第46話 リアルな幻覚は現実と大差ない
(このガキ、俺の攻撃が幻覚だと見抜いて避けたのか……!?)
牛宿の眼は紫色。すなわち、三等級の能力者である。彼の能力は『幻覚』、正確には『質感のある幻覚を見せる』というものだ。
実体や感覚の伴う幻覚は事実上、現実と大差がない。いわば理想の物体を自由に現出させる能力と言っていいだろう。もし本当に言葉通りの能力ならば最低でも二等級はあった。
しかし、一見便利なこの能力にも制約があった。それは能力者が対象にした相手一人にしか影響を与えられないというものだ。
今回であればナツキ。故に、能力の発動者本人である牛宿と対象になったナツキの二人以外に巨大なランスは見えていない。牛宿が重さを感じさせず一秒にも満たないわずかな時間で投擲モーションに入れたのも、そもそもランスが幻覚であり重さなど存在しないからだ。彼からすれば肩をほんの少し回した、くらいの感覚しかない。
(とはいえ、当たれば対象者には貫かれる痛みがある。質感は痛覚となるのが俺の能力の長所! それなのにこのガキはそれを一瞬で見抜いて、『避けて後ろに飛んでいっても問題ない』と判断した。でなければあの場で一旦は立ち上がろうとしたことの説明がつかない!)
幻覚は対象者以外に干渉しない。今回のように、ナツキが回避して後ろの席の人間にランスが直撃してもまったく何も影響はないのだ。
(このガキ、黒い眼ということは能力者ではない……。だが、さすがこの場に来るだけのことはあるか……)
〇△〇△〇
(いやいやいやいやなんだ今のランスは!)
わけがわからない。ランスなどというものが目の前に現れたのに誰も何も反応しない。
床に転がったナツキは起き上がり席に座り直す。
マフラーを踏んづけて意図せずランスの投擲を回避してしまったが、振り返って確認しても後ろの席の人物はなんともない。というか、すっかりランス自体が霧散したのかどこにもない。
(なんだ、俺は幻覚でも見ていたのか……?)
大正解である。全て見抜いた上で回避した、などと勘違いしている牛宿とは大違いである。そも、ナツキは依然として能力の存在を知らないのだ。
先日は友人である英雄を助けるために二等級の能力者にさせられてしまった英雄本人と戦ったが、その直後にナツキは入院することになりそのときの記憶はほとんどハッキリとは覚えていない。
牛宿は床から這いあがって再び席についたナツキを改めて見やる。
(避けても問題ないと判断したことだけじゃない。重心はランスを受け止めるために腰のあたりまで下げていたはずだ。それなのに、どうしてあの刹那の間に避けることができたんだ)
驚異的なまでの観察眼、能力推察力、身体能力であるという評価。
本当は踏んづけて床にピンと張られたマフラーに引っ張られたがために素早く動かされたので勘違いではあるのだが、牛宿は憎らしそうにナツキを睨んだ。
そんな二人の応酬を楽しそうにゲラゲラと笑いながら眺めていたナナもなんとか呼吸を整え、牛宿に言った。
「やめといた方がいいよ。この子はアンタなんかじゃ御しきれやしない。だって、この子はハルカの……ハダルの弟だ」
「ハ、ハダルだと……? 星詠機関設立以来初めて無能力者でありながら二十一天になった、あのハダルか!?」
「そう。アタシの友人にして上司のハダル。まあアタシはここに派遣されたから元上司か。アンタ、どうせ無能力者相手なら自分の能力で圧倒できると思ってたんだろう。甘いね。甘すぎるよ」
言いながらナナは壇上を降りて、またまたナツキの頭を撫でた。本日四度目である。
ナナがあまりナツキの心配をしていないのは自力でなんとかできるだろうという信頼でもあるし、牛宿の幻覚が痛覚こそ再現するが直接的に死に至らしめることができない能力だと知っていたからというのも大きい。
人間が痛みでショック死するのは稀だ。特に幻覚攻撃の場合は実際の痛覚の外的刺激と違い、脳の内側から湧き出る自傷的な痛覚の刺激である。ショック死するほどの激痛は脳が勝手にシャットアウトするだろう。
牛宿の本来の戦い方は痛覚で相手の動きを鈍らせ捕捉し確実に仕留められる状況に追い込んだり、幻覚と実物を織り交ぜながら相手を翻弄して決定的な実物の攻撃の方を直撃させたりするものだ。ナナはそんな牛宿の能力を『本人の性格によく似てネチっこい能力』と評している。
仮に牛宿が痛みに悶え苦しむナツキにトドメを刺そうとしても、それを止める用意はあった。ナナの眼も紫色ということは、彼女もまた三等級の能力者なのだ。
(あんなリアルな幻覚を見るなんてな……。疲れてるのか?)
長時間電車に揺られ、見ず知らずの県に行き、思っていた場所とは違う建物に連れていかれた。その意味では幻覚を見るほど疲労がたまるというのもなくはないのだろうが、それはナツキの勘違いである。逆説的に言えばその幻覚は『本物の幻覚』であった。
「ふ、ふん! この私がどうしてこんな野蛮人たちの相手をせねばならん!」
牛宿は捨て台詞を吐いてどすんとパイプ椅子に再度腰を下ろしてナツキたちから目を背けた。
ナナはそれを一瞥すると、ナツキの方へ向き直った。
「ありがとう。暁、アタシのために怒ってくれたんだろ?」
「ち、違う! ナナさんは平気そうにずっと笑っていただろう。俺は俺のために……むぎゅッ!?」
顔を赤くして言い訳をするナツキがいじらしくて仕方がない。ナナは思わずナツキを抱き締めた。ナツキの顔が自身の胸に埋まっていることなどまったく気にせずに、ナツキの後頭部をさすさすと撫でた。
「ううん。それでもアタシは嬉しかったよ。ありがとね暁」
「むごもごむふぉ」
ナナの胸の中でナツキが何か言っているが言葉になっていない。今日は六月にしては暑く、ナナのTシャツも薄手の生地だ。そのため下着の質感までもがナツキの顔の皮膚の触覚機能でわかってしまう。
視覚、嗅覚、触覚。五感をふんだんに使ってナツキはナナを味わってしまっていた。
すると、ピピピ、という音がナツキの耳元で鳴った。ナナの腕時計だ。
「おっと。十二時ちょうどだ。さて、試験、始めるよ」
ナツキは鼻に残る甘ったるい香りにクラクラし、呆然自失のまま、壇上に戻るナナを見送った。
「筆記用具以外はすべてしまえ!」
牛宿がマイクを使って会場全体に通達した。さすがに仕事はきちんとこなすようで、その点は言うだけのことがある。
「じゃ、試験用紙配るよ」
ナナの眼が紫色の淡い光を帯びる。
パチン!
ナナが指を鳴らすと、部屋にいる二百名近い全員の目の前に数枚のホッチキス留めされた紙束が出現した。といっても枚数は十枚程度だ。
ナナの配慮で、ナツキの前にだけ紙束と一緒に筆記用具も用意された。
これこそが三等級の能力者、ナナの能力。圧倒的な利便性と汎用性を兼ね備えた、シンプルイズベストな異能力。『テレポート』である。
(さあて、試験が始まったわけだけど。暁、アタシはアンタと一緒に働きたい。頼むからこんなところで落ちないでくれよ)
ナナと牛宿の手元には試験監督用のマニュアルがある。
その表紙には大きくこう書かれていた。
『星詠機関・新設日本支部採用試験概要』
と。
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