第375話 ナースティーチャー
ちょうど七時を指し示す時計の針はなんだか姿勢正しく見える。アラビア数字ではなくローマ数字を用いた時計版とはセンスがあるな、とナツキはニヤリと笑う。
陰鬱な月曜日の朝、通勤通学の乗客がせわしなく行き交う駅舎の隅で、制服を着た中学生が百人ほど集まってしゃがまされている。引率教員の代表である教頭がやれ周囲の人に迷惑をかけないように、やれ学びをしっかりと得るように、と挨拶という名の講釈を垂れ続けていた。
(大勢の中学生が一部とはいえ公共の場を占拠していることの方がはるかに迷惑だろうに)
新幹線の停車駅だけあって百貨店やカフェが敷地内に併設されているほどだだ広く、あまり迷惑にはなっていないのかもしれない。それでもナツキとしては、学校行事を大義名分か何かのように思っている学校側の態度が気に入らなかったのだ。斜に構えて学校を批判したり逆らったりするのもまた、ある種の中二病である。
視線を隣の列へ向けると、英雄は真面目な顔でウンウンと頷きながら話を聞いている。ぶかぶかの学ランの袖からちょこんと綺麗な手が見え隠れしており、何度も読み返した形跡の伺えるしわくちゃの林間学校のしおりが握られていた。
二等級の能力者であることを示す青い両眼はくりくりとパッチリ二重でつぶら。そしてサラサラの天然の茶髪は肩のあたりまであるボブカットにしており、学ランを着ていなかったら女子中学生にしか見えない。いや、背が低いこともふまえれば女子小学生でも通ってしまうだろう。
(いや、ちょっと待て。宿泊行事ということは男子生徒は公衆浴場を利用するんだろう? 英雄の裸が健全な中学生の前に晒されるのは色々とマズくないか?)
実は英雄の下はついていないと言われてもナツキとしては驚かない。そんな美少女(?)の裸体を思春期男子中学生の前に晒すなど、目の前にニンジンをぶら下げられた馬のごとく猪突猛進して間違いを犯してしまってもおかしくはない。
もちろん二等級の中でも電気や雷を操作する強力な能力を持つ英雄を害することができる存在など地球全体を見渡してもそう多くはないのだが。
そのあたりは後で夕華さんにもおいおい相談しようか。ナツキは教頭の話になど耳を傾けることはなく考え事ばかりをしていた。
そんなとき。黒いスーツや学生服を着た人間ばかりがすれ違う中で、一層際立ち浮いている不気味なほどに白い女が白衣をはためかせてやって来た。気圧された教員たちは自然と道を開け、教頭は汗を拭きながら『なんだね君は!』と騒ぎ立てている。
(メセキエザのやつ、本当に来たんだな)
話は土曜日。ショッピングモールに行ったときにさかのぼる。
〇△〇△〇
「その林間学校っていうやつ、私も着いて行こうと思うんだ」
土曜日の昼下がり、ショッピングモールへ向かう道すがらのこと。
夕華が運転する大型SUVの後部座席でシートベルトもせずにゴロンと横になっていたメセキエザは車の振動に合わせて身体を揺さぶれながら呟いた。
運転席の夕華はミラー越しにちゃんと座れと圧をかけるがメセキエザは素知らぬ顔である。
「でもそうね。たしかに、明後日の月曜日から私とナツキは家を空けることになるから……。うちを自分の家だと思って過ごしてくれても構わないけれど、一人になってしまうなら今までと変わらないわよね」
「ククッ、旅費なら俺が出したって構わない。別にプライベートの旅行者が偶然、たまたま、林間学校に向かう中学生と同じ行先だったというだけの話に過ぎないからな」
ナツキは偶然という部分をことさらに強調した。パチンコの三店方式や風俗の自由恋愛のような暴論だ。それでもナツキとしては話せる相手が一人くらいいた方が気が休まる。英雄は違うクラスだし、夕華は引率の担任教師である以上ナツキにだけかまけているわけにはいかない。
そうなるとナツキはクラスで孤立するので、せめて話し相手くらいはほしかったのだ。
「そうは言うけど、林間学校でのイベント行事にまで参加するのは無理よ。それはさすがに他の先生方も止めるでしょうし、下手をすれば不審者として通報されかねないわ。メセキエザが親御さんのところに連れ戻されるようなことになったら本末転倒でしょう」
「それもそうか。だが、同じ新幹線に乗ったり、近くの宿泊施設に泊まったり、それくらいはできるだろう。俺としてはメセキエザに一緒に楽しんでもらいたい。一人の友人としてな」
「二人とも。異星人に対する深い配慮に感謝はするけど、そのあたりは自分でなんとかするよ。いくら本調子でないとはいえ私はこれでも強いんだ、かなりね」
〇△〇△〇
(地球人ごときが私の前を遮るなんて、不遜が過ぎるよ。私の邪魔をしたいならせめて一等級の能力者を呼んでこないと。……まあ、私を倒した白銀の髪の女の子は一応二等級だったけど)
お前は誰だとガミガミ騒ぎ立てている教頭の声など一切聞き入れない。メセキエザはただ一度だけまばたきをする。瞼を閉じてから開くまでの一秒にも満たない時間の中で、どの能力を使おうかと選択肢の大風呂敷を広げた。
聖皇の時間を止める能力、シリウスのあるべき姿を強制する能力、他にもセレスの物質を変換する能力やスピカの流体を操る能力まで、メセキエザは交戦し一度目にした能力は大抵再現可能だ。
さらには肉体を乗っ取った際にカナリアの命を宿し支配下に置く能力やナースのテレキネシス能力なども得ているし、これまで出会った数えきれないほどの能力が全てストックされている。
もちろん今のメセキエザは精神体だけを切り離して地球人の肉体に寄生している状態なので全ての能力を全開で扱うというわけにはいかないが、並大抵の能力者を殺害するには充分すぎるほどである。
とことん戦闘向きばかりだな、とメセキエザは内心でニヒルに笑う。その中で現状に最も相応しい能力は何か? ナツキや夕華とともに林間学校に向かうのに最適なものは?
そして、メセキエザのグレーがかかった薄い月白色の瞳が淡く光る。
「もちろん、道を開けてくれるよね。地球人」
「は、はぁ……」
ダランと腕が垂れて教頭は数歩後ずさりした。生徒たちを前にしたメセキエザは薄気味悪い作り笑いを浮かべて告げた。
「皆さんが安全に林間学校を終えられるよう、引率で着いていくことになりました。保健養護教諭のメセキエザです。どうぞ、よろしく」
生徒も教員たちも、何も疑うことなく拍手をして彼女を迎え入れた。それに応えるようにメセキエザは生徒たちへとひらひらと手を振っている。
(催眠系の能力も数個ほど覚えがあったから使ってみたけど……等級が低かったからかな。あの二等級の子には効きが悪いみたいだ)
英雄は少しだけ違和感を覚えながらも、周囲に合わせてぱちぱちと手を叩いている。
(で、言うまでもなく夕華と暁の二人には効いていないみたい。これはまあ予想通りかな)
夕華は能力を無効化する五等級の能力を、ナツキは現を夢に変えるという二等級の能力をもっている。どちらもパッシブで能力による干渉を無効化するため、メセキエザの催眠を無効化していた。
二人とも周囲の反応に疑問こそ抱いているが、土曜日の段階でメセキエザがなんとかすると言っていた以上は彼女が何か手を回したのだろうと判断していた。
(にしても、養護教諭かぁ。星を壊すのには慣れているけれどまさかその星の生命体を救う役割に就くなんてね。ナースだっけ。この肉体の本来の持ち主に少しだけ引っ張られている感じがするよ。カナリアのときと違って人格はある程度消して身体だけもらっていったけれど、肉体に染み込むほどの奉仕精神の持ち主だったとは。うーんちょっと気持ち悪い)
「メセキエザ、あなた一体何をしたの?」
「地球人が呼ぶところの、メイオール。私の星にいる下っ端の下っ端のさらに下っ端の黒いメイオールの中には能力をもつ個体もいて、そいつらが持っていた催眠系の能力のいくつかを一気に重ね掛けしてみたんだ。知性が高い生命体相手には通用しないけれど、そこは、ほら、幸いに私は優れた知性体だから」
「ええと……でも、とにかく同伴できるようでよかったわ。新幹線の席も近くがいいわね」
しれっと教員の列に加わったメセキエザに話しかけた夕華。夕華は能力の存在は理解しているが別にどこかの組織に所属しているわけではない。強いて言えば『黄昏暁』という最強の能力者の陣営にいるといったところか。
それゆえにメセキエザの言葉に違和感を抱くことはなかった。事情を全て把握している聖皇ほどとは言わないまでも、ナツキのように能力という言葉に過敏に反応する者であれば、メセキエザが能力者であるという疑いを持ったはずである。
ともあれ。メセキエザができるだけナツキたちの反感を買うことなく彼らの近くにいたいと思っていることは事実。それほどナツキという聖皇以上の能力者の存在を興味深く思っており、そんな最強の少年を御している夕華の存在も面白い。
メセキエザは戦う以外のコミュニケーションを覚えつつあった。だからこそそこに敵意はなく、夕華もまた警戒することなくメセキエザを受け入れているのだ。
かくして、林間学校は始まった。四泊五日。月曜日から金曜日までを丸々使った自然学習のため、ナツキたち中学二年生と夕華たち教員は琵琶湖へ向けた新幹線へと乗り込むのであった。