第373話 友達の定義
カーテンの隙間からリビングへと東の日光が差し込む。庭先では木々がわさわさと風に揺れ、短く刈られた芝には瑞々しい朝露が張っている。
スズメのさえずりが少しずつ意識を覚醒させていく。夕華は天井をぼんやり見上げたまま重たいまぶたを数度開閉させた後、ゆっくりと上体を起こした。
「んーー……うっ……まだ昨日のアルコールが残ってるわね……」
こめかみのあたりを手で押さえる。典型的な二日酔いだ。今日が土曜日で助かった。といっても普段から平日の前日は飲酒しないようにしているのだが。
水を飲もうとキッチンへ向かうと、ダイニングテーブルの上からは皿も鍋もビールの空き缶もなくなって食器は全て戸棚に収められていた。
(きっとナツキね。昨日の帰宅は遅かったはずなのに本当に気が利く子だわ)
冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを胃に流し込んだ夕華は、スッキリハッキリとした頭でふと呟く。
「か、彼氏の帰りを夜遅くまで待つ私……。まるで新妻ね」
頭の中で浮かんだ言葉を口に出してみると、人はそれを客観視することができる。
夕華は自分で言っておきながら顔を赤くした。二四歳ともなると同級生たちからそういった話を少しずつ聞くようになる。女性にとっては結婚や出産なども現実的になってくる年齢なのだ。
(でも、彼氏が十四歳だなんて絶対に私だけよね……。世間も法律もきっと私たちの関係を認めてくれない。まして私は教職者よ。彼が赤ちゃんの頃から知ってるからって教え子に手を出すなんて絶対に許されないわ)
だけど。
(仕方ないじゃない。好きになってしまったんだもの。誰よりも強くて、かっこよくて、時々中二でおかしなことを言うけど心根は変わらずに素直で真っすぐな子)
同い年の友人の話を聞くと、やれ彼氏に家事を押し付けられるだの男だからって威張ってくるだの愚痴を聞く機会もある。
その点ナツキはこちらが申し訳なくなるほどに尽くしてくれる。十も歳が離れている自分にはもったいないほどの相手だ。
時計を見ると既に昼前である。ナツキを起こしに夕華は二階へと向かった。
そうだ、せっかくの休日なのだから今日は二人でゆっくり過ごそう。学校ではできないようなイチャイチャをたくさんしよう。
教師らしからぬピンク色な想像をしてしまう浮かれた自分も悪くないかもしれない。夕華は少しだけ苦笑し、部屋の扉を開けた。
「ナツキ、もうお昼よ。早く起きない、と……」
唖然。呆然。愕然。
可愛らしく寝息を立てているナツキはいい。だが、彼に抱き着いている不気味な白い女は誰だ。そしてなぜその女は裸なのだ。
一瞬、マネキンかとも思った。それほどまでに血の通った肉感やのない女なのだ。しかしよくよくまじまじと眺めてみると、やはり人間。
星の光を粘土みたいに捏ねて人の形に整えたような全裸の女がナツキを抱き枕にしており、かけ布団は蹴られてベッドから落ちている。
「うー……おはよう夕華さん。ヴァンパイアの末裔たる俺に朝陽の光は……ええと……ほわぁ」
夕華の声で意識が覚醒したナツキは寝ぼけまなこをこすって起き上がる。寝起きは頭が回らずうまく言葉が出てこない。あくびをしながら、立ち尽くす夕華を訝し気に見つめる。
「夕華さん、部屋の前で突っ立ってどうかしたか? 九尾につままれたような顔をして……」
ナツキは夕華の視線の先へと目を向ける。ベッドの中、自分の身体に腕を回して寝ている女がいる。髪はもちろんまつ毛も眉毛もナイロンのように非人間的な白さで、たとえるなら血の抜けたアルビノ。
上半身はナツキのTシャツを着ているが下半身は裸で、シャツが捲れあがり太ももや尻があられもなく外気に晒されているその女の名は、メセキエザ。遠い星から地球へやって来た(という設定だとナツキは思っている)美しい友人である。
「いやぁこれはだな。話すと長くなるんだが、別に浮気的なことではなく、聖なる液体を放出してしまったから下を着替えさせようとしたんだが予備の下着もないからと仕方なく脱ぎっぱなしにしただけであって、別にそれ以上のやましいことは何もなかったし、そもそも俺が夕華さん以外の女性とそういうことをするわけがないということくらい……あ」
バタン。
信じられない量の汗を流して早口で言い訳をするナツキの前で、非情にも扉が閉められる。
ちょっと待ってくれ! とベッドから這い出たナツキは転がるように部屋を飛び出し夕華を追いかけた。
〇△〇△〇
「で、友人になったからうちに連れ込んだと」
「連れ込むというのは人聞きが悪いだろう。そうだな、これはある種の保護だ。ククッ、さながら現代のノアの方舟と言われるスヴァールバル世界種子貯蔵……」
「ナツキ、今は真剣な話をしているの」
「……ごめんなさい」
リビングのソファに座り足を組む夕華にぴしゃりと叱られれいるナツキは、床に正座してしゅんと首をすくめた。
その隣では正座の意味も分からず、不思議そうな顔をしたメセキエザが座り方を真似している。
「……その、ナツキは本当にそういうことは何もしていないのね」
「あ、当たり前だろう。俺の恋人は夕華さんだけだ。信じられないかもしれないがメセキエザはこの年齢で失禁をしたから、仕方なく脱がせたんだ。証拠ならまだ洗濯機の中に残っているはずだ」
「夕華って言ったっけ。ねえ夕華、ナツキ、そういうことってどういうこと?」
「そ、それはほら、男女が同じベッドの中で入ってする……」
「ああ、生殖か。それなら大丈夫。私の星は有性生殖なんてとっくにやめているし、この肉体の元の持ち主も生殖経験はなかったみたい。地球の表現を借りるなら、私は処女だよ。夕華と同じでね」
「な……今は私のことは関係ないでしょ! と、ところで、あなた、何歳なの? 未成年なら保護者の方に連絡をする必要があるわ。成人しているなら……それはそれでダメよね。いずれにしても警察かどこかに相談をさせてもらいたいのだけれど。ええそうよ。いくら友人になったからって、その日に異性の家に泊まるなんて非常識だわ」
「異星の家? ククッ、言い得て妙だな」
くだらない洒落を呟いたナツキは夕華にキッと睨まれるとばつが悪そうに視線を逸らす。
メセキエザはまばたき一つせず不気味な能面のまま顎に手を当てて首をかしげる。
「警察……ああ、この星の治安維持武力組織だっけ。そんなもの意思統一が為されていた私の星にはなかったなぁ。あ、これでも地球人の肉体に収まるのは二回目だからある程度の常識はここに残っているよ」
メセキエザはこめかみのあたりを指でトントンと叩いた。一人目はカナリア・ネバードーン、二人目はマダガスカルにいたナース。彼女らの肉体に寄生することで脳に残っている記憶は継承していた。
だからこそ、正座といった日本独特な文化への理解は著しく欠けているのだが。
「夕華が呼びたいなら警察でもなんでも呼べばいい。でも、原始的な質量兵器程度しか持ち得ない弱者がいくら群れたところで私に傷一つつけることすらできないと思うよ。いくら仮初の肉体で本調子じゃないとはいえ、この青い惑星で私を倒し得る生命体はそう多くない。私のバタフライ・エフェクトであらゆる確率並行世界を四次元視点で見渡しても……ざっと五人ってところかな」
メセキエザは右手をパーにして夕華にぐいと見せつけた。
そんなメセキエザを、夕華はじっと見つめている。互いに何もいわず無言。ナツキだけは女性の言い合いに巻き込まれまいと少し離れて両者を交互にキョロキョロと視線を向けている。
(……この娘、あれよね。つまり、その……)
夕華だけは頭の中でぐるぐると今の状況を理解しようと必死に思考を巡らせていた。ちらりとナツキを見やる。赤と青のオッドアイ。いつの間に巻いたのか朝っぱらから腕には包帯。そして珍妙な喋り方。
(ナツキと同じ、中二病ってことよね)
はぁぁ、と深く溜息をついて夕華は頭を抱え、メセキエザに問いかける。
「あなた、学校に友達っている?」
「それならまずは友達という概念をまずどういう風に定義づけるかから始めないと、そもそも私の星には存在しない有機的な関係性であるから……」
「ククッ、友達の定義か。それは友達がいない人間の常套句だぞメセキエザ」
「ああ、いいや、友達ならここにいるよ。黄昏暁。地球に来て最初にできた異星の友だね。私は大半の地球人にとって敵だという自覚はあるから、この友達という概念を構築するには彼ほどの特異性が必要だったんだろう」
マダガスカルの住人を皆殺しにしたり、ウィスタリアの四肢を切断したり、本人の許可なくカナリアやナースの遺体を乗っ取ってみたり。
メセキエザは自身の所業を振り返り、これじゃあ普通の地球人とは友好関係を築けないな、と内心で自嘲した。
刹那に見せた切ない諦めの表情を夕華は見逃さなかった。
「……そう。ずっと周囲の人たちと対立して生きてきたのね。ナツキが初めて会話の合う友人で理解者だった、と」
夕華はソファから降り、メセキエザに視線を合わせる。そっと背中に腕を回して抱き締め、後頭部をポンポンと軽く二、三度叩いた。
「私はあなたの会話に合わせてあげられないかもしれない。社会にうまく溶け込めるように口うるさく言うこともあるかもしれない。でも大丈夫よ。私は決してあなたを傷つけない。もしあなたを否定し害する人が現れたら私を呼びなさい。そのときは私が一緒に戦ってあげるから。だって、それが教師の仕事だもの」
夕華の亜麻色の髪からふわりと優しくて甘い香りが沸き立ちメセキエザの鼻腔をくすぐった。
なるほど、これが黄昏暁も敵わない能力者か。
驚いた表情を隠せないメセキエザを見て、ナツキはどうだとばかりにドヤ顔を向ける。中二な自分をも受け入れてくれた夕華ならばメセキエザのことも守ってくれる。ナツキにはその確信があった。だからメセキエザを家に呼ぶことを決めたのだ。
(悪くない。悪くないな、地球人とのコミュニケーションも)
聖皇をはじめ、戦うことでしか人類と関わる術をもたなかったメセキエザにとって。
異星人と知りながら友誼を結んでくれたナツキも、能力の等級で劣りながらも自分とともに戦うと抱擁してくれた夕華も。
どちらも初めての経験だった。
メイオールは地球人類より文明レベルがはるかに進んでいる。高い次元で精神を混ぜ合わせることはあっても、個と個の繋がりを大切にするという思想はない。
メセキエザは身体が熱いのを自覚しながら、夕華を真似るように同じく背中へと腕を回してみた。
(人間の肉体だから、ということじゃない。もっと根本的なところで私は……)
地球人類とメイオールに大きな違いなんてないのかもしれない。そんなことを考えて、メセキエザは夕華をぎゅっと抱き締め返しながらナツキにも微笑みを返した。
筆者、残業時間が去年の5倍になり執筆時間がとれていませんでした。ごめんなさい。内容忘れちゃったよよという方は、今の章の頭からもう一度読み直していただけると幸いです!