第4話 バリアとシールドの違いって何ですか
ピピピ、ピピピ、ピピピ、ピピピ……。
しつこく鳴り続ける目覚まし時計の電子音を手探りに止めながらもぞもぞと起き上がる。あくびをし寝ぼけ眼を擦りながら二階の自室を出て階段を降り一階のリビングに向かうと、キッチンからはとても香ばしい匂いがしていた。ジューーーとフライパンで焼く音が聞こえる。
「おはよう、夕華さん」
「ええ、おはようナツキ」
キッチンにいたのは、いつものスーツの上からエプロンを着用している担任教師の空川夕華だ。
しっかりとアイロンがけされ皺ひとつない女性ものの黒いスーツ。ピンク色のフリフリがついていてウサギさんの顔がプリントされたキュートでファンシーなエプロン。そんなあまりにアンバランスな光景も、毎日のように見ていると馴れてきた。
だがやはりじろじろと見てしまっていたようで、その視線に気が付いた夕華はフライパンの目玉焼きを箸で皿によそいながら自嘲気味に笑いながら言った。
「やっぱり私にはこういうの似合わないかしら」
「ああ、ハッキリと言うとたしかに似合っていない。それもすさまじく似合っていない。どれくらい似合っていないかというと侍がフランベルジュを構えているくらい似合っていない。あれはあくまで儀礼剣だ」
「そんな剣知らないわよ。だけど、そうね。似合っていない、わよね……。いざナツキにそう言われるとさすがに堪えるものがあるわ……」
「ああ似合っていないさ。しかし、だ。今の夕華さんは尋常じゃなくかわいい。知っているか? 優れた剣士は儀礼剣どころか木の枝でさえ最高の武器にしてしまうんだ」
「なっ……か、かかかかわいいって…………ごほん、あ、あまり大人を揶揄うものじゃないわよ。私みたいな真面目さだけが取り柄の行き遅れ教師をかわいいなんて思う人がいるわけないわ。やっぱりこのエプロンはハルカに送り返した方がいいわね、ええ、それがいいわ、そうしましょう」
ナツキに似合っていないと言われて落ち込んで悲しそうな顔をしたかと思えば、今度はナツキにかわいいと言われて赤面しながら上ずった声で捲し立て始めた。
トースターから焼き上がった二枚の食パンを取り出し、スプーンを瓶につっこんでグリグリとジャムを塗っている。というよりも、塗り込んでいる。さすがにやりすぎだ。彼女の動揺を表すように食パンはジャムでどんどんべちゃべちゃになっていた。
学校ではほとんど笑わず、良く言えばクールビューティー、悪く言えば不愛想な夕華も、ナツキと二人きりのときはかなり表情豊かになるようだ。学校の同僚や生徒たちが今の夕華の感情のジェットコースターを見たら驚くこと必至である。
「我が家で使わないのは勝手だが、送り返された姉さんがかなり悲しむタイプだって夕華さんよくわかっているだろうに……」
「そ、それはまあ、たしかに……」
ふと冷静になった二人の頭の中では、『夕華ちゃんが私のこと嫌いになったぁぁ』と子供のように泣き叫ぶナツキの姉、田中ハルカの姿が浮かんでいた。さっきからカッコつけた鬱陶しい喋り方をしているナツキさえも、ついそれを想像してげんなりしてしまう。
夕華とナツキの姉ハルカは幼稚園の頃からの腐れ縁、いわゆる幼馴染である。夕華の方からは口にしないが互いに親友だと思っているようだ。ナツキが産まれたのは二人が小学校五年生の頃で、夕華は赤子だったナツキをあやしたこともある。物心ついたときには両親が事故で他界していたナツキにとって、夕華は姉と同様に家族同然だった。
夕華はシーザーサラダ、目玉焼き、ジャムの水分を吸ってべちゃべちゃのふにゃふにゃになった食パン、ブラックコーヒーをそれぞれ二皿ずつテーブルに置き、脱いだエプロンを丁寧に畳むとナツキの正面に座った。
「それにしてもハルカはアメリカでうまくやれているかしらね……」
「あの姉さんのことだ、人っ子一人いない砂漠にでも放り出さない限りどこにいたって自分の家かのように振る舞うだろうさ。なんというか、姉さんは人に愛される星の下に生まれている。俺と違ってな」
「ふふ、他ならぬ私が昔からハルカの世話を焼いてきたわけだしね。でも、ナツキが自分のことを悪く言うのを聞くのはあまり気分が良くないわね」
「それは……ごめん」
「よろしい。さて、食べましょうか」
二人はいただきます、と手を合わせて朝食をとり始めた。
今から一年前。宇宙工学を専攻していた姉の田中ハルカは大学院を出て、それからすぐにアメリカの研究所に引き抜かれた。最初はナツキをひとり日本に残すことになると抵抗があったようだが、それを察したナツキに自分はもう中学生で心配ないからと伝えられ最終的に異国の地へと旅立った。
ほぼ毎日のように田中家に訪れていた夕華は自然と移り住んでいた。ナツキはひとりでも大丈夫だと主張したが、親より長く一緒に過ごしてきた夕華に押し切られては何も言い返せない。こういう事情で二十代の女教師と男子中学生が二人きりで同居するというなんとも背徳的な状況ができあがったのだ。
ちなみに、夕華が着用していたエプロンは同居の事実を知ったハルカから国際郵便でアメリカから送られてきたものだ。つまりエプロンのフリフリは本場アメリカのファンシーさというわけである。
「そうだ、夕華さん。英雄の件ありがとう。昨日アイツから聞いたよ。不良たちが謝りに来たって」
「担任じゃないとはいえ、私は結城くんの英語を担当している教師なのよ。むしろ苦しんでいることに気が付けなかった自分の未熟さを恨むわ」
「俺は好きだよ。夕華さんのそういう生徒想いなところ」
「だから、大人を揶揄うのはやめなさいって言ってるでしょ! まさか女子生徒にもそんな風に言ってるんじゃないでしょうね……?」
「ククッ、女子という生き物は中二病と話さんよ」
「私はナツキと話しているじゃない」
「夕華さんは女『子』ではないだろう」
「それどういう意味かしら?」
学校でいつもクールな夕華が笑顔で怒ると迫力がある。気温が数度下がったような感覚を抱いたナツキはたまらずコーヒーを飲んだ。
「私もほんの十年前までは中学生だったのに……」
「…………中学生の夕華さん、だと……?」
しょげた様子でそうこぼした夕華に比してナツキに走った衝撃は大きかった。思わずコーヒーカップが手から滑り落ちる。
頭の中に電撃が走り、「中学生の夕華さん」という言葉がリフレインしていく。どうして幼少期の自分はもっと夕華さんの制服姿を脳裏に焼き付けていなかったんだ。後悔で昔の自分に殺意さえ湧く。
とはいえ、ナツキが色々な意味で夕華を意識するようになったとき、姉のハルカ含め彼女らはもう大学生だったので仕方がない。
真正面にいるスーツ姿の夕華を見つめながら脳内で制服を合成する。ベージュ色の明るい髪の毛は暗い色のセーラー服でも似合うだろうが、ブレザーも捨てがたい。
「ちょっと、こぼれてるわよ!」
キッチンから濡らした布巾を持ってきた夕華がナツキのシャツに当ててシミ抜きをしていくが、コーヒー染みはそう簡単に落ちない。
「洗濯で落ちるかしらね……。一応クリーニング出しておくから脱ぎなさい」
「そ、そうだな」
寝起きということもあって、眼帯もマフラーも包帯もしていない。その上、パジャマ代わりにしているTシャツも脱げというのか。淡い恋心を抱いている相手の前で半裸になるのはやはり思春期のナツキにはひどく抵抗があった。
「やっぱ無理!!!!」
そう叫んで、洗面所の脱衣室で着替えるのだった。
〇△〇△〇
「ふう。これで落ち着いて食事ができる」
新品のTシャツに着替えたナツキは改めて席に着きパンをかじった。
リビングのテレビから、アナウンサーがニュースを読むのが聞こえてくる。あまり世の中のことに興味がないナツキも、今日だけは様子が違った。
『連続中学生失踪事件は今回で二十件目となりました。本日は犯罪心理学の第一人者で明慶大学の教授でもある碓氷火織先生にお越しいただいております。先生、どうぞよろしくお願いします』
『ええ、よろしく』
『先生、今回の事件はS県S市にて中学生が立て続けに男女合わせて二十人が行方不明となっています。警察は事故の線だけでなく誘拐などの何らかの重大事件に巻き込まれているのではないかということも前提に捜査本部を立ち上げました。ネット上では神隠しだという意見も出ています』
『そうですね、私から申し上げられるのは、今回の事件に共通している点である……』
男性アナウンサーの質問に女性の専門家が答えている。まさにそのS県S市に住む中学生としてはナツキも他人事ではなかった。
「いまのところは中学生ばかりが狙われているようだが、犯人がいるのはS市だ。夕華さんも帰りが遅くなるようなら俺が迎えに……って夕華さんいないじゃん」
夕華はとっくに食べ終えて皿をキッチンに運ぶところだった。後でナツキが洗いやすくなるように食器は水で浸しておく。ダイニングで依然もしゃもしゃと朝食をとっているナツキにキッチンから声をかけた。
「気を付けないといけないのはナツキの方よ。もしナツキに何かあったら私は……」
「ククッ、心配するな。俺の周囲には常に聖なる守護障壁が展開されている。そんじょそこらの不審者など敵じゃないな」
「バリアかシールドかどっちかにしなさいよ」
なぜ英語含めて成績は優秀なのにこうもおかしなことを言うのか、と夕華は頭を抱えた。同時に、ナツキが自分を不安がらせないようにわざとそういうことをこの場で言ったのだということも長い付き合いからわかっていた。つい笑みがこぼれてしまう。
「さあ、早く食べないと遅刻しちゃうわよ」
「わかっている」
夕華は鞄の中身を確認し忘れ物がないかチェックした。スーツの胸ポケットから手鏡を出し身だしなみも軽く整える。
三つ編みをカチューシャ風にし、セミロングヘアは後ろでまとめて結いあげている。前髪を櫛で数度梳く。
メイクをほとんどしていないとはいえこれだけ凝ったヘアセットに、二人分の朝食まで。毎朝早起きをしてくれていることにナツキは改めて心の中で夕華に感謝した。
食べかけのパンを一旦皿に置き夕華の方の向いて言った。
「いってらっしゃい、空川先生」
「ええ。いってきます。遅刻はしないようにね、田中くん」
読んでくださりありがとうございます! 今日はもう一話投稿します。