第376話 琵琶湖のSM教室
淡水は良い。海と違って鼻をむず痒くさせる磯の香りがしないから。
淡水は良い。泳いで口に入ってもしょっぱくはないから。
淡水は良い。煌めく太陽の陽射しを一身に受けて宝石のように輝くから。
琵琶湖に浮かぶ有人島の中で唯一人工的に作られた島がある。周囲はきっかり十キロメートル。面積にして東京ドーム三百個分超。
『しょっぱくない海水』を観光の売りにしたファミリー層やカップル向けの海岸のエリアをはじめ、富裕層向けの別荘街、病院やゴミ処理施設など人が生きるのに必要な公共施設をひとまとめにした区画など、無駄のない効率的な分割配置が行われている。
その別荘街の中でもとりわけ豪勢でな建物がある。他と比べても頭二つ三つ高いのはもちろん、外に張り出したウッドバルコニーには海岸(尤も湖ではあるのだが)を一望できるプールまで備え付けられていた。
建物そのものがある種の観光名物と化しており、下から眺める者も決して少なくはない。
そんなウッドバルコニーに甲高い女の声が響き渡る。
「お~ほっほっほっ! 見なさいな! 澄み渡る青空すらも、この私を讃えているわ! さぁ愛しいお前たち。お天道様にも聞かせてやるのよ。二十八宿最強はだぁれかしら?」
『昴宿フルール様でございまぁぁぁぁす!!!!!!』
「聖皇陛下の濃厚な寵愛を一身に受けているのはだぁれかしら?」
『昴宿フルール様でございまぁぁぁぁす!!!!!!』
「お~ほっほっほっ!! その通ぉり~かしら~! この私こそが最強! 最愛! 最高~~~~」
昴宿フルール。そう呼ばれた女の問いに答えるのは、複数の男たちの地鳴りのように野太い叫び声だった。
バルコニーのプール横では筋骨隆々の若い男たちが向かい合うように列を為している。全員が容姿端麗で、身にまとうのは白いふんどし一丁のみ。自然光によってムラなく焼かれた筋肉が眩しい。
むさ苦しいマッチョたちの列の最後方では、さらに別のイケメンマッチョ数名が地面に四つん這いになって組体操のピラミッドを組んでいた。そしてその頂上に鎮座する女こそ、迷惑千万な金切り声を上げ続けていた昴宿フルールである。
おかっぱというよりは外ハネの激しいい前髪ぱっつんのボブヘアがサラサラとなびく。日本人らしい艶やかな黒髪だ。シンプルな純白のビキニはスタイルの良さやすらりと長い手足を強調する。腰には黒いパレオが色気を増していた。さらにパーティーグッズと思しき星の形をしたサングラスがデカデカと存在感をアピールする。
自己顕示欲に四肢が生えたとしか思えない姿でありながら、しかしこの場の筋肉ダルマな男たちは誰一人として笑わない。
むしろ彼女に見下ろされているこの状況に興奮しているのか、顔を上気させ彫刻のごとき肉体は荒い呼吸で上下していた。
「私ってなんて罪な女なのかしら。この威光。この輝き。京都におわします聖皇陛下にだけ届けばいいというのに、こんなにも世界を照らしてしまっているのだから」
わざとらしく頭を抱えて見せる。そのとき、彼女の座っているマッチョピラミッドの一人が腕を痙攣させ肘をガクンと折り曲げた。長時間同じ姿勢で数人分の人間の体重を支えている負担は計り知れない。
当然、頂上で足を組んで座っている昴宿フルールもそのグラつきに気が付いた。わずかな揺れを感じるや否や、ビキニのパレオを一枚千切る。
「なぁぁぁに気ぃ抜いてるのかしらァァァ!!!」
破かれたパレオの生地を思い切り振り下ろす。空気を切り裂く音とともに、しなった生地がペシンッ! とマッチョの尻を打つ。先ほどまで疲労で肘を折り曲げていたマッチョの尻は一本線で真っ赤に腫れあがり水ぶくれになっていた。
しかし腕はぴんと伸び、顔はにへらとだらしなく笑っていてイケメンが台無しになっていた。
その様子を他のマッチョたちも羨ましそうに眺めている。
そう、この昴宿フルールという女とその取り巻き。そこに存在する主従関係は女王とブタ、SとM。
互いの本能的な欲求に従って集まった情欲のコミュニティである。
昴宿フルールもまたうっとりと表情をとろけさせながら布を鞭の代わりにしてマッチョたちのふんどしからハミ出た尻を何度も何度も繰り返し打ち続ける。筋骨隆々な美男子たちがその度に『おうふ……』と湿った声を出す光景は異様だが、当の本人たちは至って真面目であり満足していた。
「……ん?」
昴宿フルールは鞭を打つ手を止める。眉をひそめて目を閉じヒリつく空気の繊細な変化を感じ取る。
匂う。殺気だ。
ギイィィィン!!!! と刀と刀が交差して火花を散らす。サングラスの奥で紫色の両眼を淡く光らせた昴宿フルールの手に握られていたパレオの鞭は、一切の歪みのない均整の取れた日本刀へと姿を変えていた。そしてフルールは重たい上からの一撃を片手で軽々と受け止めている。
対してフルールに斬りかかった方。襲撃者もまた日本刀を用いていた。ピンクのサイドテールがぴょこぴょこと揺れていて、膝上で裁断された和服の裾はもはやミニスカートとなっている。
数メートルを跳び上がってマッチョピラミッドの頂上にいるフルールに斬りかかっているため、下にいるマッチョたちからはパンツが見られ放題である。尤もマッチョたちは生粋のドMなので下着程度まったく興味もないのだが。
襲撃者はマッチョピラミッドの背中に着地し、ギギギギと刀をフルールに押し付けることで鍔迫り合いの様相を呈している。二人の顔が交差する刀を挟んでグッと近づく。
「久しぶりじゃんね、花子。ウチと最後に遊んだのっていつだっけ? 他の二十八宿と違ってこんな辺鄙なところに飛ばされてっから全~然会わないよねウケる」
「花子なんていう地味でダッサイ名前じゃなくて、私はフルールだと何度言えばわかるのかしらーんこの脳内空っぽアホビッチギャルは!」
アホビッチギャル──こと、星宿恵那はふっと力を抜き、昴宿フルールの押し返す力に身を任せ空中に放り出された。
そして宙返りをしながら腰の鞘に納刀し、一歩もたじろぐことなく着地する。
フルールが能力を解除すると刀は再びヒラヒラとしたパレオに戻る。そしてマッチョのピラミッドを階段の踏み台にしながら一段ずつ降りて行った。
「ウチはギャルかもしれんけど、アホじゃないしビッチじゃないし。てか、どっちかっつーとウチより花子の方がアホだしビッチじゃんね?」
「花子って呼ばないでくれないかしら! フルール!! 私はフルールというシャレオツな名前があるのだから!!」
「あんたんとこの家来のマッチョたちもみんな本名が花子だって知ってんじゃないの? ていうか本名をそのままフランス語にして偽名にするのってどうなん? ウチとしては日本人的にないわーって感じ。仮にはウチら二十八宿だよ? 能力者として大日本皇国を守護する存在で、この国の鑑みたいな立場なんよ?」
「ぐぬぬ……恵那なんてイマドキの名前をしている女には私の気持ちなんてわからないに決まっているかしら……! コホン! それはともかく! 遠路はるばる琵琶湖くんだりまで何用なのかしら? まさか聖皇陛下に最も寵愛を受ける私に嫉妬して寝首を掻きに来たわけではないのではないかしら?」
「ウケる。ふつー聖皇陛下からホントに寵愛されてんなら滋賀まで飛ばされないでしょ。二十八宿ってあんた以外全員が京都だよ? というか平安京だよ? なんなら勝手に外出するのもNGなんよ。え、やば、ウケる。一人だけ滋賀て」
「またケンカ売ってるのかしらぁ!? その血便巻き散らした馬の尻尾みたいな髪を掴んで市中引きずりまわそうかしら!? というか、ほら、星詠機関との友好の印として最近加わった男の子も京都の外だったじゃなかったかしら?」
薄ピンク色に染めている髪のどこか血便なのだ、とサイドテールを指で引っ張っていじりながら恵那は遠い目をして呟く。
「英雄きゅんは、たしか能力が能力だから。電気の移動速度はほとんど光の速度で、彼自身もその速度で動けるし……京都から関東地方まで一秒かからんし……ていうかあんだけ能力強いのに向上心の塊なのなんなん? ウチみたいな非戦闘系の能力者にも手合わせしてくれって模擬戦申し込まれるし……ウケる……嘘ウケないし……」
「ふん。まあ聖皇陛下の次に最強なのはこの私で決まっているのだから、英雄という奴も取るに足らないに決まってるんじゃないかしら! 私は平安京にほとんど行かずにずっと滋賀にいるから会ったことはないけれど!!!!」
「いや自慢げに言うなし」
「自慢じゃないかしら? 琵琶湖周辺の守護は聖皇陛下直々の勅命。日本海を横断する大陸系の能力者組織はもちろん、ネバードーン財団が支配力を持つロシア帝国から本州を縦断して南下した場合も、京都の盾となる最大の防衛拠点こそがここ! 滋賀! 琵琶湖! ビバ淡水湖! じゃないかしら!!!!」
プールを背景に撮る写真はめちゃいいねつくじゃん! ウチの人気と拡散力なら五分で万バズ~。
ドヤ顔でまくし立てるフルール──もとい花子の騒がしい声を聞き流しながら恵那はスマホで自撮りをし、SNSチェックをしている。
花子の鬱陶しいノリに対して恵那は無関心を装っているが、内心では彼女の認識もそこまで外れてはいないと思っている。事実として日本地図を見下ろしたとき、滋賀や琵琶湖は京都を守るように立ち塞がる立地をしている。
大日本皇国の敵国であったロシア帝国によってもしも東日本が壊滅状態に陥ったとしても、京都が落ちるより先に滋賀が戦場になるだろう。その意味では地政学的に価値ある防衛拠点を任せられている花子は聖皇にそれなりに信頼されているというのも強ち嘘ではない。
……まあ、実のところ聖皇自身も花子のノリを少し鬱陶しいと思って遠ざけたかったという意図がないわけでもないのだが。
「二十八宿という京都を守護する立場にいるウチがこんな湖に浮かぶ小島に来たのも、花子に関係ない話じゃないと思うんだよね。だって、ウチも聖皇陛下の勅命を受けてるぞってね」
星宿恵那は嘘をついた。これは彼女の独断だ。聖皇は今、マダガスカルにいる。勅命を受けることなど不可能。
恵那は個人的な目的でもって京都を出た。少なくとも同僚である昴宿花子に嘘をつく必要があるくらいには、知られてはならない理由で。
しかし恵那の腹の裡など露も知らない花子はパっと顔を明るくさせた。サングラスを外して放り投げる。それをマッチョの一人が走って、皮膚が擦り剥けるのも気にせずダイビングヘッドでキャッチ。
花子はそんなマッチョのことなど無視し、恵那に駆け寄って両手を握りぶんぶんと振る。
「なんて嬉しいのかしら! ああ、偉大な聖皇陛下から名誉ある命を受けた尊いサムライがこの場に二人も! これこそ聖皇の祝福。私、あなたのイケすかない態度とイマドキな名前は嫌いですけど、同じ志を持つ者として大歓迎! きっと琵琶湖をそう言っているんじゃないかしら!」
「ああ、ええと、うん。そうかもね」
恵那は花子の面倒なノリに引き攣った笑顔で対応をする。そんな恵那の様子などおかまいなしに花子は楽し気に満面の笑みだ。
「さぁお前たち! さっさとお客さんの歓待をしないかしら!」
花子はパレオのまた一枚千切る。それを鞭のようにしならせ、先ほどサングラスを拾ったマッチョの背中をバシィィィンと一発叩きつけた。
テカテカに照り光る焦げ茶色の肌に真っ赤な鞭の跡が一本残り、マッチョは床にうつ伏せのまま『おうふ……』と漏らす。
「ほうらさっさとお行き! お~ほっほっ、今晩は恵那の好きな料理を振る舞ってあげようかしら!」
「ウチ、グミとパフェが好きなんだけど。やば、どっちもディナーって感じ全然しねーウケる。ていうか琵琶湖の中に浮いてる島にそんなコンビニ商品みたいな物あるん? ま、いいや。京都からここまで来てかなり疲れたし夜まで休ませもらおうかな。花子んち、このでっかい建物っしょ?」
「そう! この威光! 琵琶湖を見下ろすオーシャンビュー!」
「湖だからオーシャンじゃないし。てか、花子はこの後なんか用事あるの?」
「ふふん。この私を誰と心得るのかしら。聖皇陛下の腹心にして二十八宿最強の女、それはもう高貴で優雅で重大な仕事が控えているに決まっているじゃないかしら! ああ、恵那の嫉妬の視線を感じる! でも残念、私はMの気はないの!」
腕を組みふんすと鼻息荒く誇らしげな花子の様子にゲンナリした恵那は『そ、そうなんだねー』と微妙な表情で受け流す。花子の部下のマッチョたちに案内されて巨大別荘の中へと向かった。
花子は再び琵琶湖を見渡す。果てなき巨大な湖は己に与えられた大きな役目と使命にそっくりだ。午後には恵那に自慢した重大な仕事が待ち受けている。
ビューと風が吹く。海の潮風のように髪がベタつくことのない、カラっとした山由来の風だ。
日本人らしい艶があって繊細な黒髪を手で押さえる花子の姿は、聖皇には及ばないまでも充分に大和撫子然としているのだった。
372話で出て来たギャルの子です。