めている。全員がスピカより年齢は上になるが、二十一天のスピカより階級が上の者はここには一人もいない。要はスピカの部下にあたる職員たちというわけだ。
全部で五フロアあるオフィスから一階に集結した彼らはドアから執務室にかけて道を作るように二列に整列していた。全員左胸に手を当てている。星詠機関には敬礼のしきたりはないので、あくまで彼らが勝手に決めたものだ。
そして、ギー、という油の差されていない錆びた金属扉の開く音が鳴る。
「おかえりなさいませ! スピカ様!!」
およそ五十名の男女が一斉に声を揃えて叫ぶ。スピカは無表情のまま小さく『ええ、ただいま』とだけ言うと、職員たちが作っている道の真ん中を進んでいった。歩く度、白銀の長髪がダイヤモンドのように煌めきながら揺れる。
が、ほんの数歩のところ立ち止まり、列を形成するメンバーの一人に向かって冷たく言い放った。
「ニコラス、あなたこんなところで何しているのかしら。娘が生まれたって話していたわよね。さっさと帰ってちょうだい」
「は、はい!」
ニコラスと呼ばれた二十代の男性職員は感激に声を震わせ、列を抜けて急いで荷物をまとめて出て行った。ニコラスは娘が出来た報告をスピカにした覚えはない。あくまで同僚との休憩時間の会話で言っただけだ。そんな一職員の些細なことを覚えてもらっていたばかりか気を遣ってもらったとわかってニコラスはいたく感激していたのだ。
また数歩進むと立ち止まって別の職員に言った。
「ベッキー、あなたは明日が誕生日だったわね。ケーキは注文してあるから帰りに向かいの店に寄りなさい」
「はい! ありがとうございますスピカ様!」
ベッキーと呼ばれた女性も誕生日を覚えてもらっていたことに感激しうっとりとした表情で返事をした。
そうして何人もの職員たちに声かけしながらゆっくりと歩を進める。出入口の扉から執務室の扉までのたった約二十メートルを歩き切るまでに何分もかけて。
執務室に入り一人になったスピカは黒革の椅子に深々と身を預けて天井を見上げている。
(はぁ。全然みんなと仲良くなれないわね)
スピカなりの友好の形として少しでも他の職員たちと仲良くなろうと努力していた。できるだけプライベートにも気をかけ、全員家族のように思いやりを抱いている。
しかしスピカが努力すればするほど、ますます職員たちとの距離が開いていく。
思い出すのは、星詠機関に入る前、まだ『スピカ』の名前ではなく本名で実家に住んでいたときのこと。
スピカは実父のことが反吐が出るほど嫌いだ。そして今の職員たちのように整列して出迎えるというのは、その父に対して同じように整列して出迎えていた屋敷の執事やメイドたちの姿に重なる。まるで自分も父のようになってしまったようで嫌気がさす。
(私に下品な感情を持つ人をいないのは気持ち的に楽だけど、だからってあそこまで心の距離が開くと辛いわね……)
街の男性たちからは頻繁にいやらしい視線を感じる。主に胸部と太ももに。その点、星詠機関の職員は能力の存在はもちろんスピカが二等級という人類トップクラスの能力者であることを知っているためなのか、まったくそうした視線は向けてこない。
(やっぱり能力の等級が高いから怖がられてるのかな……)
くるくると回転する椅子の上で体育座りをしているスピカ。
(能力の等級かぁ)
先日の日本での任務で出会った、一等級の能力者。スピカはシリウスに提出した報告書に一等級の彼──田中ナツキこと黄昏暁のことは一切記述しなかった。軽く現地の能力者と協力関係を築いた、とだけ書いたので嘘はついていないのだが。
彼は身分を偽ってまで戦いから身を引いて日本で生活していた。おそらくシリウスは彼のことを把握しているのだろうが、他の二十一天の面々にまで知らせて彼の平穏を脅かすような真似はしたくない。
「アカツキ……」
思わず、彼の名前を呟いてしまう。一度口に出してしまうと一層それが愛おしく感じられた。
会いたい。はやくまた日本に行って彼に会いたい。
「よし、頑張らなきゃ」
職員たちとの人間関係など課題はなくならないが、まずは目の前の溜まった書類を片付けよう。そして急いで仕事を終わらせて、有給を取って、日本に行こう。星詠機関の職員という立場では国連に属していない日本に入るのは簡単ではないが、私人、そう、あくまで一個人の旅行としてであれば邪魔されるいわれはない。
恋する乙女は強い。椅子にしっかりと座り直し、書類の山からまずは一枚手に取って万年筆を走らせるのだった。
〇△〇△〇
「スピカ様、俺たち全員のことをよく見てくれてて立派な人だよな」
「ええ! 本当に! とってもお綺麗で、私も一人の女性として憧れちゃうわ」
「僕だってスピカ様のためなら死ねるね。自由の女神の頭頂部から飛び降りたっていいくらいさ」
「うんうん。あんな素晴らしい上司に恵まれて俺たちは幸せ者だ。俺たち星詠機関ニューヨーク支部、いいや、スピカ様親衛隊は、これからも増々固い忠誠を誓おう!」
おう!! と職員たちが吠えて腕を高く上げる。ほんの数人? 違う。仕事に集中し始めたスピカは気が付いていないが、およそ五十人の全職員だ。ここで働く全ての職員がスピカのことを娘のように、妹のように、或いはアイドルのように、心から尊敬し愛していた。
スピカは自分が頑張って仲良くしようとするほど職員たちと距離が開くと思っているが、それは思い違いだ。スピカのそうした対応に感激し敬意と愛情が高まるほど、さらにスピカを穢してはなるまいという意識がはたらく。陰ながら守りたいと思うようになる。好きすぎて逆に申し訳なくて握手会に行けないアイドルオタクのようなものだ。
ニューヨーク支部の全職員が、老若男女問わずそんな調子だった。
〇△〇△〇
スピカの帰国から数日。職員たちはスピカラブな点を除けば、平常通りいたって真面目に働いている。
戦闘力のある職員は主にアメリカ東海岸で起きた能力者の暴走や犯罪、或いはネバードーン財団の手の能力者の捜索を行い、無能力者の職員や能力者であっても戦闘力に秀でていない者たちは室内で事務仕事に徹している。
そんないつも通りな日のいつも通りな昼休み。
二人の男性職員が紙コップに入ったホットのブラックコーヒーを飲みながら、コーヒーメーカーの近くで壁に寄り掛かり雑談していた。
「そういえばさ、知ってるか? 新しい支部ができるって話」
「いいや。知らん。アメリカは東海岸のニューヨーク支部とバージニア支部、西海岸のロサンゼルス支部とシアトル支部があって充分に足りてるから違うよな。となると中南米……いいや、あっちも大丈夫だろう。ヨーロッパは言わずもがな。ということは、アジアのどこかか?」
「ザッツライト。大正解だ」
アメリカには四つの支部があり、ニューヨーク支部のトップであるスピカは名目上アメリカ四支部全体のトップということになっている。だからといって別に西海岸に頻繁に行くというわけでもないのだが。
そうした書類上の責任者になるのもまた二十一天の業務のようなものなのだ。
「日本は国連に非加盟だからあり得ないだろう? 財団のお膝元であるロシアも論外。そうなると……中央アジアか東南アジアか……? ううん、やっぱりわからん! もったいぶらずに教えてくれよ」
「おいおいそう詰め寄るなよ。……ジュネーブ本部に勤めてる俺の友人から聞いた話なんだがな、聞いて驚け、その新しい支部ってのはな……日本支部なんだよ」
「に、日本支部だと!?」
「おい馬鹿! 声が大きい! これはオフレコで頼むぜ。ほら、この間、スピカ様が日本に行っただろう?」
「ああ。シリウスさんが日本の聖皇の許可を取り付けてきたっていうアレだろ」
「そうそう。それだよ。で、どうやらそのとき日本で事件を起こしていたのがネバードーンの『子供達』の一人だったらしくてな」
「本当か!? 世界を遊び場か何かだと思っているあの悪魔みたいな連中が……。いや、それでもしっかり任務を完遂してくるあたりスピカ様はさすがだな」
「ああ。俺よりずっと若いのにスピカ様は大した人だよ。……っと、話が逸れたな。それで、基本的に民間の企業群でしかないネバードーン財団に対して日本も寛容だったんだが、これには随分と聖皇がお怒りらしくてな」
「それもそうか。自分の庭で自由にされたみたいなものだもんな」
「ああ。それに連中は戦力を聖皇がいる首都、つまり京都に集中させているだろう? 今回の事件が起きたのは島の東の方だっていうんだ」
「なるほどな。話が見えてきた。つまり敵の敵は味方って理論か。自分たちの目の届かない東側の監視を星詠機関に代行させるっていう」
「ああ。もちろん、日本は先の大戦で世界を相手に大立ち回りをしてみせた大国だ。星詠機関も完全に自由ってわけにはいかなくてな。職員の条件は日本人だけだとよ」
「じゃあ他の支部だと日本人職員は異動になってるのか」
「ああ。で、足りない分は現地採用だとよ。今はせっせと日本の東側に支部の建物を作ってるらしいぜ。ジュネーブ本部に負けないくらい馬鹿高いタワービルらしい」
「そうか……。ニューヨーク支部には日本人いないもんな。そりゃ情報も遅れるわけだ」
「そもそも日本人で国連の機関に入ろうって考えの奴が少数派だろうよ」
「ハハッ、違いない!」
飲み干して空になった紙コップを二人ともゴミ箱に捨てる。
地球の反対側である日本では、ナナが『くちゅん!』と可愛らしいくしゃみをしたとかしなかったとか。