第368話 レリジオン・アラカルト
ポンチョのようなシルエットをした白一色の服を麻紐で腰のあたりでくくり、マフラーのような長い布で顔の耳より下を全て覆い隠す。
これは本来、砂嵐と灼熱の太陽を防ぐためのシルクロードの商人の知恵である。
北関東のとあるビルオフィスの高層階にそんな格好をした老若男女が数十名も集っている光景自体がまずもって異常と言えた。
居抜き物件のためカーペット生地の床タイルや窓のブラインドはもちろんのことコピー機や電話、ファックス、デスクまでもが用意されている。
しかし『儀式』に不要なそれらはフロアの隅に寄せられ、使われることなく埃を被っていた。
同じ民族衣装に身を包んだ老若男女は車座になってあぐらをかき、目を閉じて瞑想をしている。互いにわずかな呼吸や衣擦れの音だけが耳に入る。同じように円形に配置された蝋燭の火が間接照明になって厳かな空間を形作っている。
彼らの円の中心では簡易的に設置された木組みの祭壇が設けられており、その中には白い折り紙の鶴が一羽鎮座していた。
一人の男が立ち上がり粛々と祭壇の前まで移動すると御幣──連結した白い紙が二房付された木棒の祈祷道具──を握りしめ、左右にゆらゆらと振る。そして日本語とも中国語とも言えない発音の言葉で祝詞らしき文言を読み上げる。
数分間、呼吸の間も設けずに男は祈祷を続けた。それをぴたりと止めると男は御幣を祭壇に置き、代わりに折り鶴を手に取った。
折り鶴を両手にそっと乗せ、車座に座る老若男女の周囲をぐるぐると回る。ちょうど三周目にさしかかったところで一人の若い女のところで足を止めた。
「お手を」
「導師様、ありがたき幸せでございます。この貧窶な我が身に余る光栄! 教悦が至極でございます!」
「いいえ。恐縮する必要はありません。今宵、最も深く修行世界に入り込めていたのがあなたであると判断したまでのことです。私ではなく、御神の御意思がね」
女の左の掌に折り鶴を乗せる。女は果物ナイフを懐から取り出すとためらうことなく手首に刃を当てて、真横に切り裂いた。動脈から吹き出す血液の飛沫は蛇口の壊れたシャワーのようだ。
血液が白い折り鶴を鮮血色に染め上げる。
そのとき、男の緑色の両眼が淡く光る。
真紅の折り鶴はブルブルと痙攣した。紙がくしゃりと潰れ、ひしゃげ、歪み、形を変える。ただの紙だった表面に細く薄い産毛が生え、徐々に全体を覆っていく。サイズは大きくなって膨らみを持ち始めていき、まるで捏ねた粘土細工のように顔の窪みが作られていく。
羽毛が生え、眼玉がつき、尖った口先がくちばしになる。キューキューと絞り出すような雑音が少しずつホーホーと聞き馴染みのある声に変化していく。
やがて紙の折り鶴は、純白のハトへと姿を変えた。作り物ではない。まさしく本物の、生命体としてのハトである。
女の手の中でバサバサと羽根をはためかせた白ハトは暴れ出しフロア中を飛び回った。
車座になって瞑想していた者たちはその光景に感嘆の声をあげる。
「おお……さすが導師さまです! これぞ神の御業! ほうら、神の使いが舞い踊っている!」
「まさしく奇跡! 僕たちは奇跡を目の当たりにしている! 神の世界と接続したのだ!」
「次こそは私が選ばれるよう、一層修行に励まねば……」
ハトはしばらく空中をのた打ち回るように飛び回った後、天井に脳天をぶつけて床へと墜落し動かなくなった。彼らは命が生み出された奇跡的な瞬間を目にしたことに酔いしれてしまい、ハトがすぐに亡くなったことなど一切目もくれていなかった。
導師と呼ばれていた男は彼らの狂信的なリアクションを見てウンウンと数度頷いた。
(って、いやいやいやアホかこいつら。こんなわけわからん宗教にハマるか普通!? ふざけた衣装に西アジアの言語、それなのに仏教や道教思想がベースになっていて、なぜか道具は日本神道? なんだこの宗教キメラは。……いいやむしろ逆。どこにでもいる普通の人間を取り込むため、あえて世界各地の宗教のフックとなる部分だけを良い所取りで集めたってわけか。教義もへったくれもねえ。ったくカルト信者ここに極まれりだな)
信者たちは熱狂もそのままに、一人ずつ順番に祭壇の前へとやって来ると床に膝をついて頭を下げてから少なくない額の札束を置いていく。
(まあ所詮は俺も雇われだ。この国で信者を確保して資金を送る。それさえやっていれば贅沢な生活は保証されているからな。能力者っつっても俺みたいな規模の小さい五等級程度の転移系能力じゃどうせ戦闘には向かない。今までだってコソコソと能力を使ったマジシャンもどきをやりながら生活費を捻出してきたが……。こういう小銭稼ぎに使うのがコスパ最強! ってな)
導師と呼ばれたニコニコ笑いながら信者たちへと語り掛けた。
「清貧こそ魂の修行です。欲の象徴たる金銭を手放すほどに、皆さんの精神は神の世界へと近づくでしょう。そう、翠玉様のようにね」
導師の男は自身の雇い主の名を口にした。信者にとってはこれがキラーフレーズなのだ。
彼のように転移系の能力を使って命を生み出したかのように見せかけるトリックじみた小手先のまやかしではない。
正真正銘、無能力者を能力者にすることができる。彼らの宗教の教祖。それこそが翠玉と呼ばれている存在だった。
(かくいう俺も翠玉って野郎がどんな奴かは知らないけどな。スカウトされたときは従者が仲介していたし報酬だっていつも振り込みだし……。まあ、本国では大勢が本物の奇跡を目にしているっていうんだからガチなんだろう。俺みたいなペテン師とは違って)
導師と呼ばれていた男は貼り付けた偽りの笑顔の下でケッ、と唾を吐いた。たかだか五等級の能力では勝ち目もないので逆らう気などはないのだが。
自分には強さはないが、その代わりにカネがある。信者たちが積み上げていく生々しい札束の山にふらふらと引き寄せられるように歩いていたそのとき。
鋭い叫音が厳粛な空間を切り裂き劈いた。
割れる窓ガラス。響き渡る悲鳴。満月を背にして飛び込んできたのは、信者たちの白い格好とは正反対の漆黒であった。光を最果てまで吸い込む迷いなき無謬の闇。
「ククッ、己が人生を偽りの神へと委ねる愚かな大衆よ。さあ。狂瀾の晩餐会のはじまりだ」